穢れた手のひらに自責の念を

 ――記憶の水底から引きずり出したそれが、不意に目の前に現れるようになった。

 赤く染まる目の前の光景。至るところから漂ってくる焦げた匂い。頭に響くような断末魔に、逃げ回る為の足音が鳴る。それらが暗鬼達の声で掻き消されるまでが一連の流れなのだが――その音すらも遠く聞こえるほど、一心不乱に胸を押し続けていた。
 俺にとって父は恐らく、憧れの対象でもあったのだろう。いくら見ても――誰が見ても手遅れだと思われる心臓を、俺は懸命に動かし続けた。
 
 確かに一番重要な患者だった。幾度となく患者の命を現世に繋ぎ止めてきたが、これほどまで重要だと思える患者には出会えていなかった。一声掛けられるまですっかり失念していたことが信じられないほど、賢明に蘇生を試みたのだ。
 母の存在がどうなっているかなど、頭の片隅にもない。数十回、数百回――もう何度胸部を押し続けたのかも覚えてはいない。獣のような悪意と、悲鳴すら別の次元と思えるほどの集中は、ただ俺を危険に晒し続けていた。
 父は医者だ。俺はその背を見て、外科医になったようなものだ。認められたいだとか、力になりたいだとか、そういった感情もあったのかもしれないが――今となってはもう分からない。
 
 分かるのは、父の心臓はもう二度と動かないということだけだった。

 肋骨が折れる感覚が手のひらを伝った。少しも動かない父の体を見て、手を止めるべきだと悟った。暗鬼の襲撃を受けて燃える建物の焦げ臭さと、唸るような声に漸く耳を傾けたとき、自分に置かれた現状を知る。

 ――そのあとの記憶はナビゲーターに打ち明けた通りだった。奇跡的にも光霊としての力が目覚めて、暗鬼を打ち倒した。パチパチと火の粉が飛ぶような音も、耳を劈く悲鳴も、周りの人々が声を張り上げるのも、寸分違わずに繰り返される。
 倒れた父の遺体も、傍にある縫合が中途半端な遺体も、茫然と眺めた。賢明に蘇生を試みた俺の両手は、外傷を負っていた父の血液で濡れていて、見ているとどうしようもない虚しさだけが胸に募る。

 錆びた鉄の香り。焦げる人間の匂い。生臭さが鼻を突く。

 ――手を、洗わないと。

 ――確かにそう思った。汚れた手では父の遺体を土に還すこともできない。傷を塞ぎ、生前の形を保ったまま、空へ送ることもできない。

 蛇口をひねって、水を出す。冷たさなど感じはしない。手に染み付いた汚れを落としたくて、父への蘇生を試みたときと同じように賢明に手を洗う。
 指の隙間も、爪の間も。果ては手首までも入念に洗って、苦笑を洩らす。

 いくら洗っても落ちやしない。父を救えなかった手に赤いシミが、肌の奥まで染み込んでいるように。人を救うのではなく、殺しに使ってしまった手が、いつまでも綺麗にはならない。
 まだ足りないのだ。洗い足りないのだ。もっと、入念に。このままでは触れる場所が汚れてしまう。

 一時間、二時間――冷たさから来る痛みなど、とうの昔に忘れてしまった。
 それでもまだ。赤い色が目立つ。

 落ちやしない。赤い、赤い色が――。

「そんなに汚えってんなら、お前に触れてる俺の手は汚れて見えんのか?」

 ふと掛けられた言葉に思わず顔を上げた。霞む視界の中にぼんやりと、白と黒が映る。「あの時」にいた筈なのに、俺が地に足を着けている場所は土ではなく、人工的に作られたような堅い床だった。
 「答えろよ」そう無愛想な声が降り注ぐ。何故不機嫌そうな声色なのかが理解できないまま、それを見上げていると、不意に何かが視界を横切った。それが黒い軍用手袋をつけた手だと気が付く頃には、手が俺の背に回される。
 自分がまともではないことは十分に理解していた。頭の片隅では問い掛けに答えようとしているのだが、妙に体が重くて思ったような動きができない。朧気な視界が大きく動いてから、体が浮いたような感覚に捕らわれる。抱きかかえられたのだと気が付いたのは、霞む視界にはっきりと特徴的な鉄顎が映ってからだ。

