賑わいに潜む嵐の前触れ

 じわじわと外からの騒音が激しくなる夏の日の朝、彼――ノーチェは汗を拭いながらふぅ、と一息吐いて肩の力を抜く。
 季節が過ぎるというのは早いもので、つい最近まで梅雨だと思って降る雨に鬱陶しさを覚えていると、瞬く間に夏の日差しが屋敷を照らしてきた。若草も春の頃に比べれば緑の色が濃くなり、虫の数は増したようで日中の騒がしさは底知れない。花の彩りは前の季節に比べて減ったような気がするが――太陽に向かって花を咲かせる向日葵は、力強く根付いている印象を受ける。

 ノーチェは草木に囲まれた中庭を、ホースを使い、何とか水遣りを終えたところだ。終焉が手入れをしているらしい中庭は広く、隅々に水を与えるには多少の疲労感さえも覚えてしまう。しかし、水遣りを終えた後の達成感は、屋敷に来る前には感じなかったもののひとつだ。
 彼は水道の蛇口を捻り、水を止めると、手際よくホースをまとめあげる。草木や花に水滴がついて太陽の光を反射させるところを見ると、何とも言えない感動のようなものが胸の奥から迫り来るような気がした。達成感の余韻に浸る時間はいくらでも残されていて、ノーチェは人知れず心中で自分を褒めてやって、ホースを元の位置へ戻した。
 捲り上げていた袖を下ろし、ノーチェは屋敷の扉を開ける。

 夜に寝付けなくなって以来、終焉はそれとなくノーチェに物事を頼むようになった。ほんの些細なことではあるが、掃除や洗濯、街に出掛けたときの荷物持ちなどの手伝いだ。初めこそ終焉はノーチェに手伝わせたくないと言っていたが、ある程度彼を身近なところに置いておけると気が付けば抵抗は失ったようだ。買い出しに行く度に彼の身を案じていた終焉だからこそ、傍らに置いておける身の回りの手伝いというのがいいものだと思えたのだ。
 ――とは言え、男はノーチェに頼むのにはやはり抵抗を覚えるようで、時折顔を顰めながら顔を見合わせるときは滑稽なものだ。一度渋るように顔を顰めては唇を尖らせ、「よろしく頼む」なんて言う光景を、彼は何度見たものだろうか。その度にノーチェは「ああ、嫌なんだろうな」なんて思いながら引き受けて、自分がやけに大事にされる理由をぼんやりと考えるのだ。
 ――本当に「愛しているから」という理由だけでこの関係が成り立っているのかと。時折見せる意味がありそうな表情が、何かを隠しているのではないかと。

 扉を静かに閉めれば、部屋の奥から終焉が「お疲れ」なんて言いながら顔を覗かせる。エプロンを着て調理器具を持っていたところを見ると、料理をしていたのだろう。「貴方の要望通りのものを作っているから」そう言う様は、家政婦か――ノーチェに嫁いだ人間のようだった。

 夏に入ると終焉は早々にノーチェに中庭の水遣りを頼むようになった。どうにも男は日差しに弱いようで、やたらと忌々しげに空を睨んでは長い髪をコートの中へ隠し、フードを目深にかぶるのだ。
 何故光を毛嫌いするのか、それも確かに気になるのだが――彼にはそれ以上に気になる点がひとつある。それは勿論、夏に入ったというのに何故黒いコートを着続けるのか、ということだ。
 ノーチェでさえも日に日に熱を増していく夏にはそれとなく暑さを感じているほどだ。朝の水遣りも初めは涼しいと思えていたが、終わる頃になればじわりと体に汗が染み出るほど。そのときの不快感と言えば言い表しようもなく、朝が始まったばかりだというのに、体を洗い流したい衝動に駆られるのだ。
 というのにも拘わらず、終焉は相も変わらずコートを着込み、寒そうにポケットに手を入れて歩く。かぶる頻度の少なかったフードを殆ど毎日のようにかぶせて、まるで自ら太陽から逃げているようで――陰に隠れてしまう姿は人間に怯える動物を彷彿とさせた。

