魔女のお告げ

「あら、終焉はお留守なのね? 買い物かしら」

 曇天を背にノーチェの顔を見上げながらリーリエはぽつりと呟く。
 黒く裾の長いドレスから見える足は細く、ヒールの高い靴を履いて柔く微笑む女の顔は、見るものから見れば相当綺麗な部類に入るものだろう。――しかし、綺麗な顔だけで言えば毎日のように見かけるノーチェは、「今日は随分と大人しいな」なんて思いながら、小さく頷くだけだった。

 時刻は朝の九時を回ったばかり。終焉は早々に「買い物に行く」とだけ伝え、ノーチェに留守を任せて街へと向かったのだ。荷物持ちくらいならできると名乗りを上げたが、男は足早に事を済ませたかったのだろう――「すぐ帰るから」と呟くと、恒例のようにノーチェの頭を一撫でしてから素早く出ていったのだ。
 留守を任された彼は普段のように座り心地のいいソファーに体を沈め、ぷらぷらと足を揺らしながら終焉の帰りを待つ。掃除でもしようかと思っていたが、万が一物を壊してしまっては元も子もない。その上屋敷は普段から終焉の手が行き届いているのだ。ノーチェが手を出す幕はないだろう。
 ――とはいえ、ただ帰りを待つだけでは奴隷扱いしないだけの恩を返せないものだ。今の自分ができることは一体何か――それをぼんやりと天井を眺めながら考えていると、リーリエが屋敷を訪ねてきたのだ。

 「あの人に用あんの……?」何気なくノーチェがそう問いかければ、女は「用という用じゃないんだけどね」と肩を竦めて言った。何やら煮えきらないようなその言動に彼は小さく首を傾げると、リーリエは考え込むように口許に手を当てて「うーん」と唸る。

「私が出る幕がないのは明白ねぇ……」
「……?」

 何を言いたいのか分からない。そう言いたげにノーチェは僅かに眉を顰めリーリエの顔を見る。困ったような、そうでもないような表情ばかりを浮かべていて、思考など読めたものではない。彼は思わず「何が言いたいの」と問えば、リーリエは考え込んだまま、「そうねぇ」と呟く。

 曰く天気が崩れるというのだ。リーリエは森の奥にある小屋に身を寄せていることから、天気の良し悪しには敏感なようで、一足早くそれに対する対処を行える。雨が降るならば外に干した洗濯物を取り込むのと同じようなことを、外部から得る情報に頼ることなく、自分の感覚ではっきりと決めるのだという。
 恐らく女の感覚は人一倍鋭く、外れることが殆どないのだろう――そう思った矢先、「まあ占いみたいなことも得意なんだけどね」なんて言うものだから、感覚の話ではないのかもしれない。
 先を視たのか、感覚の話かはノーチェには分からないが、彼は「それを伝えておけばいいの……?」と小さく問う。

「そうそう、気を付けなさいって言っておいて! 今日から明日にかけて酷い天気だから」

 言わなくても多分分かってると思うけれどね。
 そう言い残してリーリエは自分の家に帰ると言い、屋敷を後にして森の方へと向かっていった。屋敷からかろうじて見えるその後ろ姿を彼はぼんやりと見て、本当に森に住んでいるのだと思い知らされる。全く信じていないというわけではなかったが、あまりにも信憑性のない話で僅かに疑っていたノーチェにとっては意外な事実でもあった。
 リーリエは「魔女」と呼ばれている。それが、彼女が森に住む所以なのかと思いながら、彼は屋敷の扉を閉めて相変わらず座り心地のいいソファーへと座る。目の前には小さなテーブルと、終焉がやたら気に入っている椅子がひとつ。その奥には黒光りする四角い物と、よく見れば暖炉のようなものが備わっている。温くじめっと湿気った空気が漂う梅雨の季節に暖炉など見たくもなかったが、冬場には持ってこいのものだろう。

「…………あれ、点くのか……?」

 暖炉の上に聳え立つそれを眺め、ノーチェは行き場のない独り言をぽつぽつと溢していく。
 黒く静まり返ったそれに映るのは、反射してぼんやりとした表情を浮かべるノーチェやソファー、テーブルとや椅子の他に窓や壁などの部屋が一部だけ。彼はそれが何なのか頭の片隅に知識として残っているが、街から離れた場所にあるこの屋敷でそれが映るかどうかは分からない。
 終焉が帰宅した後、点くかどうかを訊いてみれば新しい暇潰しができるかもしれない。
 ノーチェは再び足を前後に揺らしながら終焉の帰りを待つ。ソファーの側面に当たる足は跳ねるように揺れて、感覚を楽しみながら背凭れに寄り掛かり窓越しから空を見上げる。
 大きなガラスの向こうにある空は未だ青く、雨が降るような兆しなど一切見せていない。白く厚い雲がぽつぽつと散らばっていて、時折薄黒い雲が一際存在感を放つ程度。酷い天気だと一口に言われても、ノーチェには想像もつかなかった。

