青い瞳と鉄の香り

 ぱたぱたと滴り落ちた生温かな液体がノーチェの顔面目掛けて降り注ぐ。頬と、口許にも目掛けて黒い液体が容赦なく落ちてきた。
 それほどまでに近く、それほどまでに酷い出血が彼の目の前で広がった。
 ノーチェと終焉の身長差は十五センチほどだ。数字にしても大体の身長差は想像し難いものだが、横に並んで見れば一目瞭然だ。
 ノーチェの頭の先は終焉の首元にある。
 先程男の周りを吹き荒れていた風は、ノーチェの頬を切りつけた鋭利なものだ。俗に言う鎌鼬にも似たようなものだろう。それが単純に人の手で巻き起こされたものに過ぎない。
 ノーチェの首元を目掛けたであろう風は、首輪があることによって目的を変えた。睨みつけるように力強く開いていた瞳が気に食わなかったのだろう。顔を目掛けていたそれは、ノーチェを押し退けた終焉へと標的が変わる。
 ――木の葉をふたつに切り裂くほどの鋭利な風は、終焉の首を目掛けて吹き荒れた。

 ――黒い液体が、風に乗って辺り一体に滴り落ちるのを、彼は茫然と見届けてしまう。

 長い髪がいくらか切れてしまって宙に舞った。風が少しずつ弱まってきたのは、男達も呆気に取られていたからだろう。
 それよりもノーチェが気になってしまったのは終焉の安否だ。
 男が長い黒髪をやたらと大切に思っているのは重々承知の上だが、ノーチェが気にするべき問題はそこではない。彼は終焉との身長差を誰よりも理解していて、誰よりも男の死に対して恐怖を抱いている。辺りに舞い散る終焉の血液の量が尋常じゃないことに、彼は腰を抜かすように地面へ尻もちを突く。
 首が、終焉の首が、半分ほど切れてしまったのが、黒い髪の隙間から見えてしまった。

「あ……ぇ……」

 ノーチェを押し退けて前へと躍り出た終焉の体が、静かに前方へと倒れていく。無抵抗のままに、ド、っと鈍い音を立てて地面へ叩き付けられた。
 彼自身、現状を把握し切れていないように小さな言葉を洩らす。つい先程まで死に対する覚悟ができていたにも拘らず、終焉は身を挺してまでノーチェを庇ったのだ。
 自身を顧みず、死に直面して尚、恐れることもなく命を擲った男。
 そんな終焉を――〝教会〟の人間達は苦い顔を浮かべた後、ゆっくりと、くつくつと嗤い始める。

「これが、――これが〝終焉の者〟だっていうんなら、俺達は殺せたことになるんだよなぁ!」

 案外呆気なかった、と男は大きな口を開いて言った。白い服の隙間からきらりと光る十字架が、日の光を反射する。一人の男が狂喜に満ち溢れたように高く笑うと、それに倣うように仲間達がくつくつと肩を震わせる。何を言っているのかはノーチェには理解できないが、彼らは口々にこう言った。
 「これで奴を見返せる」「これでアイツを街から追い出せる」――と。
 ほんのり冷えた風が頬を撫で、舌の上にやたらと錆びた鉄の味が広がるのを実感しているノーチェは、腰を抜かしたまま耳を、目を疑った。

 彼には何となく、彼らの言う「化け物」が終焉のことを指しているのは分かった。何せ、男自身が自分のことを「化け物」などと比喩するからだ。
 見た目はどこまでも人間と同じでありながら、ほんの少し常軌を逸脱しているだけ。肌が冷たかったり、血液が黒かったり――常人との違いはそんな些細なこと。
 そんな些細なことを気にして彼らは、男は、〝終焉の者〟を「化け物」などと言い表しているのだ。
 ノーチェからすれば大した違いではないのは明確だ。彼自身もまた常軌を逸脱したような存在であり、見るものから見れば、重宝する生き物だ。夜空を模したように紫の瞳に三日月が浮かんでいる瞳も、黒く染まった強膜も、一般人からすれば「化け物」に近いのかもしれない。