 彼は「朝から甘いものはやめてほしい」と終焉に伝えると、終焉は渋々といった様子でそれを了承し、一般家庭で見掛けるようなものをノーチェに提供するようになった。――無論、奴隷であるノーチェからすればただの残飯処理や食事が与えられないなど当然のようだったので、文句も言える筈がないのだが――終焉があくまで対等に接したがるのだ。頭を捻り、ふと思い付いたことを言えば、男はそれを受け入れるようになった。
 未だ履き慣れない靴を脱ぎ、ノーチェは終焉が居るであろうキッチンの方へと向かう。微かに楽しみになりつつある食事の時間だ。今日は何が食べられるのだろう、と思い、リビングの扉を開けると、終焉が「タイミングがいいな」と言う。

「朝食と言えば限られているからな。ありきたりなものですまないが、食べられるくらいの量だとは思うぞ」

 そう言って男が用意した朝食は食パンに目玉焼きという、ごく普通のものだ。その普通が彼にとっては最早異常で、思わずじっと男の顔を見つめていると、終焉は瞬きをしてから「どうした」と呟く。

「貴方の為に用意したのだから、食べてもらわないと悲しくて泣いてしまいそうだ」
「…………アンタ、そんな冗談真顔で言うなよ」

 訝しげな目を向けてノーチェはポツリと呟く。そのまま止まっていた足を踏み出し、用意された料理の前へと赴く。俯きながら歩く視界に映るのは赤黒い絨毯と、造りのいい豪華な家具だ。それに加え、ノーチェに合わせて靴を履かなくなった終焉の足がちらりと映る。
 気にしないで履いてもいいと彼は言ったが、終焉はその言葉に聞く耳も持たず、己の意志を重視するように平然と日常を過ごしている。それでも全身が白黒に彩られていることに変わりはないのだが、このままでいいと言うのなら問題はないのだろう。
 椅子を引きノーチェは料理を目の前にすると、未だ目覚めたとは言えない食欲が小さく腹を鳴らす。くぅ、と鳴って、漸く「空腹だったのか」と感じてしまう現状に終焉は納得がいっていないようだが――、それでも食事を摂ることには満足しているようだ。
 徐に彼がパンへと手を伸ばすと、終焉がエプロンを取りながらノーチェの目の前へと座る。その手には当たり前かのように用意されたケーキが一切れ、皿に盛られていた。

「………………」

 朝から何てものを食べるんだ――そう言いたげにノーチェはじっとそれを見つめている。
 終焉が用意したのは甘栗色よりも深く、茶色というよりは色素の薄いチョコレートケーキだ。チョコレートを彷彿とさせる甘いクリームと、刻みチョコが印象的な女受けのよさを裏付ける。黒に近いような焦げ茶色のスポンジの合間にもクリームがふんだんに使われていて、いくらノーチェでもそれが朝食に向かないことは一目瞭然だった。
 ノーチェは手を止めてその光景をじっとりとまとわりつくような目で見ていると、終焉がケーキをやけに嬉しそうに頬張ったような気がした。
 ――気がした、というのは言うまでもない。表情の変化がろくに見受けられないのだ。それでも変わったように思えたのは、口許が緩んだかのように見えたのだろう。
 ――不意に終焉がノーチェの目に気が付き、「ん」と小さく口を洩らす。すると、何を思ったのか――男は銀色のフォークで一口サイズのケーキを掬い、ノーチェに差し出す。「食うか?」と悪意のない、純粋な言葉が彼の耳に届いた。

 ノーチェは咄嗟に首を左右に振り、自分に用意された朝食を少しずつ食んでいく。トースターで程好い焼き目がついた食パンは硬く、それでいて香ばしい。時折脇に添えられたウインナーやレタスを頬張って、用意されたお手製のスムージーを飲むと、ポツリと終焉が語る。

