足を踏み入れた先ははっきりと言えば場違いだと言いたくなるような場所だった。
石畳を踏み鳴らし軽く引かれるように先導に出る男の後ろを歩くノーチェは、そのあまりの人の多さに目眩さえも覚えてしまった。前後左右のどこを見ても人、人、人。時折前後から人がぶつかってきては体勢を崩しかけてしまい、摘まむだけだった筈の袖はいつの間にか強く握り締めている。
溢れんばかりの人の多さに、予想外と言わんばかりに目を回すノーチェ。その様子を見かねた終焉は慣れた足取りでノーチェを引きながら人を避けるが、ほんの少し道を外れ、裏通りへと入る。引かれるままにノーチェはそこへついていくと、表よりも遥かに人の少なさが見てとれた。
「この行事は案外人気だからな」
「聞いてない」
口許に手を当てながら終焉はノーチェを眺める。余裕だと言いたげに二本の足でしっかりと立っている終焉とは異なり、ノーチェの微かに息を切らしながら小さく俯いている。フードや髪の隙間から覗き見える白い顔は、心なしか青く見えた。
もしや彼にとってこれはよくないものではないのか、と終焉は何気なくノーチェの頭に手を置く。「平気か?」と訊いて、その様子をじっと窺った。あまりの人の多さに彼は酔っているようだ。咄嗟に道を外れたものの、祭りに身を投じることが滅多にない終焉はこうなることは予想していなかったようで、困ったように眉尻を小さく下げる。
なんてことはない。ただ人の多さに目が持っていかれるだけ。動くものをどうしても視界に入れたがる人間の目が、彼の脳に刺激を与えたにすぎない。景色を見渡すように人に目を奪われていたノーチェは、一度大きく息を吐くと、その後にゆっくりと息を吸う。自分の体調を落ち着かせるように数回深呼吸を繰り返して、落ちていた顔を上げる。
ふと見えたのは終焉のやけに心配そうな表情で、ノーチェは反射的に「大丈夫」と呟くと、いやに安心するようにほっと胸を撫で下ろす。
「愛している」などという言葉もこう見れば伊達ではないのだと思わされるようだった。
終焉はノーチェの言葉を聞くと「早めに終わらせよう」と言って、表通りに戻ろうと手を差し出す。その表情は今までに見たものとまるで変わらない、ただの無表情がそこにあった。
「何なら手を繋ごうか?」
「……冗談……」
――しかもその表情で冗談など言うものだから、彼にはそれが本気かどうかも分からない。
ノーチェは街に足を踏み入れたときと同じよう、終焉の袖を掴んだ。あまりの人の多さに観念して、「摘まむ」のではなく、「握り締める」形にしたのは彼なりの妥協のつもりだった。いくら優しくされようとも、信用などしてはいけないのだ、と言い聞かせるつもりで。
「――……冗談を言える仲だったと、自負していたのだがな……」
――不意に終焉がそんなことを呟いた。運良く聞き入れてしまったノーチェは、その顔を見て小さく首を傾げるも、男は何も言わず表通りへと顔を向ける。腰まである長い髪が太陽の下では艶やかに煌めいている。邪魔だと言われれば邪魔だと思えそうな長さだ。――これは、長い間伸ばし続けていなければ到底届きそうにもない長さだろう。
それこそ生まれてから一度も髪を切らないままでいない限り、だ。
表通りに戻るとやはり人の波が酷く、簡単に押し流されてしまいそうなほどに溢れ返っている。心なしか、先程よりも人が増したように思え、ノーチェは怪訝そうな顔を一つ。流されないよう、終焉の袖を掴む。
長い黒髪を目で追うのもよし、黒い背中だけを見つめるもよし。――しかし、やはり人間は周りのものに目を配らせてしまうようで、ノーチェは通り過ぎていく相手をじっと見てしまった。
そうして分かるのは街が賑やかであるという事実と、――髪色があまりにも明るいことくらい。すれ違う人々は大抵が金髪だったり、見慣れない水色だったり、くすんだ緑色だったりして、世界が目まぐるしく回っているようだった。祭りということもあってか、甘い香りが混ざっていて、時折それが誰かから漂っているのかと思ってしまうほどだ。
――気になるのがそれだけなのなら、目を惹くほど彼らには見入ってはいないだろう。引かれながらも周囲から終焉へと目を移したノーチェは、朧気ながらも確信を抱いてみせる。
