打ち明けたことは一度もないが、夢をよく見るようになった。特に切っ掛けはないとは思うのだが、強いて言えば、梅雨の出来事が引き金になっただろう。
以前は何となく、「楽しい」と思うような夢を見ていたような気がする。
気がする――というのは、目が覚めれば決まって殆どのものを忘れてしまっているからだ。
本来夢とは基本的に覚えていられるようなものではないと思う。かくいう彼も、覚えていないのだから、その程度のことなのだろう、とすっかり諦めていたものだ。布団を剥ぎ、起き上がって背伸びをする頃には、彼の頭に夢の出来事などまるで存在していなかった。
楽しい夢ほど記憶に残らないのは酷く残念に思う。
彼は決まってどんな夢を見たのかを思い出そうとするが、やはり内容まで思い出すことはできなかった。
夢に出てくる登場人物は決まって二人であることが多い。一人は紛れもない自分。もう一人は顔は見られないものの――上司のような立場の人間だ。
可笑しなもので、彼の見る夢は基本的に一人称視点――つまり自分の視点から見るもの。それ故に登場人物は自分を含め、もう一人の誰かがいる。基本的には小さな御茶会を開いていたり、他愛ない話をしていたりするのが殆どだ。時折見知らぬ部屋に招かれたと思えば、何か、大切な話をしていたような気がする。
それすらも思い出せないのだから、夢というものはやはり不思議なものだ。
彼が思い出せるものは基本的に背筋が凍るほどの、信じられない光景ばかりだった。そのときばかりは誰も、誰も目の前には立っていないのだ。
――いや、正確には対面していたのだ。それを裏付ける状況を、彼は断片的に思い出すことができる。
黒い――黒い液体がまるで血液のように溢れていた。若草が生い茂っていた中で人工的に敷かれたテラコッタタイルの地面が、その黒い液体にじわじわと侵食されていくのが分かる。彼は徐に手のひらを見つめて、ところどころシミのように残る黒い液体を、恐ろしいものを見るような目で見つめていた。
そのあと覚束無い視線がゆっくりと何かを辿る。ふらふらとよろめくような視線に、半ば嫌気が差していると、黒い衣服が視界の端に映るのだ。
その全貌を視界に入れたとき、確かに息が止まった。呼吸をすることも忘れて驚きに呑まれたからだ。肩は優に超えているだろう伸びた黒い髪。女のように白い肌。傷だらけの体に、肩から腹まで大きく刻まれた生々しい傷痕――一切の血の気のない顔に、涙が一筋、溢れたような気がした。
俺はこの人を知っている。
――夢だというのにも拘わらず、彼は確かにそう思った。思った筈なのだが、どうにも夢ではそれが何なのかがはっきりと思い出せない。喉元に何かが突っ掛かって胸元に不快感が残るのと同じように、頭の中で小さな糸の絡まりがほどけず、くしゃりと顔を歪める。
――すると、唐突に目が覚めるのだ。
一気に現実へと引き戻された頭はまともに働かず、目覚めて視界に映る天井をただひたすらに見つめる。不意に頬に何かが伝ったと思えば、何故だか涙が溢れ落ちる。奴隷になって、この屋敷に来てやたらと泣く機会が増えたなどと思い拭うのだが――、肝心の夢の全貌が次第に思い出せなくなっていくのだ。
思い出せるのは断片的な、決まって黒い液体が広がっている光景だ。血の気のない人形のような頬が見えるか見えないか。その程度の光景を思い出しては時間が経つにつれて、ゆっくりと忘れていく。
――そんな出来事が数日繰り返されていた。悪夢として区分しても可笑しくないであろう夢に、彼は終焉に相談しようかと何度も思った。
しかし、忘れていく夢を何とか思い出そうにも、説明ができないほどにまでぼやけていってしまうのだ。しまいには何に悩んでいたのかも忘れて、今日もまた、終焉の手作りの料理を口に運ぶ。
そんな毎日の繰り返しは特別苦ではなかった。可笑しな夢を見る自覚はあったが、人体に影響はない。せいぜい理由も分からないまま涙をする程度で、体に痛みなどないのだ。
