快晴、祝言

 ある晴れた昼下がり。空高く舞い上がる彩り豊かな風船が、青い空に映える。白い雲は点々と浮いていて、煌々と照る太陽が華やかな街を輝かせる。紙吹雪が辺りに舞い落ちて、石畳の床をカラフルに染め上げる。
 華やかな甘い香り、沸き上がる歓声。白い街並みに似合う華々しい門出に感嘆の息が洩れる。
 ――とは言え、この華やかな白夜城には似つかわしくない存在であることは明白だった。

 それじゃあ無駄遣いするなよ。
 ――そう念を押すように呟いてから背を翻し、服を靡かせながらワタリは白夜城の街を縫うように歩く。冬の季節では空気が澄んでいる所為か、辺りの白い建物も、太陽の目映さも、夏とはひと味違う鋭さを兼ね備えている。そのお陰か、彼は僅かに目を細めて居心地が悪そうにそそくさと白夜城を後にした。
 ワタリに念を押されたナビゲーターは困ったように笑ったが、傍らにいたバイスに小突かれ、頭を掻いていた手を下ろす。いくら空の末裔であるとはいえ、彼を甘やかすのはまた話が別のようだ。
 財布を管理しているのがバイスであるのなら、恐らく心配は無用だろう。
 丸裸の消毒液を片手に白夜城の出入り口を抜けて、眼前で居座るように停泊している巨像へと向かう。生物と無機物が合わさったであろうこれを「停泊」していると例えていいものか、些か疑問に思ってしまうが――気に留める者などごく一部の人間だけだろう。
 辺りの大地には若草が生い茂っていたが、冬になった今では大半が短く、ところどころ枯れたように萎れている。木々のように枯れ果てているわけではないが、青く萌える爽やかな景色を堪能するには、寒すぎるようだ。
 そんな地面を踏み締めてから、彼は巨像が作り上げた影へと入り込む。影ノ街の生まれであるワタリは、日の下にいるよりも影に溶け込む方が性に合っていると、小さく息を吐いた。
 ほう、と溢れる息に合わせて白い靄が口から吐き出される。それを見て、冬を痛感してしまうのだ。
 ――だからだろうか。彼は一度だけ白く輝く――が、いくつか古い外傷が目立つ――巨像を一瞥して、何の気なしに影から太陽の下に体を晒す。さく、と僅かに瑞々しさを失った草を踏み締めてから、小さく空を仰いで――、珍しく地面に腰を下ろした。
 彼には潔癖の気があると知っている人物が見れば、彼の行動に対して驚いてしまうことだろう。
 乾いた土が服についてしまうというにも拘わらず、ワタリは膝を曲げて静かに日光浴を堪能する。冷たく寒さを感じさせる風が吹く中での日光浴は、夏場に比べれば酷く心地いいもの。ゆっくりと深呼吸を繰り返し、未開封の消毒液を手で持て余した。

 そよ風のように小さく拭いてくる冷たい風と、程よい暖かさを与えてくる日光にワタリは肩の力を抜く。白夜城の周辺にいるとはいえ、街の賑わいが僅かに耳に届くほどの騒ぎに、毒気さえも抜かれているような気分に陥っていた。
 こんな穏やかな晴れた日にも暗鬼と出くわすこともなく、余計な警戒心を抱くこともない。このときばかりは余計な心配もせず、時には息抜きをするといい――というシャドウマスターの言葉を聞き入れて、たまには息抜きをしようという魂胆だ。
 今日ばかりはナビゲーターもワタリのことを無理に働かせることもなく、体を休めていてほしいと労るほどだ。いくら気にしなくてもいいと言えど、普段から世話になっているからと、珍しくナビゲーターに押し負けてしまい、現在に至る。

 ――とはいえ、彼も無理をして体を休めているわけではない。息が詰まる白夜城を後にして戻ってきた巨像の中にも入らず、外でのうのうと日光浴を堪能するほど気持ちが落ち着いている。もちろん、部屋に戻った後は手洗いも欠かさないよう今後の予定を立ててはいるが――何もしない、という一日は久し振りに味わったような気がした。
 何気なくほう、と再び息を吐いて白い靄を眺め、冬を感じる。今年もまた雪が降るのかどうかを考えながら、遠くの空を静かに見つめていた。

