唐突に開かれた扉に、ワタリは驚いて肩を震わせた。自室にいるということですっかり気を抜いていた彼の手元から、白銀のメスが音を立てて床に落ちる。カラン、と鳴った音にワタリはハッとしてからちらりと横目でそれを見て、落ちたメスを丁寧に拾い上げる。
医者としての責務を片時も忘れないよう、肌身離さず持ち歩き、欠かさず手入れを行ってきていたが、床に落としてしまったことは一度もなかった。そのメスを落としてしまったことに、彼は小さな不快感を得る。
「……何か用か?」
ぽつりと呟かれた言葉は酷く冷めていて、ワタリがそれとなく不機嫌であることを裏付けていた。
そんなワタリに対し、扉を無造作に開けた張本人――バートンは彼と同様、酷く不機嫌そうな表情をしていた。開かれた扉の向こうから差し込む眩しい光が逆光となって、尚のことバートンの表情が不機嫌そうに見えてしまう。
――拾い上げたメスを戸棚にしまい込みながら、随分と珍しい光景だと、ワタリは眉を顰めた。
バートンがワタリの部屋に押し入る時間帯は大抵夜が殆どだ。日中の彼は暇さえあれば誰彼構わず手合わせを申し込み、暗鬼が出れば俺に行かせろと言い出す始末。啓光での彼は軍団長としての責務を全うしているが、巨像にいる間の彼は「軍団長」よりも一匹の獣のよう。
そんな彼が日中にワタリの部屋に訪れるなど、極めて稀な出来事だった。
ほう、と息を吐いて気持ちを落ち着かせ、ワタリはバートンの顔を見つめる。小さく手招いて仕方なく部屋の中に招き入れれば、バートンは無愛想な顔のまま足を踏み入れる。扉を閉めれば廊下からの光が途絶え、ワタリの薄暗い部屋が戻ってきた。
彼の自室は極力光の届かない空間となっている。それがどこか影ノ街を彷彿とさせるほど仄暗く、まるで夜の中に身を投じているようだった。カーテンに遮られた窓の外は目映い光と、萌える青々とした若草達が別世界のように広がっている。その向こうではバイスやナビゲーターを始めとする光霊達の姿が多々見受けられた。
その光景を一瞥してから彼は戸棚に手を掛け、しまい込んでいた手当て道具一式を取り出す。
メスが落ちてしまったことをいつまでも引きずってしまっていては話が進まない。気持ちを切り替えるよう取り出した包帯やら消毒やらに視線を落とし、彼はやるべきことを頭の中で整理する。
「よく分かったな」
淡々と述べられる言葉。酷く静かで、波の立たない泉の水のように落ち着いている声色に、ワタリは「まあな」と返事をする。
逆光の中で見えた薄汚れた軍服。土や砂埃で汚れた頬。ほんの少しだけ漂う錆びた鉄の香りに、ワタリはバートンが部屋に訪ねてきた理由を理解した。
珍しい話ではあるが、バートンは今傷を負っている状態だ。普段なら滅多なことが起こらない限り傷などこさえてこない彼ではあるが、相手が強ければ強いほど傷を負って巨像に戻ってくる節がある。それは到底命に関わるものではないのだが――、そういうときの彼は決まってワタリの手当てを受けるