月夜の下で、愛を紡ぐ

 特に何かがあったわけでもない。普段通り暗鬼を倒し回り、白夜城周辺の街で買い物を済ませ、巨像内の手入れを手伝い――一部では訓練に勤しみ――、派遣から帰ってきた光霊達を迎える。夜が更けていけば早々に眠る者と、未だ夜を楽しむ者に分かれて、再び変わりのない朝を迎えるのだ。

 そんな日常の中で、今日は一際月が輝いて見えた。

 夜も時折翼をはためかせる巨像に乗っていれば、地上に足を下ろしている間よりも空がうんと近くなる。それも相まってか、煌々と輝く満月の美しさには目を見張るものがあった。
 星の瞬きを押し退けて、深い紺の空を照らしているその微笑みは、見る者の動きをすっかり止めてしまうほど。
 それほどまでに丸く、綺麗な月が見えていた。

 書籍を漁れば出てくる「中秋の名月」に、誰もが納得したように頷く。
 秋の暦に差し掛かった空は夏よりも澄み、月の位置は丁度いい高さにある。魔除けのすすきと収穫の白い団子を添えて、月見をするのが一般的だそうだ。
 無論その書籍に目を通した空の末裔は、「折角だからお月見しようよ」という一言と共に、賛同していた何人かの光霊と月を見た。特別美味そうだとも、綺麗だとも思えない光霊は自室へと戻っていったが、月を見上げた光霊はこぞって「綺麗」と言っていた。
 酒場では月を肴に晩酌をする者もいたが――如何せん、バートンにはその感覚はあまり分からなかった。
 夜は奇襲に遭わないよう、最も警戒すべき時間帯のひとつ。空を見上げ、大して価値のない星や月を眺める時間があるのなら、訓練やチェスで時間を潰した方がマシだとさえ思える。
 平和ボケしたクズになど成り下がりたくはない。暗鬼と戦うことこそが、彼の楽しみなのだ。

 その時間が現れる可能性が少ない日こそ――彼の不満は募りに募った。

 夜が更けて漸く大半の光霊達が寝静まった頃に、バートンはふらりと巨像内を歩いた。月を眺める小煩い歓声の中を歩く気にはならなかった彼は、すっかり明かりが消えた休憩室をあてもなくさ迷い歩くことにした。眠気はない。
 日中は賑やかで耳障りな様々な声が飛び交うが、夜が更ければすっかり元の静けさを取り戻す。まるで初めから人などいない――とでもいうような静けさに、彼は無意識で握り締めていた手の力を抜いた。

 やはり、平和そのものの象徴のようにこの場所で、戦いを求めるなど期待外れなのだ。

 チッ、と舌打ちをして、彼は遠くにある窓へと目を移す。月が高く昇る空は濃紺に彩られ、星達が点々と輝いている。こんな夜には暗鬼達も血の気も多くなるだろう――なんて思うが、今日に限って襲来はなかった。
 あまりにもつまらない。退屈で仕方がない。
 そんなバートンがいくら月を眺めたとしても、ただ鬱陶しいとしか思えなかった。

「――…………」

 ――ふと、月明かりしかない休憩室の中でひとつの人影を見付けてしまった。
 彼は気分が悪く、その背に声を掛けずに立ち去ろうかと思っていたが、顔馴染みという接点が彼の足取りを重くする。
 あの人影もまた、バートンの存在に気が付いている筈なのだが――、彼と同じように張り詰めている気持ちを多少緩めているのか、振り返る気配はない。振り返らないということは、彼もまた特別声を掛けてほしいわけではないのだろう。
 戦闘のように楽しみのない面倒事を起こす前に、さっさと立ち去るべきだ。
 ――そう思ったのだが、バートンの足は自ずとその人影の方へと向かって歩き始めてしまった。黒地に青のラインが入ったブーツが、床を踏み締める音を鳴らす。
 我ながら頭が可笑しい。気が付けば彼は唇を開き、「おい」と声を掛けていた。
 バートンの声に漸く気が付いたかのように、それが徐に振り返る。
 窓の向こうにある月明かりが彼の髪を淡く照らした。ほんのり青みがかった白髪が、月明かりの所為で眩しく煌めいて光を反射する。褐色の肌が暗闇の所為で普段より暗く見える表情が、月明かりのお陰で仄かに照らされる。
 常日頃からやけに整って小綺麗な顔立ちだと思っていたが、月明かりの下ではよりいっそう強く引き出されているような気がした。

 こんなにも綺麗な男だったのかと、一瞬だけ意識を奪われてしまった――。

「……ああ、アンタか。まだ寝ていなかったのか?」

 バートンを視認するや否や、ワタリは僅かに口角を上げて微笑んだ。元外科医という肩書きを持つ所為か、彼は定期的に医者としての発言を空の末裔や、光霊達に告げている。
 無論、それはバートンも例外ではないのだ。
 早く寝た方がいいぞ、と彼が無愛想に呟く。そのあとに背を翻し、再び窓の向こう――空を見上げて、じっと月を眺めていた。
 彼もまた月が綺麗だ何だと言う口だろうか。厄介だと思いながらも、バートンの足はよりいっそう、ワタリの傍へ近寄ろうとするのをやめなかった。