「ウォン!」

 ――突然静寂を切り裂くように聞こえてきた鳴き声に、彼は咄嗟に声のした方へと顔を向ける。すると、眼前に白い毛玉が飛び込んできて、ワタリは流れるように地面へと押し退けられてしまった。

 ――しまった。

 大きな毛玉がふたつ飛び込んできたことよりも、自分が地面に倒れてしまったことに対してほんの少しの焦りを覚える。手や服が汚れてしまうのは覚悟の上だったが、頭や背中が土や枯れ葉塗れになってしまうなど、予想外でしかなかった。
 充満する獣の匂いと重さに堪らず彼はそれを押し退けて、「やめろ」と口を溢す。倒れてしまった体を起こしながら後頭部を払い、目の前で空のように鮮やかな瞳を瞬かせている二頭の狼を見つめ――訓練は終わったのか、と小さく呟いた。

「お前達のご主人様はどうした? まさか置いてきたのか?」

 爛々とワタリを見上げる双眸に、溜め息をひとつ。心穏やかな時間は過ぎ去ってしまったのだと悟って、ワタリは大人しく彼らの相手をしてやる。
 周囲を囲むようにくるくると回り、ワタリが手を差し伸べれば我先にと頭をすり寄せてくるものだから、彼は毎回疑問を抱く。特に優しくした記憶も、懐かれるようなこともした覚えはないのに、何故だか二頭の狼はワタリをいたく気に入っているようだ。
 一体何がそうさせているのか、頭を捻るが、柔らかな毛並みを堪能する毎にそれも気にならなくなってしまう。十分な手入れと、程よい躾が彼らを賢くさせているのだろうか。
 ――そう考える度に、小さく笑いを溢して「意外に可愛い一面があるんだろうな」と彼は呟いた。
 それが相手に伝わっていることなど、とうに知りながら。

「――チッ……ウルヴとヴィートがやたらはしゃいでいくもんだから何かと思えば……」

 忍び寄る足音に顔を向けると同時に、狼たちはワタリの横を通り過ぎて主人の元へと向かう。白く靡く上着だか外套だかを手に、バートンは呆れたような顔で二頭を迎えて――携えていたそれをワタリに投げつけた。
 バサリと音を立ててそれが頭にかぶさる。
 何かと思えばバートンはワタリに向かって「見ててさみぃ」と呟き、何食わぬ顔で傍らに腰を下ろす。程よい日光により特別寒さを感じているわけではなかったが、軍服に身を包んでいる彼からすれば、ワタリの服装は肌寒くて仕方がないのだろう。
 投げつけられたそれを彼は大人しく羽織ってから、「訓練は終わったのか?」と飼い主に訊ねれば、バートンは鬱陶しげに白い髪を払い除けながら「おう」と返事を溢す。
 よく見ればほんの少し汗が滲んでいるのが見て取れた。僅かな変化でしかないが、ほんのり頬が赤いような気がする。訓練の後で体が温まっているのだろう。その状態での正装は酷く暑苦しいのか、冷たい風に当たりながら彼はあぐらをかいた。

「暗鬼は出ねぇし、ナビは白夜城に行くって言って遠征にも出さねぇし……退屈すぎて死んじまいそうだぜ」

 大体何で白夜城になんて行きやがんだ。
 そう不満げに膝を突いたバートンにワタリは言う。

「ラファエルが誕生日だから祝うんだと」
「へえ、そりゃ律儀なこった」

 さも興味もなさげに生返事をするバートンに、ワタリは呆れたような吐息をひとつ。――ふと、彼とウルヴとヴィートが自分自身を取り囲むように座っていることに気が付き、小さく瞬きをする。
 寒さから守っているつもりだろうか。干したての布団のように柔らかく、心地のいい狼の体に手を滑らせて、ほくそ笑む。
 その間にバートンは訝しげな顔をしながら、「誕生日だからってあんなに賑わうもんか?」と疑問を溢した。
 ――確かに街から多少離れた巨像の傍にいるにも拘わらず、歓声が煩いほど聞こえてきてしまう。もう少し方角を変えるべきだと思えるほどめでたく、遠い世界に思えるほどに、だ。
 その理由をワタリは知っていて――愁いを帯びたような瞳を揺らして、「式さ」と呟く。

