雨の中に蔓延る闇

 ざあざあと音を鳴らしながら降り頻る雨は体を強く打ち付けた。じっとりと肌にまとわりつくような鬱陶しいほどの湿気は感情を揺さぶって、時間が経つにつれて増していく蒸し暑さと言えば「最悪」以外の何ものでもない。雨が打ち付ける石畳の香りはアスファルトのそれに近く、その独特な香りにヴェルダリアはぐっと顔を顰める。
 彼は言うほど雨が好きではなかった。寧ろその逆、体にまとわりつく衣服の感触が酷く苦手で雨は嫌いだと言ってもいいほどだった。教会へと帰る道中、鈍く暗い雲から落ちてきた雫を認知するや否や足を速めたが、流石梅雨といったところだろう――瞬く間に雨量を増してヴェルダリアはあっという間に全身が濡れてしまった。
 ずぶ濡れになった服は乾いていた頃よりも遥かに重く、絞れるほどの水を含んでいるのではないかと思えるほどだった。濡れた長い赤髪も頬にまとわりつき、彼は鬱陶しげに金の瞳を細める。濡れた手でべったりとついた毛先を払い、手近にあった店の屋根の下に身を潜める。ふう、と一息吐きながら空の向こうを見上げるが薄暗い灰色一色に彩られているだけだった。
 これじゃあ当分やまねぇな――そう人知れず呟きを洩らした。流石の賑やかな街並みも雨の中ではしんと静まり返っていて、物寂しい雰囲気を漂わせている。よく見れば店内や家の中でちょこちょこと動き回る人影を見る限り、機能はしているのだと思えるが、いかんせん人通りが少ない。あの晴れ渡る空の下に比べれば、雨の日の街はどこか寂れた雰囲気をまとっているように思えた。
 彼はべたつく衣服を指で摘まみ「気持ち悪ぃ」とひとつ。愚痴を溢して湿気を追い払うように手を仰ぎ、顔に風を送る。酷く湿った空気が気を滅入らせる。梅雨だと頷かせる高い湿度と妙に高い気温は彼の気分を害すには十分すぎて、ヴェルダリアは思わず深い溜め息を吐いた。
 こうなるくらいなら傘のひとつでも持ち歩けばよかった、と彼は思う。ちらほらと見かける人の姿は雨具を常備していて、ヴェルダリアのように雨宿りしている者などめったに見かけない。備えあれば憂いなしと言いたげに次々と折り畳み式の傘を取り出すのだ。
 当分やまない――そう呟いた通り、雲と雨の量を見る限り一日中は降り頻るのだろう。空の向こうのどす黒い雲は風に押されて悠々とこちらへ近付いてくる。最早無事で帰るには傘を買うのが懸命なのかもしれない。――しかし、たった傘一本に使う金が勿体ないと彼は悩ましげに首を傾げる。
 一言で表すならヴェルダリアは教会に居候しているような状況だ。衣食住は約束されるが、それ以上のものを求めるのはお門違いだろう。何より彼は言うほど教会が好きではない。そんなものに借りを作ろうなど、ヴェルダリアのプライドが許さなかった。

「待ってても仕方ねぇし帰るか」

 ぽつり、小さく呟いた独り言が量を増した雨音に掻き消される。彼は二度目の溜め息を吐いて、赤茶色のブーツで石畳を踏み締める。不意に鳴らされるぱしゃんと水が弾ける音。何気なく音がした方へ目を向けると、嫌でも知っている黒いそれが目に映る。
 そこにはヴェルダリアと同じように傘も差さず雨に身を晒す終焉が居た。長く風に靡いていた黒髪は今や雨に濡れて細い糸のような滑らかさなど微塵も見当たらない。だが、女のような艶は相変わらずで、長い睫毛を持つ切れの長い瞳はヴェルダリアをじっと見つめた。
 あまりにも興味なさげなその空虚な瞳にヴェルダリアは思わず手を背に回す――その手はするりと空を掠め、彼は「あ」と口を開いた。
 彼は今仕事用の物を持ち合わせてはいない。――つまり、等身大ほどの大きさにもなる十字架を模した大剣を所持していないのだ。

 終焉殺しの異名を持つヴェルダリアの仕事は、教会に命じられた街の安全を守る他にひとつ、終焉を見つけたら即座に刃を向けること。最早暗黙の了解になる他、ヴェルダリア以外には務まらないとさえ言われている。
 それがすっかり体に染み付いてしまった彼は咄嗟に終焉を狩るために大剣を取ろうとしたが、教会絡みではないまま外に出てしまったことが終焉にとって功を奏したのだ。彼はバツが悪そうに小さく舌打ちをすると徐に伸ばしていた手を下ろす。

 命を狩るための道具がないのなら手を出すわけにはいかない。終焉の力は底知れないのだ。表情が変わらないまま戦闘に臨む姿を見る限り、男にはまだまだ隠しているものがある筈に違いない。そうである以上好戦的な彼にもまた自制というものが働くのだ。
 ゆっくり手を下ろすヴェルダリアを見て終焉は興味がなさげに彼から目を逸らす。疎かになっていた足を再び動かすと、鳴るのは石畳を踏み締める固い音ではなく、雨によってできた小さな水を踏み締める音。小さく水飛沫を上げながら終焉は雨に体を晒し、街の向こうへと歩いていった。
 終焉の屋敷から歩いてきたヴェルダリアに分かるのは、終焉が屋敷へと向かって歩いていないことだろう。彼は小さく首を傾げてそのまま終焉の背中を軽蔑するように目を細める。
 雨音がよりいっそう強くなった気がした。べたつく服に思わず「あーくそ!」とヴェルダリアが声を荒らげる。何をしても不快感が拭えないのは百も承知であるが、胸のうちに募る蟠りを吐き出すように声を荒らげなけらば気が済まなかった。