雨音に潜む違和感

 沢山の菓子を発見した後、終焉は吹っ切れたかのようにそれをひたすらに食べ続けた。キャンディをひとつ、クッキーを完食し、立て続けにまたキャンディに戻る。――それだけでは飽きたらず、角砂糖を直接口へ放り込んでいる光景をまざまざと見せ付けられ、ノーチェは信じられないものを見るような目付きでそれを見る。
 甘い、甘すぎる。見ているノーチェやリーリエが胸焼けを起こしそうになるほど、終焉はひたすらに糖分だけを摂取している。紅茶やミルクティーなどの飲み物になど目を向けず、止まることを知らないその口はぐっと男の袖に隠れる。拭われたのだ。
 頭が痛くなるほどに甘ったるいものだと彼は思った。二人の話し合いはとうに終わっているのか、ただノーチェを交えて他愛ない話をする。「最近変に風邪が流行っている」だとか、「今日の夕飯は何がいい」だとか、「梅雨は過ごしにくい」だとか――そんなものだ。
 リーリエは一度ノーチェのことを知っているかのような口をしたが、それは気のせいだと言いたげにノーチェについて質問を投げていた。「好きな食べ物は何」や「誕生日はいつ」など、答えられそうなものばかりだ。
 それを彼はぽつりぽつりと答えていたが、時折口を閉ざして答えることを拒否することもあった。――と言うよりはあまり考えたくないものなのだろう。奴隷になる前のことは今思い出したところで酷く虚しくなるだけなのだから。
 その中で特別意識はしていないが、聞かれた所為で漸く気が付いたことがあった。それはリーリエが屋敷に来てから軽く一時間は越えた頃だろう。ノーチェや終焉と話を交えている間に、リーリエは何かに気が付いたかのようにぼうっとしてからノーチェに口を開く。

「少年はエンディアのこと、名前で呼ばないのねぇ」

 ――と、何気なく呟いた言葉がノーチェの胸を突き刺すように鋭かった。
 ぽかんとしたまま、ノーチェはリーリエの顔を見つめる。「え?」と口を洩らしてしまいそうな表情に、女は軽く首を傾げる。何か可笑しなことを言ってしまったのかと終焉に問い掛けていたが、男もまたそれに気が付いたように口許に手を当てて「そうだな……」と小さく口を洩らしている。
 特別意識したことのなかったノーチェは改めて指摘を受けた後、固まった思考を動かすべくじっと一点を見つめていた。終焉は全く気に留めていないようで落ち込むような素振りは見せていないが、それが本心なのか嘘なのかは判断しかねるだろう。何せ男は何の感情も抱いていないと言えるほどの無表情を湛えている。仮に落ち込んでいるとしても、表に出さなければ誰にも気が付かれないだろう。
 そんな終焉をぼうっと見つめて彼は考える。何故終焉の名前を知っているにも拘わらず、「アンタ」や「あの人」で済まそうとするのか。自分が名前を気軽に呼べる立場ではないから、と言ってしまえばそれで終わるのだろう。――しかし、その程度では収まらない奇妙な違和感がノーチェの思考に邪魔をする。
 ただ一口で済まそうとすれば形にならない言葉がいくつも頭に思い浮かんで説明しようがなかった。だからこそ彼は一番しっくりくる言葉を選んで、ぽつりと呟きを洩らす。

