弱る体に治療薬を

「うーん……風邪を引いたのね」

 小首を傾げ、リーリエはノーチェの額に手を当てる。終焉ほどではないが、ノーチェよりも冷えたそれに彼は小さく肩を震わせた。冷えたタオルだの、氷嚢だのを持ってきた割には、体との温度差に驚きすら覚えてしまい、一時間ほど経ったあとも未だに手を出せずにいる。

 胸は相変わらずほんのり痛みを覚えた。体外ではなく、体内から針を刺すようにチクチクと痛み、それが酷いときには胸全体に広がるような感覚さえもする。どこか病気を患ってしまったのか不安になるほどだ。
 体は熱い。汗という汗が全身から出ているような気さえする。――けれど、背中を波紋のように広がり続ける妙な寒気は未だ健在で、布団をかぶったとしても収まる気配すらもない。しかし、体は熱いのだ。そんな矛盾した感覚があまりにも気味悪く、彼は眉間にシワを寄せるばかりだった。

 ちらと辺りを見れば黒い蝶がひらひらと羽を瞬かせる。影のように暗く、墨のように黒く。それが時折ノーチェの体に留まって羽を休めては、再び音もなく飛び立つものだから、彼はそれを目で追い続けた。ほんの少しでも気持ちが紛れれば、と思ったが――次第に気分が悪くなってくる。
 ノーチェはそうっと視線を戻しつつ、あの蝶が「リーリエが何らかの形で魔法の類いを使うときに現れるもの」であることを再認識して、目を閉じる。今まで額に当てられていた手のひらが離れ、終焉と同じように頭を撫でられた。まるで子供扱いされているような現状に、驚きと呆れを覚える。

 どうして彼らはやたらと頭を撫でてくるのだろうか――。

「気分は悪い? 痛みは? どこか変なところはある?」

 ふう、と一息吐いてから目をこじ開けると、リーリエが真面目な顔でノーチェに問い掛ける。リーリエの問いにノーチェは小さく唸ってから重たげな腕を上げて、胸の周囲に手を当てる。「ここら辺」と呟いて擦ってから「ここら辺が痛い……」と呟いた。
 気分の悪さは相変わらず。頭の奥底から鈍痛が響いてきたり、吐き気はふつふつと湧いてきたりしてくる。目眩は寝ていても覚えてくる上に、言葉を紡げば絶え間なく咳が出た。

 ただの風邪の割には少しだけ症状が悪化しているような心持ちに、ノーチェは遂に得体の知れない不安に駆られ始める。どうにも先程から死ぬことに対して嫌悪に近い感情を抱えてしまった。あれだけ待ち望んでいた筈なのに、いざ目の前にすれば考えが全く逆に変わってしまう。それは人間としての本能なのか、それとも何らかの原因でそうなってしまったのか――彼には説明ができなかった。
 終焉はリーリエの邪魔にならないよう、扉の前でじっとその様子を窺っている。その姿はノーチェから見て視界の端に移る程度で、あの独特な存在感が近くにないということがやけに気になった。堪らず彼は口を閉ざしている終焉へと目を向けていると――、男がその視線に気が付いたように彼を見る。

 そうして比較的穏やかな顔付きで、「どうした?」なんて言うものだから、ノーチェは「何でもない」と言った。終焉は彼を心配しているようではあるが、何故か少しだって彼に近付こうとはしないのだ。

「うぅん……体が弱まってるわ。今現在衣食住がしっかりしていても、ここに来るまでの影響が少なからず出ているんだと思う」

 リーリエが心配そうに呟いた。ゆっくりと頭を撫でてノーチェをあやすような手付きに、母の面影を思い出す。今何をしているのだろうか――何気なく、弱りきった頭で考えてしまうことは、やはり後ろ向きの答えばかりだ。
 無理が祟ったのね。そう女は言うと、冷えたタオルを彼の額に乗せて「十分すぎるほど休むこと」と言った。どうにも彼が体に鞭打って無理にでも動こうとする気があること、リーリエですらも知っているようだ。「絶対安静」の言葉を意味から教わり、耳が痛いとほんのり嘆く。
 それでも女は口煩く言うものだから、彼は「分かってる」なんて呟いて、布団を目深にかぶった。

 誰も体を壊しているときに口煩く注意などされたくはない。

 ノーチェが逃げるように布団をかぶっていると、暗闇の中で終焉の静かな声が聞こえた。それは、リーリエを少しでも宥めようとする言葉の数々だ。落ち着けだの、ノーチェも分かっているだの言っていて――、彼が布団の隙間からそっと外を覗くと、男がほんの少し不安そうな顔でノーチェを見下ろしていた。
 一体いつ近付いたのか、などノーチェには最早気に留めることではない。