 酷い天候だと何かがあるのだろうか――。

 ほう、と一息吐きながら空を眺めるノーチェは、終焉が戻るのを今か今かと待ち侘びている。屋敷の中で何かをしようにも、終焉が大抵のことを一人でこなしてしまっていて、今更やることもない。唯一得意だと自負してしまう力仕事でさえもやらせてもらえないのだから尚更だ。
 彼はぼうっと空だか天井だかを見上げていて、前後に動かしていた足はいつの間にか動きが止まっている。やることがないのなら必然的にぼんやりと空を眺めてしまうのがひとつの癖で、毎度のことながら「死んだらどうなるのだろう」と頭の片隅で考えてみるのだ。
 死ねば楽になれるのだろうか。死んだ後はどうなるのだろうか。天国や地獄があるにしろないにしろ、死んだ後は痛みがなければいいな――なんて思って、自分が〝ニュクスの遣い〟なのだと思い出すと酷く億劫になるのだ。

 ノーチェの一族はあくまで人間として遣いに生まれ、あくまで人間として絶命した後は正真正銘の〝ニュクスの遣い〟として生まれ変わるのだ。実際に夜の女神として言い伝えられるとされるニュクスというものが存在しているのかは定かではないが、彼は自分の体にある痣のような紋章に手を触れてみる。
 それは目元にある逆三角のものだけではない。ノーチェの体にはあと二ヶ所に紋章が施されていて、ひとつは誰がどう見ても一目で分かる場所にあるのだ。
 ノーチェはゆっくりと自分の右胸と、右手の甲に指を滑らせる。月や逆三角形がモチーフになっているそれが相変わらず自分の体にあるのだと思うと、逃れられない運命なのだと再度認識をする。仮に今死んでしまえば、生まれ変わってしまった後、一体どうなってしまうのだろうか――。

 ――なんてことを考えて、ノーチェは瞬きをひとつ。自分の手の甲にあるそれを見て、「……あの人はこれにすら触れてこねえのか」と小さく口を洩らした。
 終焉だけではない、リーリエもだ。明らかに目につくであろう紋章に一切触れてこないのは、大きく言えば終焉やリーリエだけ。まるであることにすら気が付いていない、と言いたげにそれらには目もくれず、会話に花を咲かせたがる。
 恐らくあの二人は知っているのだ。何度も同じような違和感に苛まれているノーチェは、確信のようなものを胸にゆっくりと目を閉じる。自分の身に覚えのないことを彼らは知っていて、たまにそれをちらつかせるのだ。まるで、何かを思い出せと言わんばかりに頭を揺さぶって、意味ありげにほくそ笑むのだ。

「…………思い出すも何も……ないんだけどな…………」

 ぽつりと小さく口を洩らして、閉じていた目をゆっくりと開いた。気が付けば青く白い雲が点々と浮かんでいた空に黒い雲が数を増して浮かんでいる。よく見ればその動きは速く、リーリエが言った通り天気が崩れるのだと思わざるを得なかった。
 普段庭に干している洗濯物の類いは一切見当たらない。恐らく天気の崩れを見越して終焉が部屋の中にでも干しているのだろう。当たり前だと思い意識していなければ、普段見当たらないものが部屋の中にあることにすら気が付かないというのは、脳が認識を避けたのだろう。

 ――いや、単純に気に留めることがなかっただけなのかもしれない。

 ほう、と再び息を吐いて体を起こし、ノーチェは何気なくそれを探す。部屋の隅にある観葉植物も、彩りを添える程度の控えめな花も、埃や汚れがひとつもない綺麗な部屋も当たり前のように存在していて、不意に見付けたそれに彼は「やっぱりあったのか」と一人で頷く。
 客間の広いスペースを借りてしっかりと干された洗濯物は、日陰干しの所為か妙に陰気臭く見えてしまった。
 ――ということは、ますます今のノーチェにはやることがないということになる。
 彼は三度ソファーの背凭れに寄り掛かると、「それはそれで良くない」と独りごちる。飽きもせず根付いてしまった彼の「奴隷」という意識は、「何もしない」ということに納得がいかず、思い出したかのように足をぱたぱたと揺らし始める。
 何も終焉が悪いわけではないのだが――、こうも暇を持て余してしまうと、逆に気が可笑しくなりそうになるのだ。

「…………早く帰って来ないかな」

 迫り来る雨の気配と広がった静寂に耐えきれず、遂に呟いてしまった言葉にノーチェはただぼんやりとしながら天井を眺める。綺麗な木目が見える天井にはシャンデリアほどの大きさとも取れる電気がひとつ。金持ちでしか見掛けないような家の造りに、相変わらず男の素性が分からなくなりかけた頃、待ち侘びたその時がやって来る。

 一人でものをこなす終焉は基本的に物音を立てはしない。猫が足元にすり寄って来たり、獣が獲物を狩るときに気配を消したりするのと同じように、男は「近くに来ている」という認識をさせないのだ。
 それが街で認識をされないのと同様であるのかは定かではないが、ノーチェには終焉のその行動が時折酷く懐かしく思えてくる。ノーチェの両親はそういった面に長けていたものだから、自ずと自分もできるものだと思っていた時期があった。確かにできなくはないのだが――、いかんせん、人を殺めるということに対する恐怖がそれらを実行させようとしないのだ。
 彼は一族の中でも自分は出来損ないだと何度思ったことだろうか。終焉は難なくこなしてしまうのだから、自分を卑下すると同時にノーチェの中にひとつの疑問すら頭をよぎる。

 終焉は人を殺めたことがあるのだろうか。