「やはり異端か」

 男は気が付いているようだった。自分の朝食が他の人間とは全く違うということに。自分の主食が本来のものとは異なっているということに。

 その事実にノーチェでさえ驚きを覚えたものだった。普段食事風景を見掛けない彼は、終焉は見ない間に食事を済ませているのだと思っていたのだ。それは確かに間違いではなかったのだが――、明らかに異なっていたのはその食事内容なのだ。

 ある日ノーチェが渋々夕食を口にしていると、終焉がキッチンから出て来て「一緒に食べてもいいか?」と言ってきた。勿論、ノーチェ自身に拒否権などないと思い、頷いて了承の意を示したのだが、「すまんな」と言って食事と思える何かを手にしてきたとき、彼は目を疑った。
 ショートケーキだ。白い生クリームとイチゴが可愛らしいショートケーキが終焉の持つ皿に盛られているのだ。
 終焉はそれを手にしたままノーチェの目の前に座り、何食わぬ顔で平然とそのケーキに手をつける。柔らかなスポンジをフォークが突き刺して掬い上げるように先端へと載せる。それをそのまま口の中へと運んで平然と食べ進める姿はまさに食事そのものだった。
 それが夕食に似つかわしくないものだと奴隷であるノーチェにもよく分かった。御茶会やおやつとして食べるものを、男は夕食として食べているのだと思う頃にはすっかり食事をする手が止まっていて、それに気が付いた終焉が「はあ」と溜め息を吐く。怒られるのかと思い、ノーチェは肩を震わせると――「だから知られたくなかったんだ」と男は呟いた。

「私は甘いもの以外の味がよく分からないんだ」

 男曰く甘味以外のものは何の味もしないのだという。色や見た目はノーチェと同じように見えていながら、味覚という味覚が十分に理解できていないようだ。
 実際「甘味以外の味が分からない」と言われたノーチェは、終焉がやたらと甘いものを口にしている光景を思い出す。キャンディから始まり、手軽に作れるクッキーやパンケーキ、お手製だと思われるケーキまで日頃から口にしているのだ。時折掃除をしながらキャンディを堪能している光景さえも見るほどだ。
 だからこそ男は甘いもので食事を堪能しているのだろう。そして、それが可笑しいのだと自覚していて、敢えてノーチェに見せてこなかったのだ。
 落胆するように終焉は額に手を添えて深い溜め息を吐いた。「すぐ目の前から消える」そう言って黙々と食べ進める様を見るのは、胸の奥の蟠りを針でつつかれているような気分に陥り、思わず「別に気にしない」と口を溢す。
 ――本当は多少の引け目を感じていた。
 しかし、ノーチェの言葉に「本当か?」と様子を窺うように上目で見る姿を見ると、どうにも否定をする気が起きなくなるのだ。彼は小さく頷いてやると、僅かに終焉が喜んだような気がした。

 ――以来男は時折ノーチェと食事を共にすることがあるが、彼の中の違和感をそれなりに分かっているのだろう。ノーチェが多少の焦りを感じている間に、終焉はケーキをペロリと平らげてしまって、広いテーブルの上に肘を突く。「異端であることは当の昔から知っている」――そう呟く表情に喜怒哀楽の全ては含まれていなかった。
 妙な雰囲気になった朝食で、不意に「美味いか」と問い掛ける終焉にノーチェは控えめに頷く。これも男がろくな味覚をしていないのだと知ると、執拗に味の良し悪しを訊いてくる理由が分かる。終焉はどこまでもノーチェを気にかけていて、どこまでも彼に甘いのだ。

