寝付けない夜と風呂上がりの男

 目覚ましにしては刺激すぎる出来事に加え、非現実的な〝命〟の話。そして――終焉が呟いた「秘密」の微笑みから早くも三日が過ぎた。運良く雨が降っていない晴れた夜空を見るのは久し振りで、ポツポツと瞬く星々は街中では見かけることはないだろう。
 そんな星空を部屋から眺めるノーチェは、茫然と感嘆の息をほう、と洩らせば空に高く昇る月を見上げる。満月に満たない欠けた月はやはり見る者を魅力するような輝きを放っていて、思わず胸中に感動にも似た感情を募らせる。

 ――夜はいい。頭を振り回すような雑音が一切届かないから。目が眩む眩しさも、夜になればただ微笑むだけの月がじっとこちらを見つめているだけだ。真昼の暑苦しさも和らぎ、いくらか過ごしやすい気温にまで下がる。時折寂しささえも覚えるときがあるが、それに気が付かなければ非常に過ごしやすい。
 窓辺に佇むノーチェは飽きもせず月をぼんやりと見上げて、時折溜め息のようにふぅ、と肩を落とす。普段ならとっくに眠りに体を委ねているところだ。月が高く昇るこの時間まで起きていることが知られれば終焉は怒る――ことはないだろうが――無表情でノーチェを質問責めにするに違いない。
 彼は月から軽く目線を落とすと、鬱陶しげに頭を掻いてみせる。

 ――正直苦手なのだ。無表情で凝視されるのは。

 恐らく本人は気が付いていないであろうその光景を思い出し、ノーチェは眉を顰める。双方異なる色を持つ瞳が逸らされることもなく、じっと顔を見つめてくるのだ。端から見ても分かる異質さは向けられる側になれば更に理解できるものがある。
 身動きが取れなくなるのだ。視線で身体中を釘で打たれたように、蛇に睨まれた蛙のように。本人は与えているわけではない威圧感が体の動きを縛り、呼吸さえも忘れさせようとしてくる。――その時間が苦手になりつつあるのだ。

 終焉は生まれながらにして無表情なのだろう。ノーチェでさえ今はろくに表情も作れない状態だ、表情の変え方が分からないと言われても納得できてしまう。何気なく自分の頬をつねりあげてみるが、奴隷になる前の表情が何ひとつ作れない。笑えと言われて笑える現状ではないからだ。
 だからこそ理由もなく指で口の端を押し上げてみて――酷く虚しい気持ちになった。馬鹿らしい、と一言。再び窓辺に手をかけて月を見上げる。先程からほんの少し傾いたように見えるのは気のせいではないだろう。

 認めざるを得ない。ノーチェは寝付けなくなってしまったのだと。柔らかな寝具でも、温かな風呂上がりでも、月が微笑む夜も更けた時間帯でも、心地のいい眠気が来なくなってしまったのだと。

 ノーチェは溜め息を吐き、ゆっくりと窓の縁から手を離す。何度目かの視線の槍に晒されると思えば酷く心が億劫になるのだが、一人では時間を潰しようがない。終焉の元へ向かって、多少話にでも付き合ってもらおうかと思ったのだ。足元の絨毯は暗く赤色を僅かに黒に染めている。何かに躓くとは思えないが、物音を極力立てないよう何気なく神経を張り詰めてみせた。
 ゆっくりと足を踏み出して片足に重心をかける。過去を懐かしむような気持ちで微かに軋む床に焦りを感じながら、そっと扉に手をかける。警戒するものは何もないと知っているが、無駄に気を張り詰めて疲れを呼ぶのも睡眠を得るためにはひとつの手段だと思えるのだ。

 ――しかし、人間である以上飽きというものは唐突にやってくるもので、ノーチェは瞬きをして茫然と足元と階段を眺めると、肩の力を抜いて普段通りに階段を下りる。終焉は未だに起きているノーチェに対して何かしら言ってくるだろうが、彼も彼で何かしらの文句をつけてやろうかと考えていた。
 結局終焉はノーチェに何かを遠慮しているのか、ろくな手伝いもままならず何もできない日々が続いている。今回眠れなくなった原因は何もやらせてくれない終焉の所為もあるのだろう。「アンタが結局何もやらせてくれないから、眠れなくなった」――なんて言ってしまえば、終焉の視線の槍も掻い潜れるのかもしれない。
 そう心に決めながら階段を下りきり、曲がった先にある薄暗い部屋の扉をノックする。最低限の常識は奴隷になった今でも頭にあるもので、控えめながらも扉を叩く音は終焉に聞こえることだろう。
 ――だが、数分経っても扉の向こうからやってこない返事に、ノーチェは首を傾げる。