「…………名前だと、思ってないから……?」

 自分で呟いたにも拘わらずあくまでも疑問系なのは、ノーチェ自身もよく理解していないからだろう。――だが、例えるならこの言葉が一番だと思ったのだ。
 終焉は自分で自分の名前は“終焉の者”だと言った。それをノーチェは忘れているわけではない。しかし、それが名前なのかと訊かれれば、彼は理由もなく首を横に振るだろう。ただの感覚的なものであるので、聞いた側は不思議そうな顔をするに違いない。
 すると、ノーチェの言葉を聞いた終焉は目を閉じると、そうか、とだけ呟いた。落ち着きを取り戻すような仕草で、まるで深呼吸をしているかのような行動で。ノーチェは可笑しなことを言っている自覚はあったが、終焉をそうさせるものではないと思っていた。
 男はほんの少し顔を顰めながら再びキャンディをひとつ。可愛らしい包装紙に巻かれた丸い形のそれを口の中へ放り込むと、舌の上で転がさずにそのまま噛み砕いてしまう。
 それ相応の大きな力を加えない限り砕けることのない丸い形の飴玉が砕かれるのを見かねて、ノーチェやリーリエは男が不機嫌になったのかと思った。鈍い音を立てながら咀嚼されていくその様子を見るのはこれが初めてで、リーリエは咄嗟に背筋をしゃんと伸ばす。口許は妙に緩み、頬を伝う冷や汗は女が妙に緊張しているのだと分かった。
 茫然としながらそれを見つめるノーチェは、徐に「舌切れそう」と呟きを洩らしてみる。不機嫌であればその言葉にさえ食って掛かってくる筈だろう。――しかし終焉はそれを聞くや否や、手に取ったキャンディを見つめると、「それもそうか」と小さく口を溢す。

「…………ヒリヒリする」

 もごもごと口の中を舌で巡回し、男は小さな痛みを訴えた。ノーチェの言葉も虚しく、終焉は噛み砕いていた破片で口内を切ってしまったようで、納得がいかないような、微妙な顔付きをしている。無表情を崩し、不機嫌のような、それでいて顰めっ面のような――眉間にシワを寄せて、ふて腐れるような表情だ。
 そんな顔もできるのか、とノーチェが思った矢先、隣に座っているリーリエが唐突に笑いながら「あんたそんな顔もできんのね!」と男を指差して言う。まるで正反対の二人を交互に見ながら、ノーチェはぼうっとそれを眺めていると、終焉は呆れるような表情のまま持っていたキャンディを口に放り込んだ。
 ノーチェが見付けてしまった大量の菓子類は全て終焉の物。話によると、作る時間すらも惜しいときに口にしていたいとき、口が寂しいときによく食べる用だそうだ。
 黒い男に彩り豊かな甘いそれは、やけに映えるものだ。女子供が喜びそうなファンシーな色合いは終焉には全く合わない。その味でさえ男が気に入るものなのだと想像もつかないものだが、世の中とはまさに数奇なものである。
 ノーチェは徐にそれをひとつだけ手に取って口へ運んでみる。ほろほろと溢れるように柔いクッキーを噛み砕いて、咀嚼を数回繰り返してみる。さくさくとした軽い食感は確かにいつかの自分が慣れ親しんだもの。――しかし、妙な物足りなさに見舞われ、彼は徐に噛み砕く行為を止める。
 リーリエも倣うように茶菓子をひとつ口にした。「これ美味しいわね~!」と、傍らに酒瓶を抱えているとは思えないほど、淑女染みた一般的な感想を紡ぐ。終焉もまた美味いなどという一般的な言葉を洩らすのかと思えば、いつか聞いたそれが躊躇いなく口から紡がれた。

