目を覚まし、違和感に苛まれたノーチェは眉を顰めた。
やけに重い体を起こし、布団から這いずり出る。終焉が用意してくれたであろう厚手の毛布を半分に折り畳み、ほう、と溜め息を吐いた。昨夜よりも冷たい空気がノーチェの肌を撫でる。「……寒い」と小さく呟いてゆっくりと寝具から足を下ろした。このときばかりは赤黒い絨毯に足元が救われる。
妙に気怠い体を引き摺って窓の外を見れば、ぽつぽつと至るところに白い山が降り積もっていた。――雪だ。昨夜の寒さに加えて夜中にでも雨が降ったのだろうか、窓ガラスは曇っていた。
背筋を走る悪寒が気味悪くて、ノーチェは咄嗟にカーテンを閉める。シャッ、と軽い音を立てて閉まったカーテンは、外と部屋の境目を覆い隠して光を閉ざした。あまりの寒さに彼は再び溜め息を吐くと、白い靄が唇を割って出てくる。恐ろしいことに部屋の中もそれなりに寒かった。
「………………あったかいの……」
腕を擦り、ノーチェは覚束ない足取りで部屋を出る。扉を開けて廊下に出て、空いているどこかの一室にリーリエが寝泊まりしていることを考慮して、静かに階段を下りる。終焉は既に起きているのかどうかを考えながら客間へ足を踏み入れると――、暖炉がぱちぱちと音を立てていた。
橙に染まる火が辺りを照らしているのがよくわかる。時折弾ける火の粉を見つめ、ゆっくりと暖炉へと近付いた。昨夜はしっかりと消えていたので、終焉が朝から点けてくれたのだと、彼は思う。
暖炉に近付くとやはり暖かく、心地がいい。堪らず彼はその場に座り込み、その恩恵を一心に受けた。
――この体の感覚をノーチェは知っている。
肌寒く、背筋には波紋が広がるような悪寒が走る。ぞわぞわとする妙な寒気が気味悪く、暖かい場所へと赴くが、頬だけはやたらと熱く感じる。体の中から無理やり重力に従わせてくるような気怠さも、左右に揺れるような頭も、奴隷として飼われていた頃にも一度、経験してしまっていた。
喉の奥には違和感が残り、我慢しきれずに咳を溢した。げほげほと、昨日よりも遥かに酷い咳だ。咄嗟に口許に手を添えたが、塞ぐのが間に合ったかどうかも分からない。渇いていた筈の咳はすっかり湿気を帯びていて、一度出してしまうと暫く止まらなかった。
咳をしていた時間は凡そ数秒だというのに、それが何十分にも感じられてしまう。あまりの息苦しさにノーチェは暖炉の前で膝を抱え、小さく踞った。頭の遠くで押し寄せてくる頭痛が目元にまで響く。暑いんだか寒いんだか分からない体に、嫌悪すらも覚えた。
それでも彼は働かなければならない。
踞っていた数秒を置いて、ノーチェはゆっくりと体を起こして立ち上がる。暖炉の熱が顔全体に行き渡っているような暑さに、体は置き去りにされた気分だ。それでも自分にできることの全てをやらなければならないような気がして、徐にその場を後にする。
客間を出て、廊下を歩き、普段通りリビングへと向かう。屋敷の主である終焉は相変わらずノーチェの朝食を作っているのだろう。リビングの扉を開けて足を踏み入れると、今まで気が付かなかった香りに出迎えられた。
――しかし、食欲は一向に姿を現さない。
絨毯の上を素足で歩きながら、彼は終焉に申し訳なさを抱いた。美味しいと思える食事を今日ばかりは口にできないと、男に告げることに胸が痛む。一歩、二歩と歩く度に香りが強くなっていくが、少しずつ吐き気を催されるのが彼には酷だった。
漸く辿り着いたキッチンへの扉を開け、ノーチェはその中へと入る。彼の予想通り、終焉はいやに上機嫌の様子で料理に携わっていた。ぱちぱちと何かが焼ける音。その中で扉が開く音が聞こえたのか――男は長い黒髪を翻して振り返った。
――そして、一瞬だけ妙に寂しそうな顔をするのだ。
