赤い炎は揺れ踊る

 雨に濡れるのも、冬の寒さに包まれるのも大嫌いだ。
 ほう、と吐息を吐けば白い呼気が目の前に現れる。外気と体内の温度差が顕著に表れた結果がこれだ。肌を刺すような冬の冷たさに舌打ちを溢しながら腕を擦り、空を見上げる。気が重くなるほどの曇天が広がっていた。今にも空が落ちてきそうな勢いだ。

 街のきらびやかな空気を置き去りに、いつしか草原や草木が生い茂る森の奥深くへと迷い込んでしまったよう。辺り一面見渡したところで木が溢れている。最早太陽の光など差し込むことが少なく、よりいっそう寒さに体を震わせた。
 彼は赤い髪をなびかせてから辺りを一望し、溜め息を吐いて前を向く。相変わらず道という道はなく、草木が生い茂るばかりだ。あちらこちらで獣や小動物の気配、息遣いが感じられる。人里ではなく自然に生息する彼らに僅かながらの親近感を覚えた。
 雨が降りそうだと舌打ちをひとつ。それどころか明らかに落ちていく気温が、雪を呼び起こしてきそうでならない。体の熱が奪われ、動きが鈍くなることは彼にとって不快でしかない。

 ――さっさと見付けて暖を取れる場所へと行かなければ。

 ――なんて思っていたその直後、彼の頬に水滴がひとつ落ちる。まるで予感が的中したと言わんばかりの状況に、彼は赤い髪を掻き、鬱陶しそうに顔を歪めた。
 彼を煽るよう、雨は次第に量を増していく。ポツポツと小雨だったそれも、いつしか大粒に変わり始めて尚のこと鬱陶しかった。しっとりと濡れてしまう髪も、体にまとわりつく服も鬱陶しいことこの上ない。
 そんな状況でも彼が一向に歩みを止めないのは――なくしたものを探すためだった。

「……ったく、レインのやつはどこに行きやがった……」

 ぽつりと呟かれた言葉は雨音に掻き消されて虚しく消えてしまう。いつの間にかぬかるんだ地面が彼の足元を掬うが、そんな素振りを彼は見せることがない。しっかりとした足取りで、水溜まりの泥水が裾に跳ねるのも気にせず歩く。
 雨は嫌いだが、初めて会ったときも丁度雨だったな、なんて思いながら周囲を見渡した。

 彼が以前出会った精霊は、妙に彼に懐いてしまい放浪の旅に同行することになった。一人気儘な旅に何かが加わること彼は嫌がっていたが、精霊は無断で彼の傍に寄り添う。それにもう何かを言うことは諦め、同行を許してしまった。
 それは人間よりも騒がしいわけでも、馴れ合いを求めてくるわけでもない。ただ、定期的に余計なお節介を焼かれることが妙に喧しく思えるだけだ。
 そんな状況を許してしまったが故に、彼はあてもなくさ迷い歩く嵌めになるとは、この時は思ってもいなかった。

 精霊は人前に出ることは滅多にない。姿を現すとしても複数人の人間の前には決して姿を現さない。少しの興味と関心が向けられてしまえば、自分に利はないと彼らは知っているからだ。
 どこで見ているのかも、何をしているのかも人間達は知らない。静かに、鳴りを潜めて観察されていることなど、知る由もない。

 彼も勿論その一人だった。
 ――しかし、彼は自分に関するもの以外は殆ど興味もなく、関心も抱かない。それが精霊にとって居心地がいいと感じられるのだろう。誰一人として寄せ付けない彼の性格は、精霊達にはやけに心地よかった。
 自分の邪魔をしないのなら傍にいても構わない。――そんな気持ちから彼はもう口を出すことはなかったが、如何せん予想だにできない出来事が多々ある。
 雨の日に出会ったが故に彼は「レイン」と呼び可愛がっているが――、どうにもそれは酷い方向音痴に見舞われるのであった。

 ふ、と目を離した隙に傍らにいた筈のレインが忽然と姿を消す。初めこそはどこかへと消えたのかと思ったが、彼女――人型に化けたときは女の姿なのでどうやら雌らしい――の独特な気配が僅かに感じられる。他の人間とは違って純粋と言えばいいのだろうか、悪意のない気配が仄かに漂ってくるのだ。

