来客の訪問、煽る言葉

 それは、小さな御茶会から数日経った、じっとりとした湿気が体にまとわりつくある日のこと。ノーチェは漸く慣れてきた足取りで階段を下りると、エントランスに黒衣を纏った終焉の姿があった。湿気を体に感じているノーチェはその格好がやけに暑苦しく思え、思わず顔を顰めると、徐に終焉が振り返ってノーチェを見つける。すん、と彼は咄嗟に無表情を取り戻し、何気なく終焉の傍へと近付いた。
 「どっか行くの」そう呟けばノーチェの頭を男は撫で、「ちょっとな」と口を洩らす。頭を撫でられる理由は恐らくない筈だ。ノーチェは乱れた髪をパッと払ってやると、「髪、切ろうか?」と終焉が問い掛ける。首を傾げ、ノーチェの意志を尊重するかのような態度だ。
 ノーチェは首元に回り込む髪を一房つまみ上げ、じっとりそれを見つめる。ここ最近――終焉が居座る屋敷に来てからそこそこ手入れが行き届くようになったようで、以前のような毛先のパサつきなど全くなかった。首元にかかるのは妙にくすぐったく思えるのだが、今となっては特に気にならないというのが本音だ。

「……今はまだ、この方が見えないから……」

 くっと毛先を引っ張って、ノーチェは今も尚外れる兆しを見せない首輪にそっとかぶせる。心なしか、髪の毛のお陰で多少認識はしにくくなったような気がした。「ノーチェがそう言うのなら」終焉はどこか不服そうに呟いたが、ノーチェの意志が優先だと言うようにふ、と肩を落とした。
 彼は男の考えなど一向に理解できなかったが、髪の毛を切るのも悪くなさそうだな、と毛先を指先で弄ぶ。すると、終焉はエントランスの扉に手をかけて、「すぐ戻るから」と言った。

「もし…………もし来客があれば相手してやってくれ」

 出ていく間際に落とされた言葉に、ノーチェは軽く首を傾げてみせる。
 滅多に人は来ないと言っておきながら客人を相手にしろというのだ。扉が閉まる前に見ていた、長い髪を靡かせるその姿は嘘を吐いているようには見えなかった。しかし、鈍色の雲に覆われた曇天の下を歩こうとしていたためか、いやに気だるそうに見えたのは気のせいだっただろうか。
 ばたん。重い扉が閉まる音が静かな部屋に響く。ノーチェは終焉が出ていった方をじっと見つめていて、やることも与えられなかったと気が付くと、何気なく客間へと向かった。
 そこは相変わらず大きな窓が印象的で、ノーチェは赤いソファーへ腰掛けると空を仰ぐように反り返る。太陽も見せない、雨が降りそうな重い空は酷く眠気を誘ってくるようだった。うつらうつらと船を漕ぎ、目を閉じて呼吸を繰り返せば知らない間に眠ってしまっているのではないかと思うほど。
 しかし、晴れ渡った空に比べればいくらかは心地が良かった。
 ノーチェは茫然としながら空をじっと見つめていた。特に意味のない時間を過ごすように、足を放り投げて力を抜いて空を見ていた。家主がいては決して見せることのないだらけた姿だ。
 ――今日はあとどれくらいで帰ってくるだろう。
 気の抜けた姿など見せるわけにはいかない。だが、こうして脱力するのも悪くないと思えるのだ。恐らくノーチェは自分でも気が付かない間に、終焉に対して気を張っているのだろう。何をすべきか、何をしないでおくべきか、次はどう動くのか――顔色を窺う日々が常に癖になっているのだから。
 視界の端に映る紫陽花の葉がさわさわと揺れ動いている。窓を閉めきっている所為か、どれほどの風が吹いているのかも予想できなかった。今夜辺り雨が降るのではないか――そう、考えを張り巡らせることしかできやしない。

「……ティーカップと、ポットと……ヤカンに紅茶…………」

 こんな天気で誰が来るのだろうか。――そう思いながらもノーチェは先日教わった紅茶の淹れ方を口にする。沸騰したお湯でポットを温める、注ぐときは勢いよく。数分蒸らした後にカップへ注げば美味しい紅茶が飲めるらしい。実際のところ自分でそれが淹れられるのかは定かではないが、終焉が言うには来客があるのだ。覚えておいて損はないだろう。
 しかし、酷く湿った雲が一面を覆い尽くしている。よく見れば向こうの雲はどす黒く、今にも雨を呼び起こしそうなものだ。こんな状況で一体誰が街から離れているという屋敷へ赴くのだろうか――。