「……お前こそ何してんだよ。健康に悪いだ何だって言うんなら、先に寝た方がいいのはお前じゃねえのか」

 気が済んだら俺は寝る。そんな言葉と共に彼の足音がワタリのすぐ真下で鳴り響く。静まった巨像内では些細な音も小煩く聞こえてしまうほど。何やら神経を逆撫でされているような気分になり、バートンの眉間にシワが深く刻まれる。
 彼の言葉にワタリは「まあ、そうだな」と呟くが、振り返る気配は少しも見せない。ただじっと月を眺めてぼんやり外を見つめるものだから、バートンは思わず「お前も月が綺麗だとか言う口か?」なんて呟いてしまった。
 ――ふと、ワタリが僅かに顔を動かして彼の方へ意識を向けたのが分かる。
 手を通せばいとも簡単に指の合間を縫っていきそうな白い髪が、月明かりに煌めく金のピアスが小さく揺れた。

「――……そうだな。酒のつまみにしようかと思うくらいには、綺麗だと思うぜ」

 ほんの少し苦笑気味に、彼はバートンの顔を見ながら答えた。
 端正な顔立ちとは裏腹に、ワタリは酒場で酒を嗜むことが多い。ガラス製のコップに注いだ酒を、マドラーでかき混ぜては喉の奥へ流し込む。その様子が到底元医者だとは思えなくて、空の末裔が密かに体の心配をしているのは言うまでもない。
 滅多に酒場になど向かうことのないバートンは、その言葉を聞いて意外だと思ってしまった。健康面に口を出してくるほどだ、彼には酒や煙草の概念は無縁だと、どこかで思っていたのかもしれない。
 酒を口にすれば銃の標準が定まらなくなる。酔いが回って、満足に戦うこともできなくなる。
 それらを避けるため、極力飲酒を避けているバートンとしては、物珍しそうに「酒か」と小さく呟くだけだった。

「流石にもう寝るけどな」

 アンタももう寝ろよ。
 そう言って惜し気もなく再び月を眺め始めるワタリに、彼の喉が鳴る。
 露出の目立つ服装がここまで厄介だと思ったことはない。惜し気もなく晒されている褐色の肌に、バートンの妙な食欲が掻き立てられる。末裔が何度も何度も、美味しそうだよね、と口走る所為だろうか。
 それとも――こちらではなく、夜の間にしか姿を見せない月ばかりに気を取られているのが許せないのだろうか。胸の奥に募る蟠りが、彼の気分を害しているのが酷く気に食わなかった。

 喉元に歯を突き立てれば多少は気がこちらに向くだろうか。金の装飾が煌めく褐色の肌から、赤い色が少しでも見えてしまえば、気持ちも落ち着くだろうか。

 ――なんて考えながら、バートンは小さく「ワタリ、」と彼の名前を呟いた。

 それが合図だと言わんばかりに、彼の意識が月からバートンへと向けられる。ほんの僅かだが、体の重心がバートンのいる方へと傾いた。
 意図が読めているのだ。バートンは軍帽のつばを軽く上げながら、空いた片手でワタリの頬を引き寄せる。ほんの数秒しかかからない触れるだけの口付けを落として、彼はじっとワタリの目を見た。
 男でも唇は柔らかい。それを知ったのはいつの頃の話だったか――今ではもうどうだってよかった。ただ、月から意識を逸らせれば、今はどうでも構わない。
 ワタリは特別驚く様子もなくバートンの青い、昼空のような瞳を見つめ返していた。そうしてぽつりと小さく――

「何かするつもりだったらぶっ刺すところだった」

 ――なんて呟いて口角を上げる。その手元に氷のメスが握られているのを見かねて、下手に手を出さなくてよかったと、彼は安心感を胸に抱いた。
 殺し屋であることは伊達ではないのだと自覚させられる。その精度は医者であった頃よりも遥かに増していると、空の末裔が聞かされていたことも知っている。
 自制心が己を押し留めたことに隠れて褒めてやりながら、バートンは「物騒だな、おい」と口を洩らせば、「アンタほどじゃない」と返されてしまった。

「いいよ、俺ももう寝る。これ以上月なんて見てたら何されるか分からないからな」

 そう言いながらワタリは頬に添えられた手を優しく押し退けて、月に背を向けた。

 ――一体いつからだろうか。彼が手を避けようとしなくなったのは。

 不意に抱いた疑問を胸に、バートンは歩幅を合わせながら隣を歩くと、ワタリがほんの少し間を置いて口を洩らす。

「月が綺麗だな」

 ――なんて聞き飽きたような言葉に、バートンは「あ?」と不満げに声を上げた。お前も聞き飽きる言葉ばっかりかよ、なんて言えば、彼はくつくつと肩を震わせて笑い、「分からないなら気にしなくてもいい」と吐き捨てる。
 月なんて取って食えないものよりも、遥かにこいつの方が綺麗だと思っていたバートンには、隠語も率直な感想も特別通用しない。

 愛だの何だの、そんな言葉だけで縛られるような二人ではないのだから。