無彩色の髪色が全くもって居ない。――正確に言えば、黒髪を持つ人物が目の前の男以外に居ないということだ。
すれ違う中で数人見かけた親近感の湧く白髪の持ち主は、肌の色が異様に白く、日の光から目を守るよう、目を隠す道具を持っていた。街の外ではよく見かけていた筈だが、ルフランでは稀に見る存在。一般的にいう先天性白皮症――所謂アルビノ、というものだ。
赤い瞳は日の光に弱く、白い肌でさえも焼けるように痛むだろう。日の下に晒されたその白い髪はノーチェと似ているようで、似ていないもの。彼はその髪色に一度目を奪われたが、微かに見えた赤い瞳を見て、ふと目を逸らす。自分とは全くもって違う瞳が、自分とは違う人種なのだと囁いているようだった。
しかし、黒髪といえば目の前の男以外には一度もすれ違うことがなかった。金や茶色に染まる髪の中に、いっそう際立って見えるその髪色は最早異端にも見える。本来すれ違う立場からすれば、それに目を奪われてしまうものだというのに、人で溢れ返る中、誰一人として終焉の異質さには気が付かない。
――まるで、世界に置いていかれているような気がした。思わずノーチェは「なあ」と口を開いたが、歩き進める度に賑やかさを増していく街に、男の耳には届かないだろう、とすぐに俯いてしまう。
「……呼んだか」
すると、突然終焉が袖を握られた手を引きながらノーチェに話しかけた。
屋敷の中に居るよりもどこか冷めた赤と金の瞳がいやに綺麗だった。聞こえる筈もないと思っていたノーチェは、それに呆気に取られながら「なんでもない……」と小さく口を洩らす。それに終焉は軽く首を傾げ、「そうか」と呟いた後に前を向いた。
距離が空いていると言えば空いていた。何せ、後ろを歩くには男の歩幅も考えて歩かなければならないのだから。いくら言葉を終焉に向けて発したとしても、周りの騒がしさに比べれば蚊が鳴くようなもの。本来なら聞き逃しても構わない筈だった。
それを、終焉は聞き入れてしまった。あまりにも――あまりにも人間の範疇を越えた聴覚だ、と思わざるを得なかった。
「……ん。この辺りでいいか……」
そう言って終焉が足を止めた場所は、賑やかというよりは騒がしいという言葉が似合うような場所で、いくつもの建物が並んでは人で溢れているように見えた。終焉が求める靴がこの場所に売っているのかと訊いてしまいたい衝動に駆られたが、それよりも早く行動に移した終焉は迷いもなくその扉を開ける。
ノーチェはローブのフードを目深にかぶっていて、正直端から見れば不審者にも思われることだろう。――しかし、足を踏み入れ、終焉の後をついていく間に何人かにすれ違ったが、誰も訝しげな目でこちらを見る様子はなかった。
もっと言えば、誰もこちらを目に留めようとは思っていないように見えた。
彼は並んでいる靴を眺めながら思案を繰り返しているであろう終焉に「……なあ」と声をかける。それに終焉はノーチェを見ることなく「どうした」と呟けば、徐に靴を一足手に取り出した。
「……何か、何ていうか……誰もこっちを見てない気がすんのは、気のせい……?」
そう口を洩らすと同時、ノーチェは近くの椅子へと座らされる。
「――流石だな、ニュクスの遣いは。まあ、面倒事を避けるための何かをしていると思ってくれ」
唐突に呟かれた言葉にノーチェは胸元が騒ぐような気持ちに陥った。言ってもいないことを何故男が知っているのか、それが気になった。――しかし、終焉が妙にノーチェについて知っていて、尚且つ以前に会っていた口振りをするものだから、「この人はこういうものだ」と自分を落ち着かせることができた。
ほう、と溜め息を吐いて、胸元に手を添える。よく知りもしない相手に素性を知られているのはやけに緊張するものだった。どくどくと鳴る心臓が手のひらに伝わってきていて、とても気分が悪くなるものだ。早く落ち着けと言わんばかりに強く目を瞑ると、ぱちん、と小さな音が鳴る。
「…………何してんの」
「ぴったりじゃないか」
見れば終焉が朝と同じよう、恭しく跪いてノーチェに靴を履かせている。先程の終焉が愛用している靴とは違い、黒い靴だった。ブーツだと言われればそうだと言えそうな長さのそれは、妙に懐かしいような気がしてならない。
