虫の鳴き声と屋敷の静寂

「…………?」

 じわじわと熱に晒されながらひたすらに生きる虫の鳴き声に、ノーチェは閉じていた瞳を抉じ開ける。やたらと重たかった瞼の下に隠れていた瞳が、見慣れ始めた天井を映した。これといって汚れもない綺麗な天井だ。
 その天井を見た後、彼は一度瞬きをして徐に体を起こす。癖の残る髪の毛はすっかり寝癖がついていた。
 柔らかくなった頭をくしゃりと掻いて、ノーチェは寝具から足を下ろす。どこにでも敷かれた赤黒い絨毯に足を着いて、のそりと扉の方へ向かった。洗面所へ向かおうとしているのだ。見回りを怠った二階の突き当たりには、一階と同じように洗面所があるのだ。それに気が付いたのは一ヶ月を越した頃だった。
 ノーチェはその洗面所の扉を開けて、洗面器の水を捻り出しながら備え付けの鏡を見る。寝起き独特の無気力な表情がそこにあって、髪の毛は四方八方に跳ねている。今日もよく寝たな、なんて思いながら彼は顔を洗って――先程からの違和感に僅かに顔を顰めた。

 ――朝食の香りがしない。

 備え付けてある柔らかなタオルで顔を拭き、ノーチェは小首を傾げる。普段必ずといってもいいほど漂ってくる筈の香りが、今日に限ってはこれっぽっちも感じられないのだ。
 加えて、起こしにくる筈の終焉の姿も見ていない。もしかしたら朝からケーキ作りでもしているのだろうかと思った。――しかし、ノーチェのことを優先する終焉が、朝食を作らないなんてことがあるだろうか。

 彼は寝起きの足取りで廊下を歩き、寝間着としていた服を脱ぐ。タンスを漁って、同じような服を眺めてから適当に手に取ったものを着る。これといって服に拘ることも、着替えることも最早無意味だが、やはり用意されたのなら着るしかない。
 起きてから形の崩れた寝具を直し、締め切っていたカーテンを開ける。シャッ、と音を立てて開いた後、目を焼くような眩しい太陽光にノーチェは顰めっ面をする。朝だというのに昼と変わらない明るさに、嫌気さえ覚えた。
 これは終焉が嫌がる筈だと思いながら、彼は脱いだままの衣服を拾う。夏場というだけあって、見ただけでは分からないが、当然汗が染みているのだろう。そのうち終焉が「洗濯に出せ」と言うだろうから、先手を打って洗いに出すのが一番だ。
 再び部屋を出て、次に向かうのは脱衣室の方だ。
 廊下を歩いて階段を下り、そのまま左へと回って先にある扉を開ける。普段なら既に片付いている筈の場所には、未だカゴに入ったままの衣服が残されていた。

「…………何だ……?」

 ――酷い、酷い胸騒ぎがする。
 ノーチェは喉の奥に何かが突っ掛かるような酷い感覚に苛まれた。それをぐっと飲み下し、終焉の見よう見まねで洗濯機に洗濯物を入れて、回し始める。案外節約というものを視野に入れているようで、風呂の残り湯を使って、洗剤を入れる。そのまま洗濯機のポケットに柔軟剤を入れて、蓋を閉めれば後は自動だ。
 パタン、と閉じた洗濯機を見てみても、楽しめるものは何ひとつない。彼はその場を後にすると、何気なくリビングの方へと足を運んだ。
 扉を開けるものの、その奥には人の気配など感じられる筈もなかった。あるのはただ造りのいいテーブルと、椅子だけ。窓があったり、高そうな絵が飾られていたりするが、肝心の食事などどこにもない。――更に言えば、キッチンの方から調理の音も、何も聞こえなかった。
 ――可笑しい。
 ノーチェの胸にのし掛かる胸騒ぎは、時間が経つ毎に質量を増していった。起きた頃は感じていた空腹も、次第に胸焼けが増していく毎にどこかへと消えてしまう。今では家主が見当たらない妙な感覚だけが、彼の頭を揺さぶり続ける。どこかで得た既視感を記憶の中から引っ張り出して――、ノーチェはぐっと息を飲んだ。
 物音の類いは聞き入れていない。だからこそ、確証も得られない憶測に過ぎない。――それでもこの奇妙な静けさが、まるで以前〝商人〟達が押し寄せてきた頃によく似ている気がして、気分が悪かった。

 彼は咄嗟に踵を返してリビングに背を向ける。ちらりと見やるエントランスの扉は開いていない。故に外部からの侵入は限りなく少ないだろう。
 得体の知れない焦燥感に足を速める。屋敷の中を走るのはお門違いだ。足を速める程度で、その上屋敷内を騒ぎ立てるほどでもない速度で、ノーチェは階段の手摺りを掴む。
 勢いのままに終焉の部屋でも見てこよう――そう思ったときだった。落とした目線の先に、見慣れたような黒い、――黒い髪が床に広がっていた。

