暖かな春の陽気は周りの人間の気持ちを解すように、当たり前のように心地が良かった。雲がないとは言い切れないが、天気の良い青い空。鳥達が一斉に空を飛び交う様は感動すらも覚えるほど。花の香りに誘われるよう、徐に足を外に踏み出せば、蝶が一羽、目の前をひらりと飛んでいった。
身なりを整えたノーチェは落ち着いた気持ちで青空を見つめていると、「気分は良いか?」と声を掛けられる。ふと振り返れば、ノーチェの目の前に白が一面に広がっていて――。
「うわ……」
反射的に身を縮めたノーチェに、終焉は「そう怯えなくて平気だ」と声を掛ける。咄嗟に閉じていた目を恐る恐る開くと、目の前には終焉の顔が随分と近くにあって、熱心に何かをしているようだった。その目線を追えば、先には白い布と黒い手袋をつけた終焉の手がある。ぱちん、と音を鳴らし終わると、「よし」と言って男はノーチェから身を離した。
見ればノーチェは自分自身が服の上からローブを着せられたことに気が付いた。白くて、留め具のついたローブはフードもついていて、終焉はそれを手に取るとノーチェにぐっと被せる。体重が突然傾いて、踏ん張れなかった彼は一度体勢を崩したが、すぐに何事もなかったかのようにゆっくりと顔を上げた。
「ふむ……まあ、違和感しかないが……首元は隠れているし、問題はないか」
一度見定めるように頭の先から足の先まで見つめた終焉は、ノーチェの顔を見て小さく頷く。違和感を覚えているのはこちらも同じだ、とノーチェは自分の身なりを確認するよう腕を上げて見たが、自分が一体どんな姿なのかは想像もつかない。――ただ、違和感のある足を見て、上目で終焉をちらりと見やる。
履き慣れてもいなければ見慣れてもいない青い靴。銀や灰色に染まったラインと靴底が特徴的で、側面には青く輝く宝石のようなものがつけられている。――これは、終焉が常に履いている愛用の靴だった。
始まりはそう、朝から終焉が「外に出よう」と言ったのが始まりだった。突然のことにノーチェは寝癖を直して、身なりを整えて、終焉の目の前でちまちまと朝食を頬張り、「美味いか?」と聞かれれば小さくとも頷いてみせた。相変わらず終焉は何故か味の心配をしていて、ノーチェが頷くのを見るや否やほっと胸を撫で下ろすように、深く息を吐くのだ。
朝食は要望通りいくらか量が減っていた。尚且つ口に含みやすい軽さを兼ね備えたそれに、ノーチェはある種の感動すら覚える。
普通、奴隷が口答えしようものなら理不尽にも似た暴力が飛んでくる。それは、自分が反省の意を示すまで、ではなく、あくまで主人が満足するまでだ。そうなるくらいなら口を出さなければ良いだけのこと。どれだけ理不尽な目に遭おうとも、ノーチェは口答えすることなく――しかし、目的のために多少の反抗を示しながら――ただじっと耐えていた。
それがどうだろう。終焉はやはり「買ったのではなく攫った」と言うほど、徹底してノーチェへの対等な関係を求めた。理不尽な暴力など男は見せる素振りもない。それどころか衣服の次は靴を新調すると言うのだ。
それには気を遣わなくて良いと言っているにも拘わらず、男は子供宛らの頑固さを兼ね備えているようで、一度言ったら他の意見は聞き入れてくれないよう。靴を買うと決めればそれ以外は目に入らないらしい。
ノーチェはそれに呆れにも似た感情を覚え、小さな溜め息を吐きながらどう断ってやろうかと考える。奪われ続けてきた分、与えられることに慣れていないと言えばそうなるのだろう。終焉の意志は固く、何を言っても跳ね返されてしまいかねない。
そうならないよう、ノーチェが咄嗟に思い付いた言葉は――。
「……俺、靴ないなら普通、外に出られないだろ……」
――なんていう当たり前のことだった。
男は真面目すぎるが故に目の前の当たり前のことが見えていないように思えた。それを裏付けるように終焉は一度茫然とノーチェの足元を見た後、瞬きを二、三繰り返し、口許に手を添える。「うぅん」と悩む素振りを見せ、「それもそうだな……」とノーチェに背を向ける。
そして、徐に背を向けたかと思えば、ノーチェを置き去りに広間から出ていってしまった。
――正直な話、ノーチェは秘かに「勝った」と思った。心の中で小さなガッツポーズをして、ソファーに腰掛けたまま軽く足をばたつかせる。着替えるという手間がかかったものだが、これで余計な気遣いなどされないだろう、という妙な達成感によく似た感情が胸に募る。
これもある種の抵抗なのではないだろうか。繰り返せばいずれこの腐った世の中から解放される日も近いのではないだろうか。――不思議と、そんな考えだけが頭を掠めていった。
だが、現実とは無情にも彼に生きるための暮らしを与えたがるようで、不意にやって来た終焉の手には靴が一足――見たこともない、黒い、ヒールが高めのエンジニアブーツと呼ばれるものだった。
「良かった。一足だけ余っていたよ」
「………………そう……」
胸をほっと撫で下ろす終焉とは裏腹に、ノーチェはまた異物感のような気遣いを味わってしまうのだろうと思え、言葉に陰が隠る。外に出れば首元にある鉄製の堅苦しい首輪が酷く目立ち、再び好奇な目を向けられるのだろう。服で隠されたとはいえ、傷痕も酷く、見るに堪えない。
――奴隷として買われていた頃と比べればどちらが良いかなど、答えようがない。所詮どちらも同じような目に遭わされて来たのだから、どちらが良いかなど決めようにもない。
そう思えば服を与えられた分、好奇な目も少しは楽になるのではないか――?
