揺れる感情

 彼女の名前はリリィ。リリィ・エインジェルというらしい。

 こっそり。そんな擬音が似合うほど、ロレンツは建物の影から小さく顔を出した。
 海のような青い瞳が見つめる先にあるのは、街中を散歩するかのように歩み続ける四人の人影。そのうちの一人はつい先日、ロレンツを杖で殴るという暴挙に出た可笑しな魔法使いだ。
 
 一人は背が低く黒い色に彩られた男。目付きは比較的悪く、寡黙な印象を抱かせる顔付きをしている。
 一人は赤い髪に新緑の服に身を包んだ男。つい先日ロレンツと対峙した厄介な男だ。挑発的な目付きが時折黒い面影を追いかけている。
 一人は灰色の長髪が印象的な男。ファーがついた長いコートを靡かせて、辺りの街を柔らかな表情で見渡している。時折見かけるその横顔から覗く金の瞳は、この街では滅多に見ることのない色だった。
 その男達に守られるように囲まれて歩いているのは――他でもない、リリィだった。
 
「ほん……とうに綺麗だな……」
 
 ほう、と吐息を吐くように思わず溢れた呟きに、足元から鈍い声が上がる。「変人」と、まるでロレンツの行動を否定するように、呻くような声が聞こえてきた。
 その声を聞き届けた直後、ロレンツは一度足を上げて声の主の後頭部目掛けて振り下ろす。固い地面に顔面を強打したその男は、蛙が潰れたような声を上げると目を回して言葉を放たなくなった。
 喧嘩したての彼は虫の居所は悪く、自分が夢中になっていることに邪魔をされたくはないのだ。

 悪意がこもった男の呟きを、ロレンツは舌打ちで返す。「お前らに何が分かるんだ」と言って、後方にできたそれを一瞥する。そこにあったのは、無惨にも殴られてできた男達の山だった。
 
 相も変わらず彼は売られた喧嘩を買った。いつの間にかロレンツに喧嘩を売るのは魔法使いではなく、血の気が多く喧嘩早い一般人ばかりだ。どこかからか噂を聞き付けた血気盛んな若者達が、こぞって名乗りを上げるように、ロレンツへ喧嘩を吹っ掛けるようになったのだ。
 もちろん、ひねくれてしまった彼に断るという選択肢はない。

 二十歳を越えてから容赦なく吸い始めた煙草を地面に落とし、足で捻り消してから、売られた喧嘩を買う。何度殴られようが、何度同じように絡まれようが構わない。
 ロレンツ自身に守るべきものがなければ、彼を大切に思う人間など誰一人としていないのだから――。
 
 ――そう、思っていた矢先に出会ってしまった一人の女性。ロレンツの噂を耳にしたことがあると言うのにも拘わらず、彼に手当てを施してきた、名も知らぬ女。
 初めて与えられた優しさに、彼は真っ直ぐに恋に落ちたのだ。
 
 それからというものの、ロレンツは魔法使いについて片っ端から調べあげた。
 街で喧嘩を売られる毎に叩き潰し、胸ぐらを掴み上げて「金髪で目元に包帯を巻いた女の名前を知っているか」と何度聞き回ったことだろうか。たった一人に訊ねるだけでは確証が得られないロレンツは、売られた喧嘩を買いながら決まって最後には彼女の名前を訊ねていた。いつの日から「あいつと関わったら情報を搾取される」なんていう噂まで聞き入れるようになってしまって、ほんの少しの後悔が胸に募る。

 彼女――リリィはロレンツの噂を知っているのだ。万が一、彼がリリィの身の回りのことを調べている、だなんて知られては元も子もない。普通の人間から見れば、彼の行動はストーカーと同じようなものなのだ。
 それが知られてしまったら、彼女に軽蔑されかねない。

 ――以来、彼の喧嘩対象は「魔力持ちの人間」ではなく、「『魔法使いの情報を掻き集めている』という噂をする魔力持ちの人間」になった。
 人間として失うものはいくつか存在しているが、同時に得るものが増えたのはまた事実。彼は長年使い込んでいるであろう手帳に、見聞きした情報を書き込んでいく。運良くロレンツに喧嘩を吹っかけてくる血の気の多い一般人でも、魔法使い達の情報は十分に携えていた。
 
 彼らは魔法使いの中でも特に優れた存在だ。常人よりも多くの魔力をその身に宿し、住人の為にその力を揮う。倫理に逆らうことには手を出すことがなければ、人間としての道を外れることもない。己の為に力を使うのではなく、あくまで人の為に尽くすのだ。

 ――思えば、魔力持ちの人間が宝石を持ち始めたのは、彼らが切っ掛けだとも言われている。
 選ばれた人間に宿る力は、無償で扱えるわけではない。ロレンツが幼い頃は魔力持ちの人間は特別で、短命だと謳われていたのだ。その頃の彼ら魔法使いは重宝されていたと同時に、命が短いと恐れる人間がいた。後天的に魔法を扱えるようになった人間は、死を恐れてそれを振る舞うことなどなかったのだ。
 その現実を打ち砕いたのは、他でもない、彼ら四人なのだ。