――それでもまた夢を見た。今日も鮮明な夢を見た。黒い液体が水溜まりのように広がっている。加えて雨がぽつぽつと手のひらに落ちてきて、黒い地面が水に溶け出していた。
普段から雨が降っていたか、彼にはもう分からない。――忘れていた筈の夢を思い出してしまったのは、黒い血液が、溢れたからだ。
「……ぐ……ぁ……ッ」
低い呻き声が喉の奥から絞り出される。綺麗な笑顔から一変、終焉は酷く苦しそうに顔を歪めた。口からは男特有の黒い血液が溢れ、体には一目で分かるほどの奇妙な黒いシミが急速に広がっていく。どっと押し寄せる鉄の香りは血液そのもので、ノーチェは思わず口許に手を当ててしまった。
幸せだと口を溢した筈の終焉が、強く目を見開く。今までに見たこともない険しい顔だ。汗が頬に伝うだけではなく、涙までもが伝っていく。瞳孔が開いていくようにも見えて、ただ事ではないのは確かだと認識した。
たった一言。たった一度。幸せだと思っただけでこんな仕打ちを受けてしまうものなのか。
彼は微動だにせず終焉の行く末を眺めていた。恐怖や驚きにより身動きが取れなくなっていた、と言っても間違いはない。だが、知りたいと思ったのは彼自身で、万が一それを目撃してしまった場合の自分の可笑しさを、自覚しておきたかったのだ。
足はすくみ、息は止まる。手が震えて思考がままならなくなる。胸の奥からは煩いほど心臓が鳴り響いていて、血の気が引いていくのが分かった。
――間違いはない。ノーチェは、終焉が死に至るのを酷く恐れている。
他人の死にも特に恐れを抱かなかった筈なのに、どうにも男だけはそうはならなかった。
終焉のシャツはみるみるうちにどす黒い色へと移り変わる。胸元から広がっていくのを見れば、傷があるのは胸元からだということが明白だ。終焉は震える手で胸元の服を握り締め、小さく言葉を洩らす。まさか、ここまで、と。
まるで予想もしていなかったような言葉を、ノーチェは聞き逃しはしなかった。胸元の傷は新しく刺された形跡もない。恐らく古い傷が勝手に開きでもしたのだろう。例えばあの、胸元から腹にかけての傷が開けば、異常な出血をする筈だ。仮にそれが開いたとすれば――男はもうすぐ、命を落とすだろう。
「――ぁ……ッ!?」
「っ!」
――不意に終焉が驚くように声を上げたと思えば、鈍い音を立てて床へと倒れる。
突然の出来事に彼は咄嗟に男の傍へと駆け寄ると、奇妙なものを目にした。
終焉は傷だけではなく何かに対して酷く苦しそうに呻いている。息をすることも叶わず、胸元に当てていた手を首元に添えて、掻きむしるような素振りを見せる――。
――と思えば抵抗も無意味だというように、喉に添えた手を床に置いた。ぎり、と赤黒い絨毯を強く握り締める。絶え間なく溢れる血液の香りに、彼は少しずつ気分を害されていって、堪らず「どうしよう」と呟いてしまう。
どうしよう、こうなってしまっているのは明らかに自分が原因だ。
それでもノーチェに何かができる筈もなく、男が苦しんでいるのを見つめることしかできなかった。
――やがて、抵抗が落ち着いてくると、終焉の赤い瞳がどこかを見つめながら光を失った。
ほんのり涙が浮かんでいるが、もう話すことはない。試しに顔に手を添えてみたが、少しの呼気も返ってこない。血の気は失せたまま、次第に服を越えて絨毯までもを黒く染め上げていく。何気なく「なあ」と声を掛けてみても、勿論何も返ってこなかった。
終焉がやたらと気にしていた首元には、妙な痣が強く刻まれていた。まるで誰かに首を絞められていたような、赤い手形だ。的確に息の根を止めようとする何かが、二重にも男を苦しめていたとでもいうのだろうか。
一分、また一分と時間が過ぎていく。茫然と立ち尽くしたままの彼は終焉だったものを見つめたまま、成す術もなく時間が来るのを待つだけだ。