ノーチェが呆れるように茫然としている最中、終焉は何かを察するように「嫌なのか?」と首を傾げる。嫌と訊かれれば嫌と答えたくなるのだが、生憎ノーチェは今それを素直に答えられる自信はない。
徐に「別に」と呟いて軽く俯けば、いくらか声のトーンが落ちた終焉の声が降り注ぐ。
「……嫌なら悪いな……見せたい景色もいくらかあるのだ」
それは、妙に泣きそうな声色で――、咄嗟に顔を上げたノーチェの目に映ったのは、靴を手に持ちながら「だがこれは駄目だよな……」と一人呟いている終焉だ。声色などこれっぽっちも変化がないと言いたげな無表情で、口をへの字に曲げたまま靴を置くと、「仕方ないな」と口を洩らす。
一瞬でも終焉一人が外に出るのかと思った自分が居た。――しかし、終焉の行動を見てノーチェはその考えが間違いであるのと同時、この攫い手がどこまでも強情であることを思い知らされる。
男は持ってきたヒールが高いエンジニアブーツを床に下ろすや否や、徐に自分の裾を捲り、露わになった宝石よりも上のラインを手でなぞる。どうやらそこに留め具があるようで、小さく弾くようなぱちん、という音が鳴ったと思えば、終焉はそれを片足ずつ脱いでいく。
何をしているのかと問おうかと思ったが、嫌でもノーチェにはその行動の意味が分かってしまって、ぐっと体を硬くする。それが終焉には抵抗があるように思えたのだろう――自分の脱いだ靴を見て、ハッとしたように「あ」と呟くと、それらを持ち、「消臭してくる」と言い捨てて再び扉の向こうへ行ってしまった。
再び取り残されたノーチェは遂に「そういうことじゃねぇんだよ……」と口を洩らした。――途端、終焉がふらりと姿を現し、広間へと足を踏み入れる。運が良いのか悪いのか――ノーチェの呟きは聞こえなかったようで、「少しはマシだと思うのだが」と呟いてはノーチェの足元にそれを置く。
「少しばかり大きいかも知れないが、まあ、新調するまで我慢してくれ」
恭しく跪いてこちらを見上げる様はまるで騎士か何かかのように思えたが、今のノーチェにはそれが例えようのない別の何かに見えた。直接言わずとも察せるよう、端々に染み付いている拒否権を感じさせない言葉に、ノーチェは小さく項垂れて――「分かった」と折れた。
終焉の言った通り確かに靴は多少大きく、更に言えば歩きにくいの一言に尽きる。――しかし、白いローブを被せてきた終焉の足元を見る度に口を噤んでしまった。今まで低い靴を履いていた男が、今日になって突然ヒールの高い靴を履き始めたのだ。その歩きにくさと言えば諮り知れたものではないだろう。下手をすれば踏み外して足を捻る可能性すらあるかも知れない。
その点を考慮すれば、今の状況は少なからず良い方だと思えるだろう。――最も彼にとって最善の方法は素足なのだが、いかんせん目の前の男がそれを許すようには思えない。
試しに屋敷から出て数歩歩いたが、足の周りの隙間が空いているのが妙に気に食わない。脱げるようには思えないが、「履かされている」感覚が異物として認識されてしまう。今すぐにでも脱ぎ捨ててしまいたいものだが、今に至るまで靴を履いていたと思えば、元に戻っただけなのだと無理にでも思うことが出来た。
石畳のない道が出来た土の上を終焉が慣れた様子で歩いて、ふと屋敷を見上げたまま立ち止まる。軽く足先で土の上を数回叩いたかと思えば、下げていた腕をゆっくりと上げ、人差し指で屋敷を指す。――その見慣れない行動にノーチェは凝視していると、不意に男の足元の影が揺らいだ気がした。
「…………?」
目が疲れたのだろうか。
そう思い、徐に目を擦るが、先程のように終焉の足元の影を見ても一向に揺らぐ気配がない。風が吹く度に若葉や木々、花達がさわさわと音を立てて揺れ動くように、風に煽られて終焉のコートがふわふわと動いているだけだった。――恐らくそれを見間違えたのだろう。
足元と目の慣れない感覚に、ノーチェは徐にふう、と溜め息を吐くと、終焉はくるりと身を翻す。黒を強調する艶やかな髪が、今日はよりいっそう艶めかしく見えた。風が吹く度にそれもまたさらさらと絹糸のように靡いている。きっと、女だったら誰も彼もが魅了されたに違いない。