 魔力は命を糧として消費され続ける。魔法を使えば使うほど、命は短くなっていくもの。――だから、小さくとも純度の高い宝石を糧に、魔法を使うこと。
 それを世間に浸透させたのが、彼ら四人の魔法使いなのだ。
 
 ――そんな情報を、ロレンツは誰の口からも聞くことが多かった。数十年経った今でも言い伝えのように蔓延るその話は、ロレンツでさえも嫌というほど知っている。まるで一般常識のように、世に出回っているのだ。
 しかし、彼が求めているものはそんな大それたことではない。彼が欲しいのは、誰もが送っているであろう日常の一部。「おはよう」から「おやすみ」までの、生活の一部だ。

 もちろん、そう簡単に手に入れられるものではないことは百も承知だ。
 街中を穏やかな足取りで歩く四人の背を見送って、ロレンツは屍――もとい、喧嘩を売ってきた男達の山を見る。
 彼らもまた、自分の力を過信してロレンツの元へとやってきた人間だ。彼が赤髪の男に負けた、という噂が蔓延って以来、彼の元には引っ切りなしに喧嘩を売りに来る人間がやってくるようになった。誰も彼もが「自分にも日常を脅かすこいつを叩き潰せる筈」と思ってのことだろう。
 だが、ロレンツもまたタダでやられるような男ではない。

 彼の生家は優しく、忠実な人間だったが、同時に厳しさも兼ね備えた家柄だ。執事という立場上、何があっても主人を守り通せるように、と一通りの武術を体に叩き込んできたのだ。
 
 一度でも集中が途切れれば怒号が飛んできて、手を抜けば直接根性を叩き込まれる。体を鍛えることは執事をやるにあたって体力作りに繋がる、と何度口煩く言われてきたことだろうか――。
 
 ふ、と脳裏を過ぎる過去の情景を振り払うべく、ロレンツは首を左右に振る。
 彼はもう、執事の仕事に就く気はない。その職業は、嫌でも彼の憧れを想起させてくるものだから、抑え込んでいる筈の怒りがふつふつと湧き上がるのだ。
 まるで、腹の奥で湯が沸き立つように体が熱くなってきて、ロレンツは堪らず歯を食い縛る。殴り続けてじりじりと痛む手を握り締めて、目を閉じた。
 
「――うわ!? 何だ!?」
 
 ――すると、唐突に目の前にできた山から小さな悲鳴が上がる。
 彼は咄嗟に目を開き、握り締めていた拳を開いた。気が付けば止まっていた呼吸を取り戻し、眼前に積もる山を見ると、皆一様に手や足を見つめて困惑している。彼らの視界の先にあるのは、石畳を割ってでも生えてきた雑草や、近くの若草で。
 それらが男達の手足に絡みついているのだ。
 それはまるで、行き場のないロレンツの怒りを男達にぶつけているように。見境なく、誰彼構わず――だ。
 
「おい! これお前んだろ! さっさと解けよ、もう勝敗はついてんだろ!」
 
 咄嗟に男が一人、ロレンツに向かって叫ぶように声を張った。その声を頼りに、彼の後ろには次々と野次馬が集まってくる。
 大小様々な声。高かったり、低かったり。「何?」「どうしたの?」――好奇心と、不安が混じるような、言葉の数。未だに解ける気配を見せない植物達。
 
 ――いつからだろうか。彼の意思とは反して力が暴走するようになったのは。
 
「なあ、頼むから……!」
 
 懇願するように放たれた言葉に、ロレンツの呼吸が再び止まる。すると、彼の息に同調するように、植物達の動きが鈍くなる。
 それは特別命を蝕もうとするものではない。ただ、彼らの動きを制するように手足の自由を奪っているだけだ。それに多少なりとも力が加わっているようで、男達が懸命に引き剥がそうにも剥がれない。
 蔓や蔦が絡まり合いながら腕に絡みつくのを、野次馬はおろかロレンツもただ見ているだけだった。
 ――いや、彼に至っては対処法を知らないのだ。

 何をどうすれば植物が身を引くのか分からない――そんな彼を咎めるように、ロレンツから少し離れた場所から小さな悲鳴が上がった。
 その悲鳴に彼はゆっくりと振り返る。男の山から、野次馬に視界が変わった先、彼が見たのは恐ろしいものを見るような目で自分自身を見つめる、一人の女の顔だった。
 ロレンツは喧嘩に明け暮れる日々から、周囲の人間からは良く思われてはいない。いつか自分にまで手をあげてくるのではないか、と普段から恐ろしいものを見るような目を向けられている。朝だろうが、昼だろうが関係ないその視線は、現状も相まって普段よりも鋭く感じられた。
 
 初めて怖いと思った。
 だから彼は、咄嗟に踵を返し、野次馬の間を縫って駆け出した。
 
 男達がどうなろうが関係ない。ただ、訳の分からない力を持つ自分を責める視線が嫌で、ロレンツは尻尾を巻いて懸命に石畳を蹴る。
 道中灰色が彼の視界の端に映った。
 ――しかし、それを気に留める余裕もないロレンツは、人気のない場所に逃げるため、振り返ることなどできなかった。