本当なら受け取りたくないと目を終焉に向けると、終焉はいつの間にか店員の元で何かを話している。恐らく終焉は、この靴を問答無用でノーチェに買い与えるつもりだろう。――足早にノーチェに駆け寄ってタグを切る店員の様子を見れば、事情を知らなくとも手探りで分かるものだった。
「別に気にしないのに」何気なく独り言を呟けば、それは男に聞こえてしまっていたようで、勢いよく頭を撫でられたかと思えば、終焉は「そう言わずに」とノーチェを制す。
用がなくなればノーチェに袖を掴ませて、終焉は足早に店を後にした。居心地が悪いと言いたげなその様子にノーチェは首を傾げるが、彼とて察しが悪いわけではない。一つの場所に留まりさえすれば、男の言う〝教会〟というものが男を見付けかねないからだ。
「この街は〝教会〟に支配されている」――そんな言葉が彼の脳裏を掠める。それは、終焉にとってどのような意味を示しているのかも、この街にとってどんな意味を孕んでいるのかも分からないまま、彼はひたすら終焉の後を追った。
早めに終わらせようと言ったにも拘わらず、終焉の足は屋敷からは遠退いているようで、比例するように人が溢れていった。「次はどこに行くんだ」と口を開きかけたが、人がぶつかる衝撃に耐えられず、ノーチェはつい袖から手を離してしまう――。
靴が真新しくなった所為だろうか。足は縺れ、ノーチェは石畳に手をついてしまった。
「悪い! 大丈夫か!?」
そう声をかけてきたのはぶつかってしまった相手だろう。ノーチェは顔を上げると、短い茶髪に新緑の瞳を持った優しげな男と目が合う。隣には金色の髪を緩く巻いた綺麗な女が心配そうな表情でこちらを見ていることから、彼らは親密な仲なのだと窺える。
暫くの間に事態が呑み込めずノーチェはその顔を茫然と眺めていたが、それを相手はどう捉えたのか、「立てないのか?」と眉尻を下げながらノーチェに手を差し出した薬指に銀の指輪が煌めいた左手が、彼の前に差し出される。
「ごめんな、立てないなら病院に――」
優しげな声色が途切れると、その男は数回瞬きを繰り返していた。
何かと思い、ノーチェはその顔を見ていたが、その目が自分の首元へと向けられていることに漸く気付く。鉄か何かで作られたであろう、魔法が施された特殊な首輪だ。ここでも奴隷を売ることがあるほどなのだから、住人もそれなりに彼らについて知っているのかもしれない。
そして、この街では奴隷を攫うという出来事が起こったのだ。商人の人間も、重要な商品をそう易々と逃すだけの木偶の坊ではないだろう。今頃は街中に情報を広めているのかもしれない――。
「あ、あんた……その」
背筋が凍るような感覚を覚えていると、突然ノーチェの視界が暗転した。目を塞がれた、と分かったのは顔に当たる布の感触からだ。一瞬だけ身構えるように息を呑んだが、警戒など必要ないのだと気が付いたのは、低い声が落ちてきた辺りからだった。
「――すまない。私の連れが迷惑を掛けてしまったな」
「……え?」
目を隠していた手は思ったよりも早く離れ、何気なく目線を石畳に落としていたノーチェはふと目を疑う。終焉が何かを小さく呟いたと思えば、足元の影が屋敷を出たときと同様、揺らいでいた。――正確に言えば、ノーチェのものと思われる影の背後にある影が、恐ろしいもののように蠢いていたのだ。
地を這う蛇か、地面に張り巡らされているであろう木の根か――そのどれにも当てはまらないそれは、瞬きをするとあっという間に元の形へと戻る。ハッと意識を取り戻す頃には声の主は「悪かった」と言って、何事もなかったかのように仲睦まじく立ち去っていった。
「……すまない。もう少し注意を払うべきだった」
申し訳なさそうな声が落ちてくると、ノーチェは手を引かれ勢いよく立ち上がらされる。周りの人間の足元しか見えなかった視界いっぱいに映り込んだ終焉の顔が、何の感情もなくただじっとノーチェを見つめている。
思わずノーチェは「いや……気にしなくても」と口を洩らしたが、男はやけに自分に厳しいようで、小さく左右に首を振って「もう少し気を付ける」とだけ呟いた。
気を付けるくらいなら外に出さなければいいのではないか。
――なんてことを思いながら再び終焉の袖を掴んだノーチェに、男は「小腹が空いていないか?」と問いかけた。