ほうほうと沸き立つ熱湯を目の前に、彼はじっと目を向けていた。
納得したくはないが、ヴェルダリアの言葉で突き動かされたノーチェは、誰に見られることもなくキッチンで火を眺める。教えられた通り、ティーポットに入れた茶葉と蒸らすように熱湯を多少入れて中身を温めた。後はお湯を注ぎ、完成まで待てばいいのだ。
この程度のことは恐らく奴隷でなくても、子供でもできてしまうだろう。ノーチェは沸騰したそれを注ぐべく、コンロの火を止める。ぱちん、と何かに引っ掛かるような感触と音が響いた。温まっているであろう持ち手を掴み、慣れるまで一呼吸置く。ムッとした表情のまま、彼はそれをポットの中に勢いよく注ぐと、そうっと蓋を閉めてやった。
この程度は誰だってできるのだ。ノーチェは戸棚からティーセットとシュガーポット、真新しいミルクを用意すると、それらをトレイに載せる。生憎、茶菓子の類いは勝手に漁ってもいいのか分からないものなので、用意のしようもなかった。
彼はむすっとした表情のままそれらを持つと、キッチンの扉を開けてリビングの扉を開けて、リーリエの待つ客間へと向かった。女はどこか不安げな様子でノーチェを待っていたが、彼が何事もなく戻ってきたことを知るや否や、安心しきった顔を浮かべ、ほっと胸を撫で下ろす。
「できた」
「あ、ほ、本当……」
ノーチェはトレイを置くと、終焉が注いでいたように紅茶を濾しながらカップへと注ぐ。茶葉が溢れないよう、ゆっくりと傾けて、白地に金の装飾が施されたそれをソーサーの上に置いた。乱暴にならないよう、割れ物を扱うようにそっと置いたにも拘わらず、食器がぶつかり合う音に多少驚きを隠せなかった。
ノーチェが紅茶を差し出すと、リーリエは「ありがと」と言って長い金髪を耳にかける。角砂糖を入れるだけのストレートを選ぶか、ミルクを入れるだけのミルクティーを選ぶか――彼が眺めていた末に、リーリエが選んだのはミルクティーだった。
女はミルクポットに手を伸ばすと、少量のミルクを紅茶に回すように注ぎ、程好く混ざったところでそれを口にした。「うん、美味しいわ~」と口を開けて笑うその様は、先程の髪を耳にかけたときの女らしさとはどこか違って、慣れ親しみ易いようなものによく見える。
そんな中でノーチェは紅茶を見つめながら「……だよな」と呟いた。彼はリーリエが口をつけたそれが本物のミルクティーだ、と自分を納得させるように口を洩らしたのだ。どこかの誰かのように、砂糖とミルクを同時に入れることもなく、程好い甘味と苦味が織り成す味わい深いミルクティーを飲んでいる。――その事実が、自分はまだまともなのだと言っているようで、ほっと安堵の息を洩らした。
「美味しい」という言葉はほんのりと彼の胸を温めてくるようで、馴染みのない嬉しさがノーチェの胸を突く。むず痒いけれど、心が擽られるような、新しい感覚――。そこで、終焉がやけに味の感想を求めたがるのに対して何となく理由が分かった気がした。
「少年も突っ立ってないで座んなさいよ~」
リーリエは自分の隣を手のひらでポンポンと軽く叩く。手のひらで弾むそれにノーチェは渋ると、「いいから早く」と女が急かす。彼は自分が隣に腰掛けていいものなのかを考えた末、あまりにも急かしてくるものだから、徐にリーリエの隣へと座った。
紅茶を飲むかどうかと訊かれたが、自分で作ったものを自分で口にする気のない彼は首を横に振って「いらない」と小さく口を溢す。見た目こそは上手くできたが、その出来は終焉と比べてしまえば何てことはないのだろう。男に匹敵するようなものを作る気は毛頭ないが、自分で飲食したいがためにものを作るなどという発想には至らないものだ。
そんなノーチェにリーリエは「あらそう」と口許を緩めた。まるで母親のような微笑みに、一度だけ息を飲むとノーチェはそろ、と目を背ける。リーリエはどこか見透かしているような目をしていて、妙に居心地が悪くなったのだ。彼は咄嗟に話を逸らすべく、「少年って何」と小さく口を洩らす。
「……俺、少年っていう歳には見えねぇと思うんだけど…………」
出会って即リーリエはノーチェを「少年」呼ばわりした。その言葉が見合うのは幼い頃からせいぜい齢十二程度の男がよく合うだろう。しかし、ノーチェは誰がどう見てもその程度の年齢ではないことは明らかだ。平均よりもかなり痩せているが、彼の体つきは成人男性のそれと全く同じだ。その上、身長もリーリエよりも頭一つ分はあるだろう。
そんな男をリーリエは「青年」とは言わず、あくまで「少年」と称し続ける。その意図が彼は知りたくて、何気なく女に問い掛けた。謂うならば「青年」の方が相応しい筈だと思ったのだ。
しかし、リーリエはカップをソーサーに置いた後、やけに悪戯っぽい笑みを浮かべて――
「私にとってあんたは『少年』だからよ」
とだけ言った。
その口振りはまるで外見ではなく、内面を見据えた先にあるものを見て言っているようなものだった。ノーチェは知らず知らずのうちに自分が子供のようになってしまっているのか、と目を伏せながら首を傾げる。特別それらしい振る舞いはしたことないが、そういう思考に陥ったこともない。せいぜい死への渇望が大きくなるばかりで、周りの子供よりも遥かに大人のつもりだ。
「それに、私自己紹介してもらってないしねぇ」と、リーリエは背凭れに寄り掛かりながら足をばたつかせ、陽気に呟いた。それにノーチェは「あ」と呟いて頬を掻く。
彼はエントランスで自己紹介を食らったにも拘わらず、自分の名前は名乗っていないのだ。故にリーリエはノーチェを名前で呼ぶのではなく、「少年」とだけ言うのだろう。
「…………ノーチェ」
ノーチェは終焉にはできなかった自己紹介をした。――と言っても単純に自分の名前を名乗る程度で、それ以上のものを紹介できるものではないのだが――名乗らないよりはマシだろう。
それに、名乗っておけば少年と呼ぶのを止めるかもしれない――。
「分かったわ、しょーねん」
「………………」
そんな思いも虚しく、リーリエはノーチェの名を知っても尚、少年と呼び続けた。