朝。鳥の囀り――だけでなく、虫達の鳴き声で彼は目を覚ます。遮光カーテンの向こうの日差しは強く、窓を見ればカーテン越しの光があまりにも目に悪かった。屋敷の中は相変わらず冷えているが、外に出れば昨日と同じような暑さがあるのは明白だ。
ノーチェは布団を捲り上げて、寝起きに襲い来る不快感に気分を害する。目眩、熱、胸の奥から何かが込み上げてくるような感覚――喉が渇いた、と思うや否や、彼は何かを飲みたいという衝動に駆られる。
先日はろくに水分を取っていなかった所為で、体に異常を来したのだろう。彼は目を擦りながら「水……」と呟き、寝惚け眼のまま、一先ず洗面台へと向かった。
顔を洗って歯を磨き、身支度を済ませてから再びキッチンを目指すために階段の手前へと戻る。――すると、先日にはなかった食欲をそそる香りが、ノーチェの鼻を擽った。芳ばしく、肉独特の美味そうな香りはウインナーの類いだろうか。
意識とは裏腹に体は正直なもので、くぅ、と鳴った腹に手を当てて、ノーチェは階段を下りた。一段、また一段と下る度に香りが強くなってきていて、今日の朝食は何だろうか、とノーチェは想像を膨らませる。
終焉の手料理は美味い。本人が自覚していなかろうが、誰が何と言おうが、彼にとって終焉の手料理はやけに美味い。ここ最近の楽しみと言っても過言ではないほどだ。
ノーチェはリビングを抜けると、そのままキッチンの方へと足を踏み入れる。扉を開けてちらりと部屋を覗き見れば、トントンと心地のいい音が聞こえた。既に夕食の準備をしているような雰囲気の背は、どこか母を彷彿とさせてきて、彼は目を白黒させる。
そんなノーチェの存在に気が付いたのか――終焉はふと振り返って、ノーチェと目を合わせると「おはよう」と言った。
「……ん。体は……?」
「ああ、平気だよ。随分と心配を掛けてしまったな」
親の姿を見付けた小動物のように、ノーチェは終焉の傍らへと歩み寄った。男の言葉の通り、終焉の顔色は――相変わらず色白だが――悪いとは言い難い。昨日の見知らぬ雰囲気も一変して、ノーチェ自身が知る終焉がそこにいた。
もう夕食の準備をしているのかと問えば、終焉は夕食に力を入れたいようで頷いてくる。昨日の分を込めて、今日は一日中振る舞ってやるつもりだ、と男は言った。それが体の調子を崩す原因になると言うが、終焉は聞く耳を持ってはくれない。
楽しみにしていた分、力の入りようが違うのだ。
「…………これ、持ってってい?」
いくら言ってもキリがない。そう言いたげにノーチェはテーブルの上にある料理を指差すと、終焉は「頼む」と呟く。
皿の上には目玉焼きがひとつ。瑞々しいレタスの上にウインナーが二本丁寧に飾られていて、再び腹の虫がくぅ、と鳴った。終焉のことだからデザートだの何だのを用意している、と思いながら、彼はその料理をリビングへ運ぶ。個数は何故か二つ。終焉が口にしないのを知っているノーチェは、誰かが来るのかと小首を傾げる。
――すると、丁度いいタイミングでエントランスの方からノック音が聞こえた。
「……タイミングだけはいいな」
そう言って終焉は扉越しにノーチェに出迎えるよう、頼んだ。
料理の最中に目を離してはいけない。――そう理解している彼は、一度頷いてエントランスへと駆ける。朝食に気を取られて喉の渇きを忘れていたことを思い出しながら、ノーチェは何の警戒もなく「はぁい」と呟いて扉に手を掛けた。
終焉が警戒をしていない以上、予想外の出来事は起こらない筈だと思っているからだ。
「はぁ~い! 少年~! お誕生日おっめでと~!」
パンッと音を立てながら撒き散らされた紙くずに、ノーチェは目を丸くする。
目の前に現れたのは金の髪を持った一人の女。相変わらず騒がしそうな声色に、堪らず眉間にシワを寄せる。火薬の香りが鼻を突くのに嫌気が差しながら「煩いな」なんて呟くと、リーリエは頬を膨らませた。
女の姿は普段見かけるドレスよりもいくらかラフな格好だった。黒っぽい色ではあるものの、ワンピースのように緩く軽やかな生地を使ったシャツに、裾が余裕のあるスカートのようなキュロットを穿いていて、赤いヒールが目立つ。長い金の髪は緩くまとめ上げられていて、珍しいものを見たような気持ちにさえなった。
