生温い舌が首筋を這う。その感覚は擽ったいようで、しかし確かに擽ったさとは別の感覚であることは間違いない。上手く装飾を避ける器用さに理性を感じながら、背筋を這う妙な違和感に体が強張っていく。
言葉はない。装飾を避けた唇が褐色の肌に強く吸い付いて、小さな痛みと共にひとつ、跡を残す。ああ、またか――と呆れたように、他人事のように思いながら体を這う手を押し留める。傷を残されないだけマシか、それとも見えるところにわざと残されたことに腹を立てるべきか。抗うように手を押し退けようと力が加わる手に視線を投げて、「おい」と呟いた。
静かな部屋に響いて言葉は虚空に吸い込まれて消える。彼の耳にはしっかりと届いたのだろうか――それにしてはどうにも動きが止まる様子もない。それどころか押さえるために添えた手も、もう意味を成さない。服の隙間から入り込んだ手が脇腹から胸へ、這い上がっていくのがよく分かる。
何をしても無意味なのだと、本当は知っているのだ。
――それでも彼は、制止を促すために言葉を紡ぐ。
「バト」
ぽつりと呟いた彼の名前を聞き入れたのか、バートンがゆっくりと顔を上げてワタリを見下ろした。明かりも点けない部屋の寝室に押し倒したワタリの姿は、暗闇に溶け込みそうな気がして――、真昼のように澄んだ水色の瞳が僅かに細められる。獣のような色はとても見受けられないが、やめようとする意志も感じられない。
やめろと言いたげな彼の言葉を受け流して、バートンは彼の唇に舌を這わせる。初めは形をなぞるようにゆっくりと。その後に触れるだけの口付けを数回繰り返し、ワタリの警戒を緩めるようにと誘導する。
このときだけは非常に優しく接してくるバートンに、ワタリはどうにも絆される傾向にあった。
普段は好戦的で戦いに関しては目がない男が、やたらと自分を割れ物のように扱うことが珍しいのか、行為に対して制止をすることが馬鹿らしく思えているのかは分からない。
ただ、どうにも自分を欲しがる彼の動きが甘えてくる犬のようで、酷く愛らしいと思っているのは事実だ。手の動きも疎かに、開けてくれと言わんばかりに口付けだけを繰り返すものだから、――つい、気を許してしまった。
早めに終わらせるにはバートンの期待に応えるのが一番だ。
――そう自分に言い聞かせながら、ワタリは小さく唇を開けてやる。すると、見計らったように彼はワタリに触れる以上の口付けを交わす。小さく開かれただけのそれをこじ開けるように数回貪って、彼から余裕を取り除こうという意志を感じてしまう。
上唇を柔く食んで、僅かに開いている唇の隙間に舌を捻じ込んで。胸元を撫でながら賢明にワタリを『その気』にさせようとする。角度を変えながら頻りにキスを交わすものだから、次第に余裕を失っていく彼はつい、吐息を溢した。
「ぁ、ん……」
ちぅ、と小さく音が鳴ったような気がする。けれど、口内へと入り込んできた彼の舌が音など気にする余裕も与えてはくれない。口蓋を舐めてから半ば無理矢理舌を絡ませ合う。それに増して唾液が絡む音すらも響いてくるものだから、頻りに頭が痺れるような感覚が迫る。
思考がままならず、白んでいくのをまるで他人のように感じていた。自分ばかりはこのような目にあうことはないと、頭の片隅で思っていた所為だろうか。「好意」が体の動きを鈍らせて、どうにか押し退けようとする手に力が行き届かなくなる。
普段なら着崩すことのない服を着崩して、顔を覗かせる胸元に添えた手が無意味に終わる。息も絶え絶えになる自分を受け入れたくなくて、早く終われと何度思ったことだろうか。
「ふ……っ」
頭が上手く働かないのは酸素が脳に回らないから。それを解消しようと開いた唇の隙間から賢明に息を吸おうとするが、直後にバートンの唇が隙間を埋めていく。
舌を吸っては絡めて、何度も唇を貪って――ワタリに余裕がなくなってきたと思う頃に、彼の手が胸元から下へと降りていく。口付けがそれに移り変わり始めるのを痛感して、ワタリは咄嗟に力を振り絞ってその腕を掴んだ。
ぼんやりと霞む視界の中で制止を与えてきた彼の行動に面食らったのか、バートンは大人しく動きを止める。唇を離して、繋がっていた糸が切れるのを見届けてから、ほんのり頬を赤く染めるワタリを静かに見下ろしていた。
「駄目だ」
――たった一言。それだけを口にすると、バートンは一度だけ視線を逸らした。
どこを見るわけでもない。ただ一度、ワタリから視線を逸らしただけで、すぐに目を閉じてしまった。そうして小さく舌打ちをすると、自分の腕を押さえていたワタリの手を振り払って、その手首を掴む。