曰く、男は〝永遠の命〟を体に宿している。一体どの程度の時間が経過すれば息を吹き返すのかは分からないが、死んだままではないだろう。今まで同じように死んでいたのだとすれば、終焉は一呼吸置いてから姿を現している。その間の時間は十分にも満たないほどだ。
この仮説が本当に通用するのなら、あと数分で終焉は起き上がる筈――
「……………………」
――しかし、五分が経っても男は一向に起きる兆しはなかった。
「…………なあ」
堪えきれず、ノーチェは再び終焉に声を掛ける。その場に屈み込み、一度迷いながらも動かない体に手を置いた。返事がいつやって来るかも分からずにもう一度、なあ、と言う。
名前でも呼べればすぐにでも戻ってこられたのだろうか。不思議なことに、未だに〝終焉〟を名前として認めたくないノーチェは、ただ呼び掛けるだけの行為を繰り返す。熱もない冷めきった体を小さく揺さぶって、「まだ起きないの」と語り掛ける。
そうでもしないと罪悪感に体を押し潰されそうだった。言い表しようのない不安が次々と体を蝕んでいくのだ。
倒れて息のない終焉の顔を見つめていると、嫌な夢ばかりを思い出してしまうのだ。
生気のない人形のような顔に、つぅ、と涙が溢れたような気がして、ノーチェの息が止まる。
――あまりにも似ているのだ。夢で見る命を落とした人間に。朧気だった夢の景色も不思議と甦ってきて、鉄の香りが鮮明に思い出させる。頭が働かないまま徐に手のひらを見つめれば――ある筈のない色が点々と手のひらについているような気がした。
――夢の中で死ぬのはこの人だったんだろうか。
目の前の視界が微かに歪む。忘れていた呼吸を取り戻すが、浅い呼吸の繰り返しで、脳にまで酸素が回らない。死んだままだったのか、どうなったのか、続きを見ることのないノーチェには分からない。
その所為か――万が一終焉がこのまま起き上がらなかったら、という思考が脳裏をよぎった。
窓の向こうの空は憎たらしいほどに晴れ晴れとしている。まるで男の死を喜ぶかのような晴れ具合に、彼は俯いて唇を開く。
「……アンタが死んだら…………」
――……嫌だな。
そう無意識のうちに呟くと同時――、小さな音を聞いた。
それは、胸元に耳を押し当てたときに聞ける小さな鼓動だ。どくん、と脈を打って一定のリズムを奏でる。心臓が動く音がこんなにも鮮明に聞こえるものなのか、と何気なく思っていると、男の手指がぴくりと動いた。
「……!」
心臓が鼓動を繰り返す度、少しずつ男の体が動いてくる。初めは指先。次に腕。ずるずると胴体の方へと四肢を寄せて、体を起こそうとするのが見て取れる。特別咳をすることもなければ、痛がる様子も見せない。
男が長い黒髪を垂らしたままゆっくりと体を起こすと――、脈を打つ音が途切れた。
「――はあ……」
大きな溜め息と共に終焉が髪を払う。その顔は鬱陶しそうな、それでい蒼白い顔をした、心底嫌そうな顔付きだ。眉間にシワを寄せていて、すぐにでも悪態を吐きそうな様子に、ノーチェは茫然とする。
あまりの飄々とした態度に、ゆっくりと息を吹き返した終焉に、どう反応するべきかが分からなかったのだ。
〝永遠の命〟を間近で見た彼は、ぽかんと唇を開いたまま男を見つめる。一際苦しみを与えられていた筈の終焉が、――表情こそは曇っているが――確かに息を吹き返したのだ。死んだ魚と同じように暗かった瞳は凛として、人形のような顔には人間と同じ感情が宿る。
止まっていた呼吸を数回繰り返し、ほう、と息を吐いたところで、男はノーチェを見やった。
「知りたいことは知れたか?」
「…………」
何の意図を込めてか、男はノーチェに向かって柔く微笑む。その節々には酷く疲れきったような色が滲み出ていて、彼は漸く開いていた唇を閉ざした。
手を伸ばしてほんの少し離れてしまった終焉の服をぐっと握り締める。終焉が「汚れてしまうよ」とノーチェの身を案じたが、彼はその言葉を聞き入れようとはしなかった。
――こんなことになるなら知らなきゃよかった。
終焉の服を掴んだまま俯くノーチェの頭を、男は酷く優しく撫でていた。