「煩いとは何よ」そう言って唇を尖らせるものの、子供のような生意気さは見当たらなかった。寧ろ母のような雰囲気だけが醸し出されていて、「アンタもそういう格好になれるんだな」と呟きながら、ノーチェはリーリエを招き入れる。
「おめでとうに対して有難うは?」
「………………ん」
靴を脱ぎながらリーリエはノーチェに問い掛けた。ああ、面倒くさいやつ――なんて思いながらも、生返事を返すと、女は不機嫌そうに「ちょっと!」と声を上げる。
「……外のあれ、片付けるの誰だと思ってんの……」
「…………許す!」
散らばった紙くずを後目に、リーリエは腰に手を当てて胸を張りながら笑った。
何が許すだ。
彼はリーリエに軽く睨みを利かせながら、何気なくリビングの方へと向かう。二つあった朝食の片方は恐らくリーリエが口にするのだろう。義理堅い一面もあるのか、先日の礼とでも言いたげに用意された朝食を思い出しながら、女を一瞥してやる。リーリエは腹に手を当て、お腹空いたぁ、と呟きながら彼の後ろを歩いていた。
結局仲がいいのだ。苦手だとしても、終焉はリーリエにどこか頼っているような節もある。扉を開ければリビングには全ての朝食を運び終えた終焉が「遅かったな」と言うことから、ノーチェにはそれとなく理解できた。
理解はできたのだが――椅子へと歩み寄る足が妙に重く感じるのは、何故だろうか。
彼は普段の席へと座ると、その隣にリーリエが座った。「いただきます」と同時に呟いた様子を、終焉は「ああ」と言って見届ける。その後自分の分の朝食――相変わらず洋菓子一択である――をテーブルに置いて、席に座る。甘い香りを漂わせるそれを、終焉はどこか美味そうに頬張るものだから、彼はもう突っ込む気力もなかった。
ノーチェの隣ではリーリエが「美味しい!」と言い張って、順調に手を進めている。こんがりときつね色に焼かれた食パンの上にレタスと目玉焼きを乗せて、満面の笑みを溢しながら満足そうに朝食を食べ進めている。
ノーチェはそれを横目に見ながらのろのろと食べ進めている所為か、終焉は不安そうに「どうした?」と彼に声を掛けた。
「…………美味くないか……?」
――もしも男が動物か何かだったら、落ち込むように耳が垂れていたことだろう。
不安げな顔に彼は首を横に振って、「美味しい……」と小さく口を溢す。すると、終焉はやたらと嬉しそうに口許だけで微笑んで、よかった、と言う。見慣れてきたその顔を後目に、ちまちまとノーチェは口に含んだ。
瑞々しいレタスの葉も、程好く焼かれて半熟のままの目玉焼きも。芳ばしい香りを漂わせるウインナーから軽く溢れる肉汁も、変わらずに美味しいと思える。デザートには手作りらしいイチゴのシャーベットなんか置いてあって、随分と手の込んだ朝食だ。小さなミントが可愛らしく飾られているところは、最早拘りすら感じられるほど。
普段と異なるのは、それを味わうのがノーチェ一人ではないことであって――。
「………………はあ」
「あら、少年お腹いっぱいなの?」
「……そんなわけないだろ……」
ふと気が付いた心情に、自分の幼稚さを彼は呪った。
気に食わないのだ。毎日手の込んだ料理を出して自分の舌を肥やしてくる終焉の手料理を、自分がよく知らない人間と分かち合うのが。ノーチェの為に出してくれているであろう料理を、今日ばかりはリーリエも食べている。自分が知らない間に今までも何度か口にしていたのだろうか、と考えるだけで、妙に胸の奥が騒ぐような心持ちになってしまった。
拗ねているのだろうか。嫉妬しているのだろうか。感情の正体は分からず、彼はただ、自分があまりにも子供じみていることに嫌気が差してしまったのだ。
こんな感情を抱くなど、ノーチェ自身思いもよらなかったのだろう。彼は何気なく頬を膨らませたが、無駄なことだと知って小さく首を横に振った。用意されている飲み物を一口。くっと飲んで、渇いていた喉が潤ったことに軽く吐息を吐いた。