 彼の視線に気が付いた終焉は、布団を捲って顔を出してやると、布団をかぶる際に落ちたタオルを額に載せてやる。汗が滲んでいて、体に服が張り付いて気持ち悪いなどと思うものの、彼はそれを口にはしなかった。

「リーリエが薬を作ってくれるそうだ。それまでは安静にしているといい。私はなるべく近くにいるから」

 不必要であれば自室にいるよ。
 最早何度目かも分からない頭を撫でる行動に、ノーチェはすっかり絆されてそれを受け入れる。手袋越しというものが酷く気に食わないが、終焉の撫でる手付きは癖になるものがある。弱った今では何故だかそれがいやに恋しく、ノーチェは黙ってその手を握った。

「――……?」

 それに、終焉が不思議そうに視線を送る。頬は赤く、汗ばんだ顔に力強さはない。心なしか彼の目は潤んでいるようにも見えて、ほんのり父性本能が終焉に芽生えかける。
 どうした、と堪らず男が声を掛けた。すると、ノーチェは瞬きをひとつ落としたあと、首を小さく左右に振って男の手を離す。まるで自分が何をしていたのか少しも理解していないような顔付きに、終焉は小首を傾げた。

「用が済んだらここに戻ってこようか」

 それとなく提案をして、男はノーチェの動向を窺う。普段ならいらないと言って断って来そうな問い掛けに、ノーチェはぼんやりとどこかを見つめたあと、「ん……」と小さく呟いて終焉に答える。どうにも人肌が恋しいという気持ちが拭えず、肯定の意を示したが――彼に対して終焉は驚くように瞬きをしたあと、「そうか」と小さく口を洩らした。

 彼の思う人肌が終焉には存在しないことは明らかだ。ただ、妙な寂しさを払拭したいがために、普段なら遠慮する筈のそれを受け入れる。それを終焉がどう思ったのかは定かではないが、ほんの少し悩むような素振りを見せて眉を顰めた。
 男の呟いた冗談を本気にしてしまったのだろうか。あまりの不自然な男の動揺に、ノーチェは不安を覚えた。――そうして沸々と湧いてくる正気に、今からでも断りを入れようかと迷いが誘われる。いい歳をした大人が大人に甘えてしまうなど、甘えすぎにもほどがあるのではないのだろうか。
 悶々とした思いを働かない頭に抱えながら彼は終焉をじっと見つめていると、男は一度目を伏せてから「分かった」と小さく微笑む。

「なるべく早く用を済ませてこよう。待っていてくれるか」

 ――酷く柔らかく、優しい声色だった。普段の獣のような威圧など少しも感じられない。父だか、母だかのような雰囲気をまとう男に、ノーチェは言葉を失ってしまう。
 嬉しさが言葉の端々に滲み出ているようだった。
 彼は「ん」と返事をすると、終焉は満足げにノーチェを軽く撫でてから踵を返す。黒く長い髪が弧を描き、宙を舞う。驚くほど綺麗な黒髪にノーチェは目を奪われながら、終焉が扉を開けて部屋から出ていく様子を見送った。

 その向こうでリーリエが終焉を呼ぶ声が微かに聞こえてくる。何やら切羽詰まったような声色で男の名前を呼んでいた。かろうじて聞き取れたのは「大事な話があるの」という言葉だけ。それ以降は話す場所を変えたのか――くぐもった足音が微かに聞こえただけで、話し声は届かなくなった。

 ――大事な話って何だろう。

 そんな疑問が微かに脳裏をよぎる。
 しかし、背中を広がり続ける悪寒が走り続け、考えもままならない。暑いんだか寒いんだか、ちぐはぐになってしまっている体に嫌気が差して、ノーチェは唸る。喉も胸元も痛みが残り、下手をすれば死んでしまうのではないかと思うほど、気分が悪かった。

「…………死にたくないな……」

 ぽつりと呟いた言葉には偽りはない。ただ、何となくそう思ってしまったのだ。あれだけ死を渇望していた筈なのに、手のひらを返したような言葉にノーチェですら苦笑を洩らす。「バカみてぇ」と自虐的な言葉を吐き出して、額にあるタオルをずらし、目元を隠した。
 終焉は本当に来るのだろうか。
 目の奥からの鈍い痛みに耐えるように彼は目を閉じる。そうしていると、少しずつ眠気が押し寄せているような気がして――、ノーチェは睡魔に身を委ねたのだった。