手をどうするつもりなのかと思えば、彼はワタリの手をそのまま自分の首へと回すものだから、ワタリの顔が僅かに歪んだ。
まだするのか、と彼の動揺に満ちた言葉がバートンの耳に届く。普段なら決して回されることのないワタリの手を、わざと自分の背へと回させるのが彼の肯定を示していた。
どうにも満足するまで彼は止まる気はないようだ。
一度拒んでしまえば後の機嫌取りが酷く面倒くさい。戦闘力に関して申し分ない彼らは、戦闘に駆り出されることも、派遣に行くことも少なくはない。これからもこの先も同じような日常を送るとするのなら、余計な手間を増やさない方がいいのだろう。
――何よりもバートンは、大人しくワタリを逃がす筈がないのだ。
首の後ろに回された手を組んで、ワタリはバートンに顔を近付ける。あとどの程度睡眠時間を削られるのかを考えながら、彼の額がワタリの額に当てられるの感じて心中で覚悟を決めた。
「――んぅ」
ぐっと顔を近付けて、再びバートンはワタリの唇を貪り始める。飢えた獣が餌に食らいつくように勢いよく、深いそれを何度も繰り返し始める。口内を蹂躙する舌が双方どちらともつかない唾液に塗れるのも、わざとらしく掻き立てられる水音も、ワタリの思考を奪い去っていく。
ビリビリと痺れるような甘い感覚が脳を、背筋を伝って体中に迸る度に快感を覚えてしまっているのは否定できなかった。抵抗を失う体に残るのは興奮と、行き場のない妙な違和感だけ。
バートンの左手が後頭部へと回ったと思えば、髪を掻き分けるようにワタリの後頭部を撫でる。ぞわぞわと悪寒にも似たそれは確かに擽ったくて、腕を掴む手が僅かに震える。入り込んでくる舌と共に熱い吐息が混ざり合う。興奮と高揚――迫り来る恍惚に脳を支配されないように意識を保つが、それもいつまで保つのか。
次第に勢いを増して、開いた唇の隙間から洩れるのはワタリの吐息だけではなくなる。鋭利なバートンの歯がワタリの唇を掠めたようで、小さな痛みが走ったような気がした。
「あ……っ?」
わざとか、それとも無意識か。
バートンが離れたと思えばワタリの頬を掴み、傷が付いたであろう唇をぐっと舐める。錆びた鉄の味が彼の舌を転がる筈なのに、嫌な顔ひとつせず舐め上げるものだから、まともに働かない頭でワタリは「なあ」と口を洩らした。
――だが、それもすぐに塞がれてしまう。
もう寝たいと言おうとしていたことを、バートンは知っているのだろう。やめさせようとする言葉を押し戻すように口付けを落とせば、ワタリは言葉を紡ぐことはできない。
彼の気が済むまで終わることを知らないそれに、ワタリが遂に手を下ろした。
「――おい……いい加減にしてくれ」
ぐっと体を押し退けてはっきりと言葉を吐けば、ワタリを見下ろすバートンの瞳が不機嫌そうに揺れる。無我夢中で噛み付いてくる彼の行動は、どうにも食事を連想させてくる。その所為か、いつしか体中が傷だらけになってしまいそうだと思い始めたのは、いつ頃だっただろうか。
ほんのり熱を帯びた頬を掴むバートンの手を押し退けて、ワタリは口許を拭う。思った通り口の端が切れてしまっているようで、針を刺したような小さな痛みが彼の理性を刺激した。このまま好き勝手にされていたらどうなっていたかなど、想像もしたくはない。
未だに熱を持つ体をどうにか落ち着けて深呼吸を繰り返していると、痺れを切らしたようにバートンの手がワタリの頬を撫でた。また何かをしてくるのかと彼は咄嗟に身構えるが、見下ろしたまま不服そうにしているだけで、続きをしてくるようには見えなかった。
少しは理性が残っているのかと思わず感心していると――唐突にワタリの上にゆっくりと覆い被さる。疲労だか、眠気だかがバートンに押し寄せてきてしまったのだろうか。力なくかぶさってきているお陰で、重くて仕方ないとワタリが小さく表情を歪める。
「重い」
そう呟いて背中を小さく叩いてみるが、彼が動く兆しはない。それどころか布団と体の隙間に手を差し込まれて強く抱き寄せられているような気がして、ほんの少し呻き声を上げてしまった。
どうやらこのまま眠りに就くらしい――。風呂に入りたいだとか、手を洗いたいだとか、思うことはいくつもあるが、どうしてもバートンが動くように思えなくて、ワタリは溜め息を吐いた。「諦め」の文字が彼の脳裏に浮かぶ。
「――……次は我慢しねぇからな」
――そんな悪役じみた言葉を耳にしてから聞こえてくる寝息に、「世話が焼けるな」と彼は独り言を洩らした。