「……何を」

 漸く絞り出せた言葉は、蚊の鳴くような声。自分でも笑えるくらいに小さなそれに、啓光の軍団長が「黙ってろ」と俺に言ったのが分かった。

「お前、ここ最近ずっと働き詰めだったろ。聞いて呆れるぜ、お医者様が体調不良なんざ」

 とても静かな声色だった。まるで眠りを妨げないように紡がれた言葉だと言っても過言ではないほど、酷く穏やかな声だ。これは本当に啓光の第二軍団長であるバートンなのかを疑いたくなるほどに、眠気を誘う声だった。
 「元、だ」――そう呟いた筈が、少しも唇が動かない。酷く気怠い体が彼の手によって支えられていることが分かる程度で、手指がぴくりとも動かない。なんてもどかしい――ほんの少しの悔しさを胸にすると、途端に辺りが騒がしくなったのが分かった。
 まるであの日の悲鳴と断末魔。存在感は暗鬼達のようで、思わず外套の黒いファーに顔を埋める。耳を劈く様々な声は歓声や驚きとも似ても似つかないものばかりで、妙に働かない頭に反響し続ける。
 
 跳ね返り、繰り返し、響く。

 一言で言えば煩かった。煩くて適わない。眠りたいときに限って騒音が睡眠を邪魔するような、そんな煩わしさ。
 廊下からラウンジへと移ったと知ったのは、その服の隙間から微かに見ることができた辺りの景色のお陰だった。

「ナビ」

 そう声を掛ける声量すら、まるで俺に配慮しているようだ。

「わ、どうし……どうしたの!?」
「うるせえ。暫くこいつは使うんじゃねえぞ」

 要件だけを簡潔に述べて、バートンが踵を返したのが感覚で分かった。言葉にするよりも直に見せた方が早いと思ったのか、部屋に寄るついでに報告をしたのか、今の俺にはそこまで頭が回らない。
 歩く度に揺れる体だとか、触れられている箇所からほんの少し温もりを感じるとか――そういったものが何となく理解できる程度だった。
 
 彼が俺に優しくするのは、単純に戦闘に駆り出されたときに足を引っ張り兼ねないからだろう。バートンが道を切り開き、俺がメスを振るう。あの感覚が爽快だと思えている所為か、特別悪い気はしない。
 ただ、元医者だというのにも拘わらず自身の体調の管理すらできていないことに、僅かに悔しさが芽生えた気がした。

 廊下を歩いている音が聞こえてくると共に、人の声が遠のくのが分かる。頭の中で響いていた残響も、次第に薄れていった。こんな状況、好奇心から声を掛けてくる者がいてもおかしくないというのに、誰一人として声を掛けないのはバートンの所為だろうか。

 扉を開く音が遠く聞こえる。静けさが辺りに広まっている所為か、妙な眠気が体の奥底から這い上がってくる。――眠い、ような気がする。
 ――なんて思っていると、体がベッドの上に置かれる感覚がした。柔らかくて適度に体を支えてくれる弾力があるが、どうにも慣れたものではなく、不思議に思って閉じていたらしい目を開ける。

「…………?」
「寝てろ」

 そう言って目深に、且つ乱暴に投げられた布団を捲って、思わず天井を仰ぐ。見慣れない天井、知らない家具。「ここは」と何気なく問い掛けると、バートンが視界の端で椅子に座るのが見えた。

「潔癖だっていうお前の部屋に行くわけねえだろ。動けるようになったら自分の部屋に行け」

 外套を脱いで椅子の背もたれに掛け、小さな丸テーブルの上にある盤を前に足を組む。白と黒のポールがいくつか目に見えて、それがチェスであることを理解したのはその数秒後だった。黒い軍用手袋をつけた手が、駒に触れる。
 一人で指すのだろうか。対面には誰もいないところを見るに、彼はたった一人で戦略を練るつもりなのだろう。流石軍団長なだけあって、考えなしで動くわけがないんだな――なんて思っていると、駒を掴んだままの手がそれを手放した。

「……チッ」

 小さな舌打ちを溢してから席を立つ。その足取りで何故か俺の元へと歩いてくるものだから、不思議と体が強張った。思ったように体が動かないというのは、どうにも不利になりやすい所為だろう。同じ巨像内にいる者同士、下手に手を出されることはないと思いながら、伸ばされる手に思わず目を閉じてしまった。

「寝てろっつってんだろ」

 ぐっと頭に手を乗せられる。視界までもを覆うそれに鬱陶しさを覚えながらも、暗くなった視界にほんのり心地良さを覚えてしまった。ベッドの端に腰掛けたのか、小さく軋む音が聞こえてきたが、再び眠気が体中に巡ってくる。
 ――重い。鉛のように重くなってしまったこの体は、眠れば軽くなるような気がするが、本当に意識を失ってしまってもいいのかを考えてしまう。落ちてくる瞼に抗うのは得策ではないことは承知の上だが、あの夢を見てしまうと思うと、小さな恐怖が顔を覗かせた気がした。

 寝たくはない。
 その意志に反するように、瞼が落ちた。意識が朧になっていく。

「心配しなくても、お前の手は綺麗だよ」

 ――薄れる意識の中で、確かに落ち着く声を聞いた。