 時刻は夜中の二時だ。流石の終焉も眠っているのだろうかと思い、諦めようと踵を返すと、不意に離れた場所から扉の開く音がした。音の発生源は階段を越えた向こう――浴室がある方から聞こえてきて、ノーチェは納得するようにぼうっと視線を投げながら徐に歩き出す。
 風呂に入っていたのなら部屋に居ないのも当然だ。彼は終焉を待ち伏せるように客間のソファーに座りながらその陰を待った。ソファーは相変わらずの心地好さを誇っていて、最早気に入る程度には座る頻度が高くなっている。それに体を沈めながら足をぷらぷらと揺らしている時間は退屈しのぎには持ってこいのものだった。
 ソファーに当たる足を思うままに揺らし続けていると、時折自分が何をしているのか問い質したくなることがある。丁度その頃、桃の香りを漂わせながら扉が開いた音がした。ノーチェはその音を聞いて、無表情な顔を見ることを覚悟の上で「なあ」と呟く。

「……なあ……ちょっといい」

 そう呟いた矢先に見たのは――無表情ではあるものの、どこか気の抜けたような表情を浮かべる終焉が居た。

 ぺたりと絨毯を踏み締めるその足は腕や顔のように白く、爪はやはり黒い。一筋のラインが入ったスラックスを穿いているが、ぼんやりとしているからだろうか――やけに丈が長く思える。上半身はノーチェが今までに見たことのない薄手の服を着ていて、新鮮以外の何ものでもない。
 鎖骨をなぞるようにVラインを描いた襟ぐりと、七分丈の袖が特徴的なその服は謂わば部屋着だろう。ゆったりと楽そうに、裾をしまわずに力なくぼんやりとノーチェを見つめている。風呂上がりだからだろうか――薄暗い部屋の下で見る終焉の頬はどこか色付いているように見えた。
 ノーチェは終焉の無表情が苦手だったが、気が緩みきったこの表情は嫌いではなかった。漸く人間味溢れる表情が見られたと思い、妙な安心感さえも覚えてしまう。その間にも終焉はノーチェをじぃっと見つめていて――不意に首を傾げるのだ。

「…………起きてる……」

 「何故寝ていないんだ」の言葉が来ると思っていたノーチェは、終焉がポツリと呟いた言葉に思わず数回瞬きをして、「起きてるよ」と答えてみせた。何なら「全然動いてないから眠くない」とさえ言おうかと思っていたのだ。

 しかし、終焉はノーチェの返事を聞くと、「そう」とだけ呟いて欠伸をひとつ溢してみせる。大きく口を開いて目尻に涙を溜めて、終焉は眠いのだと簡単に察することができた。言葉を用意していたノーチェは出鼻を挫かれたような何ともやるせない気持ちに苛まれ、むっと唇をへの字に曲げる。すると、終焉は覚束ない足取りでノーチェの傍へ近寄ると、最早約束の、頭を撫でる行為に出た。
 ノーチェと同じくらいの終焉の手のひらは、随分と温かかった。

 彼はそれに多少の驚きを覚えてしまう。何せ終焉の手はいつでも冷たく、氷のようだった。風呂上がりの所為もあってか、今回に至っては温もりを持っていて、確かに生きた人間の手のひらをしている。手や指先は相変わらず人とは違った色を持っているが、人肌の温もりは確かにあるのだ。
 いつの日にか、終焉が自分を化け物だと言っていることを思い出したノーチェは、「どこが化け物なんだよ」と心中で小さく呟きを洩らしてやる。
 終焉の表情は普段見るよりも遥かに優しかった。先程から思えるのは、これが本当に気を許した様子なのだということ。結局のところ終焉も周りに気を張っていてろくに休めてはいなかったのだろう。特に日中は、ノーチェですら終焉に隙があると思わせないほどの振る舞いをしている。理由は定かではないが、気を抜けない何かが男の中にはあるのだろう。

 例えば〝教会〟や〝商人〟が最もだろうが、それだけに留まらない理由があるような気がするのは気の所為だろうか――。

 ノーチェはゆったりと終焉に撫でられながら男の顔をじっと見つめた。返ってくるのは単純に柔らかな視線と、今にも弧を描きそうな口許だ。鋭い獣のような視線は降り注いで来ないのだろう。そう思えばほんの少し心が軽くなったような気がした。
 僅かに鬱陶しく思え始めた男の手を退かそうと手を伸ばした矢先、ノーチェの瞳に映るのはじっとりと湿った艶やかな黒髪。湿気ったというよりは水を含んだままという方が正しいのだろう――水が滴り落ちる様子はないが、乾ききっていないその様子に、彼は珍しく頭を揺さぶられたのだった。