 不思議なことに、彼女と旅を共にし始めた頃からやたらと存在が気になるようになり始めた。恋とか、愛だとかそういうものではない。「気にかけなければならない存在」のように思えてしまったのだ。
 ――それが、レインとの「契約関係」にある証明であるということに気が付いたのは、そう時間が掛からなかった。元より通常ならば認識しない筈の精霊の気配を辿るなど、そういった関係を結ばなければ難しい話でもあった。

 一体いつそのような関係を結ばれたのかと疑問に思っていたが、そんなことを考える時間が勿体ないと彼はそれを気にしないようにした。身体的な影響があるかどうかと言われれば、どういうわけか舌に不可思議な紋章が刻まれた程度。それ以外の影響は特に感じられなかった。
 精霊は人の形を取ることができる他、契約者の理想的なものに姿形を変えられる能力がある。これはレインに限った話ではないようだが、生憎彼にはその他を知る機会はない。そもそも得たいとも思わなかった。

 レインのように方向音痴であるのなら――、尚更知りたいとも思わないのだ。

 雨は次第に量が増し、大粒へと変わる。体を打ち付ける雨粒が痛いと思えるほどのそれに、彼は表情を歪める。雨によって冷えた体は、冬の冷たい風によって更に熱を失っていく。
 それでも彼が歩みを止めないのは、行方を眩ませてしまったレインを探し出すためだ。
 レインが姿を眩ませるのは今に始まったことではない。朝から消えていることがあれば、夜な夜な姿が見えないことも多々ある。彼はその度に微かに漂う気配を頼りに探し回った。
 その合間に彼はふと、思い至ったことがある。

 レインが人の前に姿を現してしまったのは、道に迷ってしまったことが主な原因なのではないかと。

 何とも馬鹿馬鹿しい考えではあるが、彼は今までに何度もレインを探す嵌めになった。放っておけばいいのだが、どうにも探さなければならないという感情が芽生える。それが、レインとの契約下にある所為だと知ったのは、彼が珍しく宿を確保したときだった。
 目が覚めて身支度をするために鏡を見て、歯を磨こうと口を開いたときにふと気が付く。昨夜までなかった筈の紋章が、何故か舌の上に刻まれていた。初めこそは何だと彼は思っていたものの、レインの額に同じものが刻まれていることから、それが契約の証しであることを知る。

 何でこんなものをつけてくれたんだ、なんて言ったことがつい先日のことのよう。レインは非常に申し訳なさそうに耳を垂らし、体を縮ませた。
 無許可でのそういった関係は勿論ご法度ではあるが、何よりレインが彼の元から離れられなくなってしまうのだ。
 「契約」は聞こえこそはまだ耳触りがいいが、悪く言えば一種の「呪い」のようなものとも言える。
 そんなものを交わされてしまった彼は、一人だけの気ままな旅をやめなければならないのだ。

 それでもレインは決して嫌がることはなかった。
 彼は自由奔放であり、自分本位な人間だ。彼の言動には他人を思いやるものはない。誰がどんな目に遭おうが、目の前で泣き喚こうが、彼は一切気に留めたことはない性格だ。
 しかし、動物に対しては妙に気遣いを見せることが、レインはいたく気に入ったのだ。

 彼女は決して彼の傍を離れることはない。それを渋々彼自身も認め、現在に至る。
 ――とは言え、彼はこんなにも探し回るなど微塵も思ってもいなかった。精霊は賢く、学のあるような不思議な存在なのだと、思っていたのだ。

「あー……さみぃ」

 細く洩れた声が何度雨音に掻き消されてしまう。身体中を打ち付ける雨にすっかり意気消沈したところで、歩みを止めるわけにはいかないと髪を掻き上げる。気が付けば肩甲骨まで伸びた髪がしっとりと濡れて、頬や服に張り付いているようで不快だった。
 レインの気配はもうすぐそこ。彼は何度も足元を探り、草を掻き分けてみるが、どうにも見当たりはしない。
 数度目の舌打ちを溢して彼はほう、と息を吐く。外気が低い所為で白い靄が目の前に現れた。冬真っ只中の雨は彼から体温を奪い、指先が少しずつ麻痺していく感覚を得る。
 こんな雨の日は宿を取る他ない。
 無駄な出費――とはいえ、これはろくでもない者達から搾り取った金銭の数々――を避けたがった彼だが、こればかりはどうしようもなかった。