「えっ…………あ」

 目の前に出てきた光景に、一瞬でも「<ruby><rb>終焉</rb><rp>(</rp><rt>なまえ</rt><rp>)</rp></ruby>」を呼ぼうとした。――しかし、何故か言葉が喉の奥で引っ掛かり、ノーチェは言葉を呑み込んでしまう。理由は分からない。ただ、無意識の何かがその名前を呼んではいけないというように、息が詰まるような感覚になるのだ。
 ――だが、今となってはそれももう気にしていられない。
 ノーチェは咄嗟に終焉の元へ駆け寄り、床に俯せに倒れている男の体を揺さぶる。「なあ」だの「おい」だの呟いて顔を覗き込むが、一向に目を覚ます気配がない。呼吸はしているが、その間隔はあまりにも狭く、正常だとは思えなかった。
 ――このままでは呼吸がしにくいだろう。
 終焉の体を抱えて、彼は男の体を仰向けにしてやる。
 すると、垂れた長い髪の合間から見えた蒼白い筈の顔には、見たこともないほど汗が滲んでいた。眠ったような顔をしているが、眉間にシワが寄せられている。矛盾したその顔にそうっと手を当てると、終焉からは冷たさなど微塵も感じられなかった。
 まるで真夏の炎天下で一通りの作業を終わらせた後のような熱だ。見た目は蒼白だというのに、汗をかくほどの熱が体にはあるのだろう。
 ――かといって正しい対処の仕方を知らない彼は、ただその様子を茫然と見つめることしかできなかった。普段氷のような冷たさを持つ男の介抱など、どうすれば良いのだろうか。

「…………」

 ――そう悩んでいると、終焉の目がゆっくりと開かれた。重い瞼が隠していた赤と金の瞳を露わにして、一度だけゆっくりと瞬きをする。状況を知ろうとしているのだ。天井を眺めた後、ノーチェの顔を見るや否や「ああ、」と吐息のように洩らす。
 そして何を思ったのか、体を支えるノーチェに手をつきながら、男は体を起こした。

「えっ、な、大丈夫なの……」

 体に鉛を乗せられているかのように思えるほど、動きの鈍い終焉を見たノーチェが呟いた。奴隷である彼がそう言うほど、終焉の様子は可笑しいのだろう。髪の隙間から見える表情は普段よりも冷たく、瞳は酷く暗く思える。
 「少し、寝ていただけだ」――なんて呟く声色は、あまりにも感情が込められていなかった。
 少し。その言葉が引っ掛かって、彼はリビングに備え付けられた音の出ない時計を思い出す。普段意識して見ないものを思い出すのは難しかったが、普段目を覚まして動く時間が大体九時前後だ。それよりも早く終焉は目を覚ます筈で。

 ――ならば、男は一体いつから倒れていたのだろうか。

 倒れていた終焉の姿が妙に瞼の裏に焼き付いている。ノーチェはゆっくりと立ち上がった終焉の背を、見上げたまま不思議な感覚に陥った。
 蝉の鳴き声が遠く聞こえて、部屋の中に少しずつ熱が充満していく。体に鞭を打つ気怠げな背中は、酷く頼りなさげに見えて仕方がない。ふらふらと覚束無い足取りに堪らず不安を覚えていると――、小さく「寒い」と男が呟いた。

「――……」

 直後の行動は、まるで自分のものではないかのような印象を彼は受けた。
 無意識だった。無意識のうちにノーチェは立ち上がって、項垂れたような終焉の手を掴む。咄嗟の出来事にノーチェはおろか、終焉も驚いたように振り向いて瞬きをした。彼の手には人肌よりも温度の高い熱が伝わってくる。それでもノーチェは手を離そうとはしなかった。
 ――こうしなければ後悔するような気がしたのだ。

「………………離せ」

 ぽつりと小さく、小さく終焉が言った。その声は蚊の鳴くような声量で、あまりにも小さかった。
 終焉が呟いた言葉にノーチェは一度だけ戸惑いを見せたが、僅かに首を横に振る。嫌だ、と言わんばかりの様子に終焉は微かに眉を顰めた。おずおずといった様子で――しかし、大人しく引くようなつもりはない――ノーチェの視線に、ふと体を強張らせるのが分かる。

「……何してんだ」

 思わず口から出た言葉が普段とは異なるような気がしていた。――だが、それを気にしていられるほど、ノーチェの頭は冷静ではない。終焉が倒れている姿を見て、胸の奥が騒いでいたのはこれが初めてではないのだ。

 未だ記憶に新しく思える男の息絶えた顔。生気が感じられない暗い瞳に、頭から流れる血液が頬を伝う。呼吸こそはしていなかったが、もう動くことのない姿に戸惑いを覚えていたのはいうまでもない。
 ――そんな光景が、ふと脳裏によぎってしまうのだ。
 今回はただ倒れていただけで意識はあったものの、万が一のことを思ってしまっては、足元から崩れ落ちるような感覚に陥る。この感覚はそう――終焉が自らを傷付けたときにも、似たようなものを覚えたものだ。
 自分は一体何を忘れているのだろう。――彼の頭には混乱があり、ただただ現状を理解することができない。終焉と出会ってから似たような既視感を味わい続け、何度も胸焼けを覚えたものだ。