 そして、同時に味への自信の無さが窺えてくる。

 味が分からないといいながら的確な味付けをする終焉に、ノーチェは小さく首を傾げてみせる。何せこの味付けは終焉が何度も料理と味見を繰り返していなければつかないような、ある一定の――固定された味付けなのだ。レシピ通りに作っていると言われればそれまでであるが、特筆して塩加減が多かったり、甘味が際立ったり――個人特有の好みのようなものが現れることがある。終焉に限ってしょっぱすぎるということはないが、どうにも手慣れている様子の料理作りに「味付けへの自信がない」なんて言われているようで、違和感が胸を掠める。
 男は嘘を吐いているのだろうか。席を立ち皿を片しに行く終焉の背中をノーチェはぼんやりと眺める。長い、長い黒髪がゆらゆらと上機嫌に揺れて、扉の向こうへ消えていった。口の中に残る目玉焼き特有の黄身の後味は拭えることがなく、仄かに塩や胡椒などの風味が味わえる。
 果たしてこれが、味付けに自信のない男が作る料理だと言えるのだろうか――。

「…………まあ、いいか……」

 ぼんやりと考えていても仕方のないことを、ノーチェは朝食と共に咀嚼し、喉の奥へと押し流す。胸の奥にある違和感をも腹の中に押し込めて、扉の向こうで皿を片しているであろう終焉の元へと向かうべく、彼は席を立った。年季の入った椅子なのか、ほんの少し軋む音を立てて足元から離れる。
 ノーチェはキッチンへと向かうと、終焉が丁度皿を洗っているところだった。

「………………」

 彼は無言で皿を差し出すと、気が付いた終焉は「ああ、有難う」と言ってその皿を受け取る。そのまま泡が立つスポンジで丁寧に洗って、水で綺麗に注ぐのだ。その後に傍らに立つノーチェが乾いた布巾を手に、濡れた皿を受け取り、落とさないように丁寧に拭いていく。
 そんな一連の流れに終焉は慣れないのだろう――、じっとノーチェを見つめて行く末を見守った。

「…………アンタ、怒ったりしないよな……」

 ふと皿を拭くノーチェが小さく呟いた。
 拭き終わった皿を終焉に手渡して、男は戸棚に片しながら「怒る必要がないからな」と呟く。食器がぶつかり合う音が一瞬だけ響いて、思わずヒヤリとする胸を押さえながら戸棚が閉まるのを見守る。ノーチェは「そういうことじゃない」と言って、振り向く終焉の目を見つめ返す。

「……俺が無言で差し出しても、何も思わねぇの……?」

 小さく首を傾げ、ノーチェは問い掛けた。不安ではなく純粋な興味のようなものが、薄暗い瞳に仄かに宿っているように見える。ぼんやりとした、夜空に半月が浮かぶ瞳に終焉は一度瞬きをすると、ゆっくりと唇を開いていく。

「……気配がなければ話が別だがな。だがまあ、何もしなくていいと言うのに手伝ってくれる人間に、怒りを露わにする必要があるのか?」
「…………そう」

 気配がなければそれ相応のものがあるんだな。
 納得するように小さく頷いてノーチェは終焉の考えを呑み込む。確かに終焉はノーチェに強要した試しが――全てがないとは言い切れないが――全くないのだ。そんな終焉の思いを振り切って半ば無理矢理手伝いをしているノーチェの何を怒るべきなのだろうか――。

「…………なあ」

 ふと思い付いたことをノーチェはぼんやりと口にする。

「アンタは俺を殺してくれないの……」

 それに、終焉はただ感情を露わにすることなく、ノーチェの頭に手を乗せた。

「怒るぞ」

 何の感情もないただの言葉だ。しかし、その抑揚のなさがそれを冗談だと思わせるものになってはくれない。――いや、ノーチェを特別視している終焉のことだ。それ相応の怒りを彼にぶつけ、以前彼に教えた「感情の吐露による死」を迎えるのだろう。
 話は終わりか、と終焉の手が惜し気もなくノーチェの頭を離れた。感情を抱いているように見えないその横顔は雪が降る冬のように静かで、ぼんやりと扉の方を見つめる瞳は随分と冷めきっている。本当は静かに怒っているのではないか、と思うほど男の所作があまりにも静かで――

「さあ、暇潰しに外にでも行こうか」

 ――気を紛らすために呟かれたような言葉は淡々としていた。