「結婚式。今頃花嫁さんは婿さんと祝福されてるんだろうよ。そういう奴らには、暗鬼の襲撃に遭うことなく、天命を全うしてほしいもんだな」

 ウルヴから手を離し、携えている消毒液をコロコロと手中でもてあそび、僅かに眉尻を下げる。自分には遠く、決して縁のないもののように見つめる先にあるのは、両親の面影か――。
 どこか寂しささえも感じさせてくるほど静かに呟くワタリを横目に、バートンは再び「へえ」と言った。めでてぇことがよくもまあ重なるもんだ、とも呟いて、ふと彼の手元のそれを見る。
 外の景色にも、現状の雰囲気にも不釣り合いの消毒液が、どうにも気になって仕方がなかった。

「……先生」
「先生じゃない、何だ?」

 ほんの少し揶揄うような呼び掛けに、ワタリは定型文のような返しをする。

「いくら潔癖だからって、外にまでそれを持ち歩くのか?」

 少しだけ不満げな声色と視線に、ワタリは手元のそれを見てああ、と口を溢す。

「誕生日の祝いだと」

 そう呟けば、バートンは一度だけ瞬きをして、数秒の間を置いてから「誰の」と言った。
 数秒の間を作るほどだからワタリが何を言いたいのかなど、気が付いていそうだが――敢えて訊いてしまうところが酷く彼らしい。
 「俺の」――軽く笑いながらそう答えれば、バートンは小さく視線を泳がせた。
 
 無理もない。彼はワタリの誕生日など知らず、朝から昼まで退屈を紛らせるために訓練に明け暮れていたのだ。それに付き合っていたウルヴもヴィートも腹を空かせているのか、辺りの芝生に小さく歯を突き立てては、ワタリが「止せ」と声を掛けるのを繰り返している。
 無論、ワタリもこの年齢になって誰かに祝ってもらおうという意志はなかった。誕生日を知っている一部の人間がそれとなく祝い品を持ち寄って声を掛け、一人でそれを堪能する、というのが専らだ。今更誰かに盛大に祝ってもらいたいなど、思う筈もない。

 筈もないのだが――バートンはワタリの意に反して、バツが悪そうに頭を掻いた。
 狼たちのように柔らかく、僅かに癖のある白髪が揺れる。その表情は普段の挑発的な笑みも、強気な睨みもまるでない。幼さを残した悩む表情だけが、ほんのり顔を飾っている。

 ――こんな男もこんな顔をするのか。

 焦るような困ったような、どちらとも似つかない表情を浮かべた彼に、ワタリは失笑する。ふっと堪らず唇から笑いが溢れてしまって、真剣に悩んでいそうなバートンは「何笑ってんだ」と眉を顰めた。

「ははっ、いや、悪い。あんたもそんな顔をするのかと思ったら可笑しくて」

 小さく肩を震わせて、堪えるようにワタリがくつくつと笑う。その表情もどこかあどけなさが残っていて、先程のバートンと何ら変わりのない表情であると知らないまま、不満げなバートンにそうっと体を寄せた。
 笑ったお陰で仄かに熱を持った頬を、冷たい風が撫でる。唇――ではなく、鉄顎に軽く口付けを落としたワタリは、バートンを見上げながら目を細めた。

「別に難しいことなんて考える必要はないだろ? あんたがくれるんなら、俺はこういうものでも満足だぜ」

 ――なあ、軍団長様。
 ――なんて敢えて挑発的に呟くと、ワタリの予想に反して口付けがひとつ、額に落とされる。
 てっきり口にしてくるのかと思ってたんだが――なんて思っていると、顔が離れてバートンの表情がよく見えるようになった。
 いくら戦闘マニアだといっても、彼は指揮官の一人に上り詰めた身。理性や自制が働くときは自分自身を抑えて、意地が悪そうに、挑発的に笑う。

「――そう言うんなら、夜、部屋に来いよ。ワタリの部屋は汚せねえからな」

 爛々と輝く空色の瞳。どこかで見た獣のようなそれに、そっくりだなんて心中で言葉を洩らす。
 手のひらの上で転がすつもりが、転がされてしまった。自分から飛び込んだものの、逃がすつもりはないと言わんばかりに腰に添えられた手に、ワタリは諦めたように溜め息を吐いた。
 
 こればかりは俺が悪かったかな。

 そう観念したと同時――

「ゥオン!」
「――うっ!?」

 ――白い毛玉がふたつ、彼らに飛び掛かったのだった。