そう思えるほど、日に照らされた男の存在は浮かされていた。背景のように馴染む訳ではない。ただ、普段目立たないそれが、日の下に晒されると途端に存在を主張しているように思えたのだ。初めてだと言える感覚――というよりはどこか懐かしい気がして、ノーチェは思わず首を傾げた。
「行こうか」
静かに紡がれた言葉にノーチェが何のことだと言わんばかりに茫然としていると、終焉は真横を通り過ぎて彼の元から距離を取る。思わず「待てよ」と言いかけた唇を閉じてその背を目で追うと、終焉は足を止めて「おいで」と言わんばかりに手を差し出している。
心地の良い晴天だと言うのにも拘わらず、終焉の手にはしっかりと黒い手袋がはめられていて、やはり見ていると熱を呼び覚まされそうな感覚に陥った。その差し出された手を取るかどうか、一瞬の思考に頭を悩ますが、良い大人が、手を繋いで歩くなど端から見れば滑稽極まりない。
思わずノーチェはその手から目を逸らし、そそくさと終焉の元へ駆け寄る。慣れない靴に足が縺れかけたが、何とか持ち直した。髪の隙間から差し込んでくる日の光が目に痛い。――つい顔をしかめると、終焉は差し出していた手をノーチェの頭に手を伸ばして、「もっと目深に」とフードごとノーチェの頭を撫でる。
「それと、街に行くのにはぐれたら困る。手じゃなくて良いからどこかをしっかりと握ってくれないか?」
そう言って終焉はパッと両手を軽く広げ、好きなところを掴めと提示し始める。
黒い髪に黒い服――それもロングコートときたものだ。暑苦しいそれにノーチェは思わず目眩を覚えた気がしたが、頭を振ってじぃっと終焉を眺める。白いラインが特徴的な黒いコートは男にとっても少しばかり大きいようで、どこかゆとりがあるように見えた。袖の辺りをよく見ればシャツの袖がちらりと覗いていて、丈は合っているのだろう、と考えさせられる。長い裾から覗く足元の服でさえ黒く――まるで、その色こそが男そのものだと言わんばかりに主張され続けた。
裾を摘まもうにもノーチェの背丈からすれば少し低すぎる。だが、胴体の周りを摘まむのもどこか気が引ける。
「…………」
結局ノーチェが選んだのは、上げられていた黒地に白のラインが施された手元の裾だった。人差し指と親指で先を摘まんで、手を握るよりは遥かにマシだろう、と暗示をかける。――そう、マシだ。男二人が仲良く手を握るより――。
「――まあ、街に着くまで不必要なのだがな」
「……」
不意に溢れた終焉の言葉にノーチェが睨む気持ちでじっと見つめた。終焉の表情は一切変わらないのだが、不服そうに離されたノーチェの指先を見るや否や拗ねるように「何だ」と言う。別にそのまま持っていても構わないのに、と。
それにノーチェが呆れを表立たせるようにはあ、と溜め息を吐いてから「普通、男二人がそんなことしてたら気持ち悪いだろ」と口を溢す。小さく、しかしはっきりとした言葉で。それに終焉は瞬きをして――。
「私は貴方を愛しているのでそんなことは思わない」
――と言った。
くるり。終焉がノーチェに背を向けて歩き出そうと足を踏み出す。そこで、ノーチェは思い出したようにハッとした。――そうだ、自分はこの男に何故か愛されているのだ、と。理由も教えられず、形も確証もない奇妙な愛情を向けられているのだと。
それでいて男は彼に向かって「殺してくれ」と頼むものだから、ますます分からなくなるものだ。
見つめる先でヒールが土を抉るように踏み締めていく。置いていくぞと言わんばかりの足取りで、ノーチェは本当に立ち止まっていてやろうかと考えたが、「早く」と終焉が振り返って呟いた。
「…………俺、本当に」
要らないんだけど。そう言ってやるつもりで口を開けば――終焉は軽く瞼を落としたかと思うと、じっとりという表現が似合うかのような目付きでノーチェを見つめていた。赤と金の異なる瞳が言葉を制すように微動だにしない。
それに何を言っても聞いてくれない、と折れたのだろう。――ノーチェは重い足を持ち上げて、ゆっくりと足を踏み出した。