「あ、の……俺、今日……」
扉から手を離し、覚束ない足取りで終焉の元へと歩いた。――が、前によろめき、ノーチェは終焉の胸へ飛び込む形で寄り掛かってしまう。一瞬だけではあるが、大きく左右に揺れるような目眩を覚えた彼は、「うぅ」と小さく唸り声を上げた。
以前はこんなにも体調が悪くなることはなかった筈。そう思いながら終焉の体から離れ、言葉の続きを紡ごうとした。
今日、食欲が湧かないから食べられない、と。
――しかし、不意に伸びてきた男の手のひらに、彼はぐっと言葉を呑み込んだ。ひやりと冷たい終焉の手がノーチェの頬に触れる。そうして男は静寂を切り裂くように、そうっと唇を開いた。
「体調が悪いなら起きなくていい。今日はもう何もするな」
終焉の声は思うよりも低く、静かで、淡々としていた。その割には酷く悲しげな顔をしているように見えるものだから、ノーチェは思わずぽかんと口を開けてしまう。その拍子に喉の違和感に苛まれ、咳を溢して肩を震わせた。
終焉が一目見て気が付いてしまうほど、顔に出てしまっているのだろうか。
背中を丸めた際に彼は頬に手を当てて、首を傾げる。確かに寒さや暑さも感じているが、目に見えるほどではないと勝手に決め付けていたのだ。――そうでなければ上手く自分を言い聞かせられない。奴隷商人達に奴隷の体調など、露ほども関係がないからだ。
「動ける……」
だからこそノーチェはその一言を呟き、顔を上げて終焉を見上げる。今まで通り働かなければ何を言われるか分からない。死なない程度に痛め付けられるのももう飽き飽きだった。
――だが、見上げたノーチェに対して終焉は何とも言えないような顔のまま、彼の頭を撫でた。何をしても、どう足掻いてもノーチェは「奴隷」であるのだと、彼の意識がそうさせているのだと――分かっているからだ。悲しいだとか寂しいだとか、口にも出せないものを胸の奥に押し込んで、男はノーチェの頬を包む。
「――やはり変わらないな。調子が悪くても休もうとしないのは」
「…………?」
男が酷く懐かしそうに言った。それは、初めて会った頃に何度か感じていた違和感によく似ている。自分に向けられているようで、自分ではない誰かに話し掛けているような感覚。――しかし、終焉の瞳はしっかりとノーチェを見据えているのだった。
そんなことが気になって、頬を包む手が冷えていて気持ちいいだとか、落ち着くだとか――まるで気にも留められず、彼は疑問を持つ。まるで自分の性格を知っているかのような口振りに、そこはかとなく疎外感を覚えた。
そして、その中にほんの少し、妙な安心感を覚えたような気がした。何を言わずとも、この人は理解してくれているのだと。
――そんなノーチェに終焉は手に小さく力を込めて、頬をつねる。程好く柔らかいそれは突っ張られ、ノーチェの顔は形を変える。それに堪らず「何すんの」と口を開けば、「言うことを聞こうとしない罰だ」と男は言った。
「寝ていろ。そんなに働くことが恋しいというのなら、今日の貴方の仕事は『体を休めること』だ」
ぽす、と彼の頭に終焉は再び手を置いた。その拍子に頭が振られるような感覚を覚え、ノーチェは顔を顰める。自分が思うよりも体の調子は悪いようで、終焉に背を押される前には感じなかった気怠さが、遂に体を襲った。
男曰く朝食はリーリエに任せると言う。無駄にならずに済んだ食事にノーチェは安堵の息を吐くと同時に、目眩を覚えた。ぐらりと揺れる視界――。あまりにも気分が悪くなるそれに、ほんのりと吐き気を催す。
そうこうしている合間に、終焉はコンロの火を止めた。焼ける音と熱が一気に静まり返るのがよく分かる。そうして茫然と立ち尽くしているノーチェに近付いて、肩を掴み、体の向きを変えた。「歩けそうか?」と問い掛けてくる男に、ノーチェは小さく頷く。