「――やはり、私が作った方が美味いな」

 迷いのない言葉。不味いものは作らないという絶対的な自信。ひしひしと体に伝わるその自信を、ノーチェとリーリエは全身で感じ取っていた。歪みない王者のようなその凜とした口調は最早称賛するに値してしまうほど。男の自信に全く疑いもしないのか、リーリエは「あんたがそれを言ったらおしまいよ」なんて言って、次の菓子へと手を伸ばす。
 その傍ら、終焉の発言にぼうっと一点を見つめていたノーチェは確信せざるを得なかった。
 多少であるが確実に――しかもかなりの確率で――舌が肥えている。それも今に始まったことではない。終焉と出会ってからまだひと月を跨いだだけであるが、今に至るまで欠かさず食事を摂れと促され続けたのだ。初めの異変にこそ気が付かなかったが、たったひと月、跨いだだけ――ただそれだけでかなりグルメになったような気がした。
 この口に含んでいる菓子もまた違和感に苛まれる原因のひとつだろう。
 ノーチェはそれを飲み込みながら終焉を見やると、背筋が凍るほど冷たい瞳と目が合った。特別感情がこもっているわけではない。向こうが何気なく首を傾げ「どうした」と言わんばかりにノーチェを見つめている。その手にはまだ飽きることもなく収まり続けるキャンディの山。彼は「何でもない」と言って目を逸らしたが――、舌が肥えた原因は確実に目の前の男だ。
 終焉の作る手料理は絶品だ。大袈裟に言うならば、終焉の手料理だけで店を出してもいいと思えるほど、だ。それほどまでに男の手料理は奥が深く、噛めば噛むほど味わいが出てくるもの。それは甘味ひとつにとっても抜かりなく発揮されていて、口に含んだときの香りといえば素晴らしいことこの上ない。
 独り暮らしだから極められた――そう決めつけてしまおうかと思うものの、ノーチェの目の前でまともな飲食をしている姿を見せない終焉に言えることかは定かではない。定かではないが――そのレパートリーの豊富さは最早驚き以上のものがある。
 一口に事前に調べて挑戦している、と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。だが、終焉の部屋の本棚を見たノーチェだから分かることがある。終焉はレシピの類いを全く持っていない。せいぜいあったものは「おやつに最適のお菓子のレシピ」くらいで、後は各言語を学ぶための参考書程度。中身こそは目を通したことはないが、男の口から「本を見て作った」などという言葉は聞いたことがない。
 恐らく、そして確実にこの手料理は男の才能だとさえ言えるものだ。蕾が春を待ち侘びて花を咲かせたときのように、男のこの才能もまたある日を境に見事に開花したに違いない。その才能は生きる上で最大の武器となるだろう――。
 それを一心に受けているノーチェにはこれといって大した武器もない。生きていくのがやっとの思いで、ただ死にたがりながら生に縋りついているみっともない人間だろう。
 そう思えば思うほど、ノーチェは自分が惨めでちっぽけな人間だと思った。目の前や隣に居る人間はそれぞれ得意なことがあるというのに、自分にはこれといって何の取り柄もない人間だと――いや、ある。人並み外れた力がノーチェにはある。それの所為で奴隷になったと過言ではないのだが――。
 そうして同時に思うのだ。こんなちっぽけな人間が、奴隷になって尚、随分と手の込んだ料理を口にできるのは贅沢なことではないのかと。

「……そうねぇ……あんた、無駄に料理が上手いしね……そう思うと少年は贅沢よ~? 毎日食べられてるんでしょ?」

 思考に陥っていたノーチェに声をかけ、リーリエはその顔をじっと覗き込んだ。よく見れば赤い瞳の奥底にキラキラと光る何かが輝いているように見える。丁度同じようなことを思っていた彼はリーリエを茫然と見つめながら、「やっぱそうなのか……」と改めて認識した。
 一般的に料理を任せられる立場に居る筈の女にでさえ、舌を唸らせるほどのものを作るのだ。機嫌が良ければ良いほど、料理に表してしまえるその手の器用さはただのプロ以外の何ものでもない。あまつさえ料理だけに留まらず、掃除や洗濯もお手の物。独り暮らしにしておくにはあまりにも勿体ない物件だ、とリーリエは笑いながら言う。
 対して終焉はその言葉に動かされるわけでもなく、ただ黙々と目の前の菓子に手をつけているだけであった。特に量の多いキャンディは持ち運びにも便利だという理由で買い溜めたらしいが、その数は最早手のひらに載せられるほどしか残っていない。
 これを「甘党」の言葉だけで済ませてしまうのは合わないような気がするが、それ以外に見合う言葉が見つからなかった。
 この極度の甘党である人は飽きもせずひたすらに甘いものだけを口にしていて、不意にノーチェの胸の奥がもやもやと形容しがたいものが募った。喉の奥に押し込んだ筈のものが競り上がるどころか、胸元が締め付けられるような違和感が彼を襲う。
 ――酷い胸焼けがした。ノーチェは男が紅茶に砂糖やミルクをいっぱいに入れた理由がよく分かったが、許容範囲を超えるそれを見ていると嫌気が差してくるのだ。それも隣に居るリーリエも同じのようで、「何かお腹いっぱいだわ」と呟いて呆れたような目をしている。
 そんな中で終焉は舌の上でキャンディをころころと転がしながら、「そうか」とだけ呟いた。