 問い質していけば答えてくれるのだろうか――そう思っていると、終焉の様子が少しずつ変わっていった。先程から呼吸を繰り返すのが酷く辛そうではあったのだが、それがどんどんと露骨になっているのだ。
 肩で息を繰り返す様子が、男の異常を示している。ふうふうと、まるで熱い湯船に浸かってのぼせてきたような呼吸だ。浅く、十分な量を体に回せていないのがノーチェでもよく分かった。
 明らかに体調を悪くしている。それは、医者でもない素人の目でも見て分かるほど。蒼白い顔に熱が出ているなんて、矛盾しているようなものだろうが、そう変なことを考えてはいられないだろう。
 終焉の手を掴んだまま、彼はただじっと男を見つめていた。それに対抗するように終焉もまたノーチェを見つめ返していたのだが、次第に視線が揺れ動いているのが見て取れる。きょろきょろと、右往左往しながら足元へと落ちた目線は、少しずつ瞼の下に隠されていった。

「――!? うわ……っ!」

 あまりの突然の出来事に、ノーチェは驚きの声を上げながら咄嗟に足を踏み出した。ゆっくりと眠るように目を閉じた終焉が、そのまま意識を失うように前へと倒れ込んだのだ。
 手を掴んでいた彼は重心が傾く終焉の懐に入り、両腕で体を支えながら抱き留める。長い髪が鬱陶しいほどノーチェの視界に映り込んで、邪魔そうだなと思いながらもしっかりと両足で重心を保つ。男は先程まで体に力を入れて立っていたというのに、ノーチェの体の中で少しの力も入れていなかった。
 まるで死体のようなその脱力感に、彼はほんの少し胸の奥に焦燥感を掻き抱く。
 力の入らない人間の体は酷く重いというのに、終焉の体はそれを否定するほどやけに軽かった。

「…………取り敢えず、部屋に……」

 倒れ込んだ終焉には意識が残されていないのか、ノーチェの呟きには反応も示さずにいる。そんな家主の足元を懸命に抱え込み、足を引き摺らないように持ち上げる。背に腕を回してやって、自分がやられたように抱き抱えてやった。
 終焉は意識を手放していて、現状に対する感想を求められないのが残念なところだろう。
 ――なんて考えを頭の片隅に追いやり、ノーチェは終焉の部屋へと足を向ける。存外慌ててしまった自分がいることに多少驚いたが、それも当然のことだろう。今まで何の不調も訴えそうにないような、「完璧」を体現した男が倒れるなど、余程のことがなければ起こらないだろうから。
 彼は部屋の扉を開けて、部屋の暗さに一度だけ足が止まる。朝だというのに、まるで夕暮れの後のような仄暗さに確かな違和感を覚えた。――だが、不思議と心地が悪いわけではない。夜の静けさにも似た雰囲気が気持ちを落ち着かせるようで、ノーチェは小さく吐息を吐いた。
 すぐ傍では終焉の浅い呼吸が聞こえてくる。やけに辛そうな呼吸に、どうすればいいのかと考えながら寝具へと近付いた。相も変わらず形の整った寝具がそこにはあって、ノーチェはゆっくりとその上に終焉を寝かせる。
 酷く暑そうに汗をかいているのだが、先程から「寒い」とばかり呟きを洩らしていて、つい対処しようとする手が止まってしまう。
 早く対処したいと思う反面、現状に困っているのも確かだ。気持ちと行動が一致しないというのはこのことを指すのだろう。

 このときばかり、彼は屋敷に自分や、終焉以外が住んでいないということを嫌に思った。せめて、せめてあと一人でもいてくれれば――

「…………」

 ――そう思った矢先、ノーチェは振り返って出入り口の方をじっと眺めた。
 いや、正確に言えばその奥にあるエントランスを見つめていた。何かしらの音が鳴ったような気がして、目に見えないとしてもつい顔を向けてしまったのだ。
 ――しかし、数秒待っても扉のノック音など彼の耳に届くことはなかった。焦って幻聴でも聞こえたのか、それとも鳥や虫達がぶつかった音が扉を叩く音に聞こえてしまったのだろう。頼る人間が誰もいないと分かると、ノーチェは落胆したように「……どうしよう」なんて呟いた。

「……とー! いるでしょー!」

 ――不意にノーチェの耳に随分と聞き慣れたような女の声が届く。直後に強く扉を叩く音が聞こえて、彼はびくりと体を震わせた。――それでも現状を打破できそうな人間が来てくれたことを視野に入れると、やけに安心したような気持ちになる。
 ドンドンドン、と催促する音に導かれ、ノーチェは横たわる終焉に目を配らせてから、足早にエントランスへと向かった。屋敷内ではあまり走ることはしなかったが、このときばかりは急ぐのが正解だっただろう。ばたばたと駆け寄った後、色が重い扉を開けてノーチェは唇を開いた。
 現状をどうにか説明しようと、思い至ってのことだった。
 しかし――

「ああ、いいわよ。何も言わなくて。全部分かってるの。だから私が来たのよん」

 ――遅い、とも言わずに、リーリエは軽く笑ってにこりと微笑んだ。