「無理をするな。歩けなければ私が運んでやるが」
「…………いらない」
そう言って男は両手を広げて見せるが、ノーチェは首を左右に振る。終焉の冗談めいた言葉に少しでも甘えてみようかと、突拍子もない思考に苛まれたが――自分を律するように咄嗟に誘いを断った。自分は成人している男だと彼は何度も自分に言い聞かせる。断られた終焉は僅かに寂しそうに「そうか」と呟いたが、ノーチェには届くことはなかった。
それでも男はノーチェに「何かあったら呼んでくれ」と言う。それは単純に「甘えてもいい」という意味合いではなく、ノーチェにも人に頼る権利はあると言うことなのだが――彼に伝わったのかどうかは定かではない。彼はふらふらと体を小さく左右に揺らしながら、床を踏み締めていた。
奴隷には休む権利もない。――それがノーチェにとっては当たり前のこと。意識がハッキリしなかろうが、体が動かなかろうが、働かなければ無駄に痛め付けられる。足蹴にされることも愛玩動物のように飼われることも、できることなら避けていたいことだ。その中で少しずつ芽生えた死への渇望は――本物だった。
それでも終焉は決してノーチェには強要しない。休みたいときには休めと、口煩く言われることが殆どだ。男にとってノーチェはやはり奴隷などではなく、愛すべき一人の人間なのだと、裏付けている。
好き好んで奴隷を屋敷に置いておく酔狂な人物だと、彼は歩きながらも思った。そして、階段の手摺りに手を掛けたとき、階段を上ろうとした足が膝から崩れる。そうしてそのまま踞るように屈み込み、膝を抱えた。はあ、と口から溢れ落ちた息は荒く、震えているような気がした。
終焉の手を断ったお陰で弱音を吐けない自分に嫌気が差す。
急激な目眩と息苦しさはノーチェから思考を奪い取り、ぐるぐると回る世界にどんどんと酔いが増していく。先程まで勢いが緩かった咳が、堰を切ったように止めどなく溢れてくる。
「――げほっ、ごほ、……っん……ぅ゛……ぇほっ」
途中でどうにか堪え、抑え込もうとも腹の奥底から涌き出てくるそれに、彼は咄嗟に胸元を握り締めた。妙に痛み始める胸にまともな思考も働かなくなる。その間にも出続ける湿った咳に嫌気が差していると、頭も奥底から痛み始めたような気がした。
このまま居座っていればいずれ終焉に気付かれかねない。ノーチェは何とか階段をひとつ上ろうとしたが、異様な体の重みに足は動かない。丸まった背中をどうにか伸ばそうとすると、咳が出る――の繰り返し。
息ができない。このまま死ぬのではないかと思えるほど、酷い咳だった。
「けほ……、ぅ……んっ……ぐ、」
――そうして繰り返し咳をしていると、ふと悪化した直前の出来事を思い出してしまった。少しずつ咳が出るようになったのは冬になったからだと、季節に体がついていけていないからだと思っていたが、時折忘れた頃に出てくる咳があった。
それが――終焉に触れられたときだと思った瞬間に、喉の奥から熱いものが込み上げる。
堪らず彼は吐き出すように強く咳を溢せば、ごぽ、とやたらと水気の多い音がした気がした。
「――あ……? 何……」
手のひらの間を縫って階段に滴り落ちたそれがノーチェの視界に入る。赤く、てらてらと光る液体が赤黒い絨毯にじんわりと広がった。ほんの小さな染み――けれど、見過ごせない数センチのそれが、生地に染み渡る。
じくじくと胸の奥が痛み、口の中で鉄の味が広がる。その結果、血を吐いたのだと思うと同時、ノーチェの背筋に凍るような寒さが迸った。
