光明の裏、交差する敵意

 ――何が起こっているのか判断に時間が掛かった。
 かろうじて見える景色には人の目など映らない。ただ走るように過ぎていく建物がぎりぎり視認できる程度で、人など自分に襲いくる波に抵抗するので精一杯だ。口許に手を当てられているらしい――ノーチェは息ができないと分かるや否や、動く手でそれを外そうと手をかけた。
 すると、それに従ってやるように手が離される。――いや、投げ飛ばされたのだ。体を強く石畳に叩きつけられ、全身を襲う鈍い痛みに彼は小さく呻き声を上げる。息はできない。あれだけ求めた酸素がそこら中にあるというのに、動悸と共に脈打つ痛みが呼吸の邪魔をする。
 ああ、痛い。――そんなことを思うよりも早く視界に映る手のひらを見て、彼は「あ、」と吐息にも似た声を洩らした。
 手の中に納めていた筈の、終焉がわざわざ買ってきたクレープがどこにも無いのだ。恐らく、こうなると共に地面へと落としてしまったのだろう。美味しかったのだろうが、生憎ノーチェは「美味い」の判断基準を忘れかけている。それが本当に美味しかったのかは定かではないのだが、勿体ない、と頭の片隅で思う。
 食事を摂るところを見せなかった終焉がぺろりと平らげてしまったのだ。食べきるのがよかったのだろうが、終焉にあげる方が、地面に落としてしまうよりはマシだった筈だ。勿体ないことをした。これだから食べる気がないのだ。

 茫然と思考に落ちるノーチェを他所に、それが「くそっ」と悪態を吐く。
 住人に紛れて気が付かなかったその深い緑のローブ。しっかりと付けられている馬の形を模した金の留め具。極めつけは手を負傷してしまっているかのような謎の包帯――それは、ノーチェを連れてルフランにやって来た〝商人〟そのものだった。
 男はノーチェを見下ろして肩で息をする。漸く呼吸が整い、痛みが無くなってきたノーチェはちらりとその顔を見やると、目が合った男が虫を見るような目付きで睨んで――半ば衝動的に彼の腹を蹴る。

「――……っ」

 随分と人気のない場所に連れてこられてしまったようだ。辺りは建物や壁ばかりで、人の声が随分と遠くから聞こえてくる。この状態では誰がどこに行ってしまったのかも、誰も気が付かないだろう。――だからこそ、暴力や麻薬など、人の目についてはいけないことが行いやすいのかもしれない。
 突然溝尾を蹴られたノーチェは、痛みに声を上げることはなかったものの、咄嗟に口許を押さえる。先程と同じように脈打つ度に襲いくる鈍痛が、先程まで口にしていたものを競り上げてきてしまっているようで――。

「うっ……ぇ……っ」

 びちゃびちゃと水音と共に何とも言えない色のそれが口から吐き出される。思わず「汚い」という言葉が脳裏を掠め、鼻を突くつんとした匂いを遮るよう徐に口を拭う。彼の視界の端では「汚い」だの「手がかかる」だの男が呟いていて、もう一度理不尽な暴力が振るわれても可笑しくはなかった。
 しかし、男にとって嘔吐は都合が悪いのだろう。悪態を吐きながらも暴力が再び飛んでくるわけではなく、何かを気にするようにちらちらと辺りを見渡している。男の見る方には人だかりができていて、誰もこちらを気に留める様子もなさそうだった。
 ノーチェは吐き出してしまったそれを見て、より食事という概念が遠く思えてしまう。食べてもどうせ戻してしまうのだから、あまりにも勿体ないと。口許を拭って――それが終焉が買い与えてくれたものだと気が付いたとき、やってしまった、と妙な寒気を覚えた。
 わざわざ買ってもらい、それを着させてもらえているのだ。今は当分あの屋敷を離れることはなさそうだが、今後離れたことを考えると、この衣服は終焉が何かしらに使い回すかもしれない。それで、口許を拭ってしまうなどよくないことをしてしまったのではないだろうか――。