 ――しかし、ルフランで擦れ違う人間は皆、ノーチェを「化け物」として見ることはなかった。
 大半の人間は首元に視線を向けてしまって、奴隷という認識が強く根付いてしまっていたのだろう。〝商人〟から見れば、ノーチェは質のいい商品に過ぎないのかもしれない。人間として見られることはなかったとはいえ、存在も不明確な名称に喩えられることはなかった。
 何なら彼は、終焉に一人の人間として――少々過保護ではあるが――扱われていたのだ。
 充実した食生活。問答無用で与えられる衣服の数々。掃除が行き届きすぎて手を出しようにもない綺麗な屋敷――どれを取っても奴隷として生きている間は与えられなかったもの。
 それを分け与えてくれたのが、他でもない終焉なのだ。
 彼にとって終焉は人間だ。肌が色白であろうが、血液が黒かろうが、蘇ろうが人間だ。風呂に入れば人並みの体温にはなるし、蘇生することには驚きはしたが至って普通の暮らしができる。食事の味付けに対して一抹の不安を見せるものの、腕前は完璧で、時折変わる表情は人間以外の何になろう。
 ――少なくとも、ノーチェの目には、終焉は人間として生きていた。どれだけ自分を卑下しようとも、誰よりも人間のように見えていたのだ。
 まるで人間に憧れるように。

 そんな命を殺めた彼らを、ノーチェは信じられないものを見るような目で見上げた。数センチ先には終焉の亡骸が俯せで倒れている。室内ではない分、いくらか風に流されているが、強い鉄の香りが所狭しと漂っている。風の力では十分に切り落とせなかっただろうが、動脈がしっかりと切れたであろう首元からは、絶えず黒い血が溢れ出している。
 どくどく、どくどくと。
 まるで水溜まりを作り出しそうなその光景に、ノーチェは恐怖を押し留めるように生唾を呑み込んだ。溢れ出す終焉の血液と同調するように、高鳴る鼓動が嫌で、彼は胸元の服を握り締める。
 どうして庇ったんだと叫びたくもなったが、それを言ったところで今の終焉には届かないのは明白だ。
 止まることを知らない血液と、ピクリとも動かない終焉に恐怖を抱くよりも、彼には言わなければならないことがある。ごくり、と飲み下した生唾がやたらと鉄臭いことも差し置いて、ノーチェは震える足でゆっくりと立ち上がる。

「俺は、……俺には、この人よりも、アンタ達の方が化け物に見える……」

 喉の奥から必死に絞り出した声はみっともなく震えていた。よろよろと覚束ない足取りは、頼りなく、体を支え切れずに一度だけ体勢を崩してしまう。動悸が速まっている以上呼吸は浅く、荒くなっているのが分かる。指先の末端が冷えるほど、血の巡りが悪くなっているのか、酷い寒気をノーチェは感じた。仄かに頬を撫でるそよ風ですら寒いと感じるほどだ。
 そんな彼の様子を男達は怖がっていると捉えたのか、僅かに笑みを浮かべながら小馬鹿にするように「何だって?」とノーチェに言う。にやにやとあからさまな表情は、ノーチェがあくまで「終焉の死に対して恐れを抱いている」のではなく、「終焉を殺した〝教会〟に対して恐れている」と解釈しているようだ。
 ――そう嘲笑う瞳を、彼は幾度となく見てきた。反抗することもできない奴隷を、嘲笑する顔を何度も見てきたのだ。今更見間違える筈もない。
 しかし、だからといってその解釈を訂正することなど、ノーチェはしなかった。

「この人は、何もしてない筈だろ……それを殺して、笑うアンタ達の方が化け物だって言ってんだよ……!」

 終焉に向けた言葉を撤回してほしいわけではない。ノーチェはただ、理由もなく終焉が「化け物」と呼ばれているのが酷く気に食わないのだ。だからと言って男を殺したことに対して不満を抱いていないわけではないが――、どうにも終焉が悪く言われるのだけは許せないのだ。
 ノーチェは再び彼ら〝教会〟に睨みつけるような視線を向ける。懸命に、力強く。それが抵抗と見做されているのかは分からないが、首元が焼けるようにじりじりと痛み始めるのが分かった。

 それでも彼は、睨みつけるのをやめることはなかった。

 〝教会〟の男達は一度眉間にシワを寄せると、不思議そうに首を傾げる。「君は言い伝えを知らないのか?」と、まるで悪意のない表情のまま、純粋に彼に問い掛けた。
 言い伝え――というものが何を指し示すのか分からず、ノーチェは男の問いに答えられずにいる。数秒待って、男が痺れを切らしたように顔を歪め始めると、一人の仲間がこっそりと耳打ちをした。恐らくノーチェがこの街の生まれではないことを言ったのだろう。彼は「ああ、すまなかった」と言うと、懇切丁寧に説明をしだす。

「ルフランでは一般的に『黒』を嫌う傾向がある。それが何故だか分かるか?」
「……?」

 唐突に切り出された男の言葉に、ノーチェは怪訝そうな顔をひとつ。意図も分からない男の問いは、ノーチェ自身が欲しいと思う回答ではない。しかし、切り出された言葉が終焉に繋がる気がするのは、気のせいではないだろう。
 男の問いにノーチェは答えることはなかった。すると、何を思ったのか、男はうんうんと頷き「分からないのも無理はない」なんて言う。