恐る恐る振り返ると、先程までには居なかった筈の終焉が酷く冷めた瞳をノーチェに向けてじっと見つめている。傷のついた金色の瞳と、赤黒い血のような瞳。それが、今までノーチェに向けられていたものと同じだとは思えないほど、冷たい。道端に落ちたゴミを見るような目――とでも言えばいいのだろうか。
その視線が一心にノーチェに注がれていることで、彼は言葉を失った。
まるで初めて終焉の本性に触れたような気持ちになった。あれだけ手厚く世話を焼いていたことも、身を案じてくれていることも、全てが嘘だったのではないのかと疑わざるを得ない。じっくりと見定められている所為か、少しも動かない体は寒さと、熱っぽさを湛えて、体の機能を狂わせていく。
目眩がした。世界が揺れるような心地の悪い感覚。少しずつ吐き気を催して、ぜいぜいと喉の奥から熱く、途切れ途切れの息が洩れる。それでも終焉の目付きは変わらないまま、絶えず獲物が弱り果てていく姿を傍観しているようにも見えた。
――そうして彼は、初めて終焉に対する恐怖を覚えたのだ。
殺されるのだろうか。弱りきった体と、粗相をした状況下でノーチェは小さく体を丸める。屋敷の中を汚してしまったのはこれが初めてで、持ち主に返すまで丁寧に扱う終焉の意に反してしまったと、申し訳なさが募る。
それならそれで構わない。腐りきった奴隷人生から漸く解き放たれるのだと、心の奥底で喜びを抱く。早く終わらせて、来世にはもっとまともになりたいと、思っている、筈なのに。
――どうして、死ぬのが怖いのだろうか。
眼前に聳え立つように立ち尽くす終焉は、相も変わらずノーチェを見下ろしたまま微動だにしない。何を考えているのかまるで分からない顔のまま、じっと見下ろされる所為で彼もまた身動きも取れない。その最中に何度も何度も「死にたくない」と考えて、やっとの思いで男から目を逸らす。
死にたくはない。あれだけ渇望した状況を、彼は今迎えたくはないと思った。
「――ッ!」
そうして不意に伸びてきた男の手に、彼はびくりと肩を震わせた。
「――無事か? 無理をするなと言ったのだが……やはり付き添ってやるべきだったな。立てそうか? 力になろう」
男の言動はノーチェが知るものによく似ていた。
ハッとした様子で彼は終焉の顔を見て、どくどくと妙に脈打つ心臓を押さえるように胸元で手を握る。寒さから身を守るように体が小刻みに震えていて、それが終焉に対する恐怖なのか、体調の悪さから来るのかは分からなくなった。男はノーチェと目を合わせるように屈んで彼の様子を窺っている。その瞳は――普段の無愛想な優しさが十分に備わっていた。
終焉の手のひらが頬に添えられる。すると、安心してしまったのか、ノーチェの目から可笑しな涙がぽろぽろと溢れ落ちた。気が弱ってしまっているのも相まって留まることを知らないそれは、終焉の顔を見ると少しずつ増していくようだ。遂にはしゃくり声を上げると、終焉も予想外だと言わんばかりに僅かに表情を歪める。
困ったような、それでいて驚いているような――。
「……よしよし。取り敢えず部屋に戻ろう」
頬に添えていた冷たい手を後頭部に回して、終焉はノーチェの頭を、背を撫でた。体の調子が悪いことに相まって情緒が乱れているのだと思われているようで、男は子供をあやすように懸命に彼を宥める。その間にも咳は出続けていたが、それを咎める男の言葉はなかった。
まるで子供に戻ったかのような気分だ。決して温もりもない終焉の体に凭れ掛かっているが、安心感だけが胸に広がり続ける。自分の意思に反して止めどなく溢れてくる涙に、頭の片隅で呆れていると、体が浮き上がる感覚を彼は味わった。抱き抱えられたのだと気が付いた頃には、終焉はノーチェを抱えながら階段を上る。
そこに恥ずかしさを覚える余裕は、彼には残されていなかった。