「奴隷の分際で随分と可愛がってもらってるみたいじゃねえか……この服は新品かぁ!?」
「……っ」

 その服の襟をぐいと掴み上げ、男がぐっと顔を近付けてくる。小汚い唾が顔に当たって、思わず顔を顰めると、その表情が気に食わなかったのだろう――、男が一度眉間にシワを寄せ、ノーチェの頬を強く殴る。利き手であろうその手は包帯にくるまれている所為か、以前に殴られたときよりも遥かに軽い気がした。
 殴られたことは特に変わらない。普段から理不尽な暴力を受けていたのだ。口の端を切ることも当たり前で、ノーチェの口から赤い血がゆっくりと滴り落ちる。反射的に口許を袖で拭おうとしたが――、ふと服を思い返して手を下ろす。
 一度に留まらず、男は鬱憤を晴らすかのようにノーチェを二、三立て続けに蹴り上げる。顔だけでなく、腹部も、感情の全てをぶつけるかのように。
 それにノーチェは抵抗こそはしなかったが、呻き声を上げなければ泣くこともなく、ただ黙ってそれを受け入れ続けた。まるで糸が切れた操り人形のように両手をだらんと下ろし、虚ろな瞳でぼうっと辺りを見る。
 ――やがて、男の暴力が収まると、ノーチェは壁に寄り掛かったまま地面を眺め、口に手を当てる。歯は折れていない。恐らく喋るのにも支障はなければ、食事をするのにも支障はないだろう。口許を拭うのに手のひらを使った所為か、ぬるぬると生温い液体が手のひらに広がってしまって、心地が悪い。
 そんな彼の反応が気に食わないのか、男は何度か舌打ちをすると、再び何かを警戒するように向こうに目を向ける。路地の向こうは相変わらず賑やかで、更には盛大な祝いごとが行われているのだろう――「きゃーっ」と子供達のはしゃぐ声が小さく耳に聞こえる。

「祭りだか何だか知らねえが、折角見つけた獲物をまた逃がすわけねぇだろ……」

 その口振りからして、男は随分と前からノーチェの姿を見つけていたのだろう。――しかし、人の多さと、一時も離れずに傍に居た終焉の存在があって、今まで手が出せなかったようだ。
 ――そう言えば終焉はどうしたのだろう。
 不意に思い出したのは、黒い服を纏う男の存在だった。終焉は絶えずノーチェの傍に居て、それなりに彼のことを気にしていた筈だ。何に対して大丈夫だと言ったのかは分からないが、ノーチェを見失ったことに多少の心配はしているのかもしれない。
 ――何せ、小さな傷でも比較的大袈裟な反応を示したのだ。殴られ、血を流すノーチェを見た途端、一体どんな反応を示すのだろう。

 いくら見ても空は青く、眩しい光は絶えず世界に降り注いでいる。きらきらと反射する窓の光はノーチェの目を焼いてくるようで、徐に上げかけていた顔を地面に落とす。
 突然姿を消してしまったのだ。多少の時間が経っているとしても、終焉がノーチェを見つけられるような気がしない。きっと、いつもの奴隷生活に戻るのだろう。
 何気なく鎖の切れた首輪にそっと手を当ててみた。何も変わらないが、鎖があるかないかで多少の変化は見られたような気がする。楽な時間は案外簡単に失われてしまうようだ。あの屋敷での待遇の良さは最早夢のようだった。できることなら、奴隷になる前に会えたらどんな気持ちだったのだろう――。

「ああ……クソッ……どいつもこいつも紛れてわけが分からねえ……!」

 ふと、ノーチェは男の声に耳を向けた。じくじくと痛む頬に気が向いてしまいがちだが、男が何をしているのか、多少の興味を持ちたくなった。
 恐らくこの〝商人〟の男は終焉を認識している。この間に起こった奴隷拉致事件で建物の崩壊と、戦闘が勃発したほどだ。ノーチェはそのときの光景など見ていられなかったが、男は終焉を見たに違いないのだ。
 ――だからこそ、彼は思う。「この男は一体誰を探しているのか」と。

 終焉の姿は誰がどう見ても殆ど黒に彩られている。髪も、服も、手袋も。それは一目見ればかなり目を惹いて、忘れようにも忘れられないような外見であるだろう。更に言えば終焉の容姿は男の中では随分と綺麗な顔立ちをしていて、目元の縦に刻まれた傷痕さえなければ完璧だと言えるほど。極めつけは、ガラス玉のように――時には獣のように鋭く光る赤と金のオッドアイが特徴的だ。
 多少の時間を共に過ごしてきたノーチェでもそれだけの情報はしっかりと頭に入れている。それどころか、靴の色は群青に近い色合いの、宝石が施されたものだという認識も十分にしている。
 ――だが、目の前の男はどうだろう。聞き耳を立ててみれば「あの男」だの、「長髪野郎」だの、一見終焉のことを指しているような口振りをしているが――まるで、一番の特徴を挙げていない。
 例えばノーチェが終焉のことを指し示すとするならば、こう言うだろう。――「黒い髪の男」だと。――「黒い髪の、黒い服を纏った長身の男」だと。
 しかし、男はまるでその特徴を挙げようとはしなかった。聞く限りでは、「顔に傷のある男」としか言わず、男が何を警戒しているのか全く分からない。
 果たして男は、一体何に怯えているのだろうか――。