雨の中に一人と、

 ――雨が嫌いだった。体を濡らして寒さを呼び起こさせる雨が、酷く嫌いだった。
 空は暗く落ちてくる雨粒は冷たく。風が吹く度に濡れた体からは体温が奪われ、重くなる衣服にはうんざりしていた。雨の量が多ければ多いほど火の手は上がらず。乾かす気にもなれない。加えて屋根という屋根がどこにも見当たらないのだから、尚更だった。
 ――かと言っていい思い出がないわけではない。確かに環境こそは最悪の一言に尽きるほどだが、嫌な記憶が拭仏されるような――それなりの出会いも勿論あったのだ。

 それは雨が降る日のこと。暗雲の空から降り注ぐ雨の量は梅雨の時期と酷似していて、拭っても拭っても滴る水が厄介だと思える日だった。どれだけ木々に身を隠していようとも、葉を伝い落ちてくる雫は瞬く間に彼の体を濡らした。
 辺りには屋根がついた家のようなものはこれっぽっちも見当たらず、外にいること自体酷く嫌がっている彼は眉間にシワを寄せながら舌打ちをひとつ。チッ、と誰かが聞いている様子もないが、雨音だけが響く場所で音が鳴らされた。
 酷い雨だ。身体中の体温がごっそり奪われるような強い――強い雨だ。いくら服を着ようとも濡れるのであれば体温が奪われる勢いは増すばかりで、遂に彼は溜め息を洩らしてしまう。はあ、とあからさまな息を洩らして金の瞳を嫌そうに細める。
 じっとしていても屋根などがついた雨宿りのできそうな場所など見付かる筈もない。彼は重い腰を上げて濡れた体を立たせる。木の根元で見つめていた木の葉は、立ち上がれば目線の高さにまで躍り出た。「鬱陶しい」そう言わんばかりに手で払うと、赤褐色のブーツを履いた足を踏み出す。濡れた若草を踏み締めても小さな音など鳴らなかった。
 ばたばたと音を鳴らして降り注ぐ雨は彼の体を打ち付け、気分を損ねるばかりだった。傷のついた顔も、伸びた赤い髪も雨に晒されて酷く濡れている。輪郭を伝って落ちる雫の感覚が鬱陶しく、手で拭うもののまるでキリがない。「面倒くせぇ」――なんて愚痴を溢すものの、誰にも届かない呟きは雨に掻き消されてしまった。

 土は柔らかく、時折足を滑らせては舌打ちを溢し、ただ行く当てもなく彼はさ迷い歩く。辺り一面は木々に囲まれている所謂森の中、というだけあって、擦れ違う人間など誰一人としていなかった。加えて酷い――酷い雨だ。人里離れた森の中に誰が足を踏み入れるだろうか――。

「あっはははは!」
「何だこいつ変だなぁ!」

 ――不意に嘲笑する下賎な笑い声が彼の耳に届いた。
 雨が打ち付ける中、届いた笑い声に耳を澄ませ彼は足を止めると、それは案外近くにいるらしい。酷い天気だ、雨に気分を悪くしている彼はふらりとそれに足を向けると、草や土を踏み締めて歩みを進める。草を掻き分け、獣道に身を投じると、漸くその声の主が視界に映る。
 三人の青年が何かを取り囲んでゲラゲラと嗤っていた。足や木の枝で何かをつついてはくつくつと嗤って、「こいつどうする?」と彼に気が付かず話し合うのだ。
 遠巻きに見ていた彼はそれらの足元に視線を向けると、見慣れない色合いの、見慣れない生き物が体を震わせて男達を睨むように身構えている。大きさは成猫と同じようで、見た目は一風変わったようなもの。耳や尻尾は長く、先端が燃えるように弾けている。胸元や額にはルビーに輝く宝石のようなものを宿し、それが輝く度にぽつぽつと火が灯るのだ。
 ――勿論、雨によって掻き消されてしまうのだが。

 彼はそれを見かねて、随分と珍しいものがいるもんだ、と口を溢した。
 それは――一般的には知られていない、精霊というものに近い生き物だ。普段は姿を隠し、ひっそりと暮らしているらしい小さな生き物で、人間の目に触れることはまずない。火、水、風、土を司る精霊がいると口伝承で伝えられていて、真偽は定かではなかったのだが――世の中変わるもんだな、と彼は金の瞳を細める。
 必死の抵抗も虚しく、小さなそれはすぐにいたぶられ、木の根元で再び震えた。ところどころ傷を負っている所為か、神秘的なグラデーションも今は鮮血に染まり、口を開けるものの鳴き声はひとつも出てこない。喉を痛めてしまったのだろう――そんな様子を見て、男達はまた嗤うのだ。

「見たこともねぇし、売れるんじゃねえのか?」

 そう言って男が大きく声を上げた。雨音に負けず劣らずの小煩い嫌な声だ。興味がない――そう言いたい彼も雨で気分が悪い。加えてその嗤い声も癪に障る。濡れた赤い髪からぽたぽたと水が滴り、長い袖は彼の体に密着して気味が悪い。
 大嫌いな人間が目の前で群れを成していると――壊したくなるものがあった。

 ――気が付けば彼はすっかり返り血塗れであった。空から降る雨が頬についた生温い血液を流し、ほんの少し気が晴れたと言わんばかりに「はっ」と笑う。憂さ晴らしに手をかけたのはこれが初めてだったか――今ではもう分からない。ただ、目の前のそれがいたぶられているのは酷く気になってしまったのだ。
 一口で言えば人間が嫌いな彼は、人間以外のものを好いていたのだ。

「……おい、平気か」

 低く、不機嫌そうな声色で言葉が紡がれる。彼は金の瞳でそれを見下ろしている所為か、怯えるように体を震わせてじりじりと後退する。絶えず雨によって流れる鮮血が酷く気になるのか、彼は屈んでそれに手を伸ばす――。

「――ッ」

 ガリ、とそれが彼の指先を強く噛んだ。見た目よりも鋭い歯をしているのか、深く突き刺さり鋭い痛みが迸るのを感じる。彼は思わず目を閉じかけたが、手だけは一向に引く気配も見せなかった。――怯えからくる痛みなど、攻撃として微塵も感じられないのだ。
 強いて言えば彼なりの誠意、といったところだろう。小さな獣のような見た目のそれはギリギリと彼の指を噛んでいたが、彼が「満足かよ」と問い掛けると瞬きをひとつ。アメジストのような瞳からぼろぼろと涙が溢れた。
 思わず泣けるのかと言いたくなった。獣のような見た目をしている精霊というものは、人でなくても涙という概念があるのかと。依然指を咥えたまま涙を流すそれが、感情という概念を持ち合わせているのだと、つい訊きたくなったのだ。

「……痛かったな」

 ――それでも彼は唇を開いて紡ぐ言葉を換えて、傷だらけのそれを柔く抱き寄せてやった。小さく震えていて、温もりよりも冷たさを感じるような体温が彼の手に伝わる。それは火を扱っていた筈なのに、雨の冷たさにやられてしまったかのように体を震わせているのだった。
 彼は抵抗をなくしたそれを抱き抱え、再び雨の中を当てもなく歩く。木々から落ちる雫と、空から落ちる雨粒を鬱陶しいと思いながら、抱き抱えるそれが更に濡れないよう懐に寄せていた。陰から彼を見つめるつぶらな瞳は潤んでいて、何気なく舌が彼の傷痕に触れる。
 「……ぴぃ」と愛らしく紡がれた鳴き声に、彼は「鳴けんのか」と呟いた。