 ――雨は嫌いだから。燃える炎を掻き消すように、降り注ぐ水の数々が嫌いだったから。

 その上、冷えた体を温めるには室内が一番なのだ。

「――……お」

 ――なんてことを考えている間に、レインの独特な気配が近くなる。来た道では跡が残っていただけで、実物はどこにもいなかった。点々と木々や草木の間をすり抜けるように歩いていった先は、よりいっそう深い森が広がるばかり。
 本能的なものだったのだろうか。精霊やら動物やらは人の手が加わるものよりも、自然が溢れる場所を好む習性があるようだ。その証拠に、彼が向かう先には整備も何もされていない――だだっ広い森が広がるだけ。
 彼が若草を踏み締めて立ち止まった先にあったのは、大きく立派な大樹が聳え立っていた。

「お前なあ……迷子になったらその場を動くもんじゃねえ」

 その木の根元で体を小さくして震えているそれに、彼は片足を地面に着ける。迷子になったことが悲しいのか、それとも雨に打たれてしまった所為で震えているのか、どうにも判別がつきにくい。レインもどうやら雨が苦手なようで、 服で陰を作ってやれば、パッと瞳を瞬かせる。
 彼が何の気なしに手を差し伸べてみれば、顔をすり寄らせて小さく鳴いた。

「つーかお前は俺の傍から離れるんじゃねえよ。分かってるのか?」

 こつん、とレインの額に人差し指を当てる。そこには彼の舌にあるものが確かに刻まれている。胸付近――と思われる場所――と額から少しだけ離れた位置で浮く赤い宝石は、未だに輝きを失うことはなかった。
 この鉱物が何なのか、なんて彼は気にも留めたことがない。額の上にあるそれは、彼女の意志ひとつで姿を消したりする。恐らく彼女の力が具現化したものだろうが――、彼は全く興味がそそられなかった。

 レインは額に指を食らったあと、体を持ち上げられて彼の懐に収まる。人に化ければ自ら歩き、彼と同様に街へと戻ることが可能だろう。――だが、目を離した隙に再び姿を消されてしまっては元も子もない。
 そうなる前に、彼はレインを懐にしまうことで事前に防いだに過ぎなかった。

「濡れてるだろうが我慢しろよ」

 彼は仏頂面で呟いて、レインは首を縦に振る。彼の意図は十分に理解した上で懐に収まり、体を小さく震わせていた。
 精霊に体温の云々が存在しているのかどうかは定かではないが、恐らく寒さに身を震わせているのだろう。彼は森を歩く足を速めながら地面の<ruby>泥濘<rt>ぬかるみ</rt></ruby>を踏み締め、枝を掻き分ける。
 道中木の枝が彼の頬を傷付けたが、彼は鬱陶しそうにその枝をへし折り、道端に捨てた。立ち止まっている時間など彼にはない。打ち付ける雨が、外がみるみるうちに冷えて、水だったそれが微かに氷へと変わっていくのが分かるのだ。

 彼は雪も嫌いだ。体の動きが鈍くなる冬の寒さも、人間達の喚くような声も。

 本調子に戻れば再び適当に歩くだけの旅を始めてやると、強く誓った。
 ――そんな矢先に、雨が遂に雪へと姿を変えた。
 幾重にも層ができたような曇天から落ちるそれは、肉眼で視認できるほど。心なしか先程よりも外が暗くなったような気がする。冷えきった体に雪はあまりにも冷たく、彼の体は己を温めようと、小さく震え始めた。

「…………チッ」

 はっきりとした舌打ちが遂に溢れる。何度も何度も溢した筈のそれは、今までよりも一番大きなものだった。それほどまでに不快に思っているのだと、彼は頭を掻き上げる。
 宿を取り、風呂に入り、さっさと眠りに就く。――そんな計画を立てながら彼は一心に歩き、街を目指した。

 そう遠くはない。もうすぐ街に着く筈だと――。

 そう思った矢先、懐がほんのり暖かくなったような気がした。

「…………?」

 何気なく懐を覗けば、レインは小さく丸まりながら胸元の宝石を煌めかせている。それが何を意味しているのか、彼は分かった。ルビーのように煌めく宝石の中心が、炎が燃えるように瞬いているからだ。
 レインが寒さから逃れようと自分自身を温めているのか、単純に濡れた服が不快なのかは分からない。
 ただ、その行動がほんの少しだけ微笑ましく思えていたのを、彼は覚えている。

 とっとと宿でも探してやろう。

 ――そう思いながら彼は、雪が降る空の下で街を目指して歩いていったのだった。