「黒はな、〝終焉の者〟の象徴なんだ」

 ――男が言いたいのはこういうことだろう。
 この街では黒が忌み嫌われている。何故ならそれは、終焉のことを示す色だからだと言い伝えられているからだ。
 街では一切見掛けることのない黒を好んで着ていて、見慣れない髪色を持つ終焉は無条件で嫌がられる対象だと言うのだ。

 ノーチェにはその事実があまりにも受け入れ難く、思わず「そんなことあるのか」と呟いた。彼自身が他所から来た人間である所為か、ノーチェは黒を嫌った試しがない。寧ろ好き好んでいて、夜に紛れられるような暗い色を選んでいる節がある。
 それを知っているのか、終焉が買い与えるのも専ら暗い色ばかりで、大して気に留めたこともないのだ。
 更に言えば、ノーチェが知る限りではあるが、魔女を名乗るリーリエでさえも黒を好んでいる。実際終焉と同じような黒髪ではないのだが――、それらをどう認識しているのだろうか。

 説明をしようとする男は、ノーチェの身なりを改めて見ると、酷く怪訝そうな顔をしだした。
 奴隷であることに嫌悪感を抱いているのではない――、黒い色を纏っているのが露骨に気に食わないのだ。
 一人を筆頭に〝教会〟の人間はこぞって嫌そうな顔をするものだから、ノーチェの胸に酷い不快感が宿る。
 たった黒い服を一枚着ているだけでこの反応だ。好きなものを着て何が悪いと言うのだろう。
 ――思わず歪んだであろうノーチェの顔を見てか、男は口許に手を当てて「失礼」と咳払いをひとつ。コホン、と小さく吐いたあと、〝終焉の者〟が忌み嫌われている原因について話をする。

 男が恐れられている原因は、この世界を滅ぼす存在であるからだ。

 ――息を吐くように、当たり前かのように紡がれた言葉に、ノーチェは無意識に息を呑む。「世界を滅ぼす」――似たような言葉を聞いたことがあるような気がして、彼は記憶の糸を辿る。

 それは初めて屋敷にやって来た夜のこと。まだ顔もしっかりと覚えられていないときに、終焉が息をするように彼に告げた言葉がある。
 世界を終焉に導く者――それが終焉が自身を語るのに使った言葉だ。光も、緑も、海も国も全て腹の中に収めるだなんて言って、自分自身をまるで化け物かのように語ったのだ。

 今思い返せばノーチェは終焉自身が紡いだその言葉も嫌で、知らず知らずの間に奥歯で歯を食い縛る。ギリ、と骨が擦れるような音に、彼は咄嗟に口を開いた。
 何故だか理由は分からない。――ただ、終焉が化け物と揶揄されるのが嫌で、先程から不快感が脳を刺激するのがよく分かる。詰め寄って、言葉を撤回させてやろうかと何度も悩みながら、首の痛みに意識が引き戻される――その繰り返し。
 ノーチェ自身そう思っている理由がはっきりとはしないものの、誰よりも人間と同じように接してくる終焉を馬鹿にされるのが許せないのだろう。――そう結論づけることにした。

 一度だけ驚いたような表情をしてしまったのか――、〝教会〟の面々は彼の変化を目にするや否や、「どうする?」と問い掛ける。
 〝教会〟の人間は悪に染まることはない。絶対的な悪とされている〝終焉の者〟を殺すことはしても、害のない一般人を殺すことなどは禁止されている。それは奴隷が相手とて同じことであって、ノーチェに問い掛けるのだ。

 〝教会〟に身柄を預けてもいいが、ついてくるのか――と。

 その問いに、ノーチェは露骨に嫌悪感を示した。
 自分自身でも分かるほど、表情が歪んでいる。眉間にシワを寄せ、可笑しなものを見るような目付きを向けてしまう。ほんの少し顔の筋肉が痛むような気がすると錯覚するほど、ノーチェは彼らに対して敵意をむき出しにした。
 一体誰が、終焉を殺した男についていくと言うのだろうか。
 気が付けばノーチェの足は震えることを忘れてしまっていた。男が死んでしまう恐怖よりも、男が侮辱されることに対する苛立ちが勝っているようだ。
 頼りなかった足で地面を踏み締めて、彼は〝教会〟との距離を保つ。何かをしでかすとは思えないが、ノーチェは自分が奴隷であることを忘れてるわけではないのだ。

「……おいおい、何だよその顔。まるで俺がこれを殺したみたいな顔をするじゃないか」

 ノーチェが露骨に敵意を向けてきた所為か、男は言い訳にも似た言葉を紡ぐ。「あくまでお前を痛めつけようとしたのであって、殺すつもりはなかったんだ」と。
 どこか砕けた口調になったのは、彼が自分の思う通りに動かないことへの苛立ちだ。見れば僅かに眉間にシワを寄せていて、足元は絶えず地面を叩いている。〝教会〟は正しい筈なのに、まるでこちらが悪であるかのような態度に、納得がいかないのだろう。
 しかし、ノーチェはあくまで一般人としての区分にあたる。むやみやたらに手をあげてしまっては〝教会〟としての面目が立たない。
 あくまで優しく、正しくあるために男は話をするのだ。

「……確かに、俺の所為でこの人が死んだかもしれない……」

 男の言葉に、ノーチェの意志が微かに揺らぐ。
 確かにノーチェがわざわざ前に出ることがなければ、終焉は命を落とすことがなかったのかもしれない。面倒事だと言っていた終焉も、もしかしたらノーチェが原因で言ったのかもしれない。

 ――それでも彼は、自分が原因であることよりも、終焉を殺して笑っていた男達の方が悪く思えたのだ。

 ――何気なく歩を進め、彼は徐に倒れている終焉の体の前で立ち塞がる。
 確かに自分が原因かもしれないが、先程から陰で未だに嗤う男達の顔が気に食わないのだ。
 ゆっくりと前へ出ることで彼らから終焉の姿を隠す他、自身の視界に留めなくてもいい状況を作る。それで破顔する顔が見られずに済むことに、彼の中の怒りが少しばかりやんだ気がした。

「……あくまでそれの味方をするのか?」
「この人を人だとも思わないアンタ達について行くよりはマシだ」

 苦笑混じりに再三問いかけてきた男達に、ノーチェは自分の意見を言い放つ。じりじりと首元に痛みが走る中、頬を撫でる風が再び鋭さを増したようで、針を刺すような痛みが素肌を傷つけた。
 血が溢れるような傷の深さではない。せいぜい薄皮が剥ける程度の穏やかなもの。それが最後の警告だと分かっていながらも、ノーチェは意志を曲げることはなかった。

「可哀想だがこの奴隷は化け物に魅入られてしまったようだ。この状態で教会へ連れて帰ってもあの方の邪魔になるだけ。仕方がない、殺してしまおう」

 さも当然だと言うかのように、男は軽く微笑んだ。仕方ないとは言いながらも、何らかの理由によりノーチェを〝教会〟に招かないでいられることをやけに嬉しそうな顔で語る。
 結局のところ、この人間は自分の気に食わない人間を傍には置きたくないのだ。
 男は焦らすようにゆっくりと手のひらを、指を彼に向ける。周りの男達も終始口許で笑みを浮かべているが、その瞳の奥には悪意が一心に込められているような気がしてならない。誰もが男を止めようともせず、笑いながら事の顛末を見守るつもりなのだ。

 ――この街は〝教会〟に支配されている。

 ――不意に終焉が紡いだ言葉を思い出してしまう。こんな人間達に街が支配されていると思うと、腐れ切った世の中だと、彼は思った。
 次に襲いくるであろう衝撃に備えて、強く瞼を閉じる。痛みがあってもなくてもいいが、意識がすぐに途切れてなくなってしまうことを願った。

 ――次こそはきっと。

 唐突に頭によぎる言葉にノーチェ自身がハッと瞼を開く。いつどこかで同じ言葉を吐いたのかは分からないが、自分の言葉に強い既視感を覚えたのだ。
 まるで以前からずっと思い続けてきたような、不思議な言葉。ずっと前から願い続けてきたような言葉に、ノーチェ自身が目を丸くする。
 もうずっと前から何かを繰り返してきた違和感が、ノーチェの頭を小突いたように痛みが走った。

「――……?」

 そうして痛みがいつまでもやってこないことに、彼は違和感を覚える。決めていた覚悟が簡単に覆されてしまうような間に、思わず彼らに視線を向けた。
 見れば青い空の太陽の下、〝教会〟と呼ばれる男達の表情が引き攣るのがノーチェの視界に映る。
 驚いたように見開かれた男達の瞳。笑っていた筈の口許は歪んでいて、引き攣った顔は少しずつ可笑しなものを見るようなものに変わっていく。
 それは見た通りの感覚で言えば、恐ろしいものを目にしたような表情だ。夏に肝試しに行って、本物を見てしまったときに恐怖を表すような顔付き。
 それを見て――、彼は「ああやっとか、」と小さく吐息を吐いた。
 恐ろしいものを目にしたときと同じような反応をするのは当然だろう。かくいうノーチェも、恐ろしいとは思わなかったが、驚きを覚えたものだ。
 死んだ筈の人物が息を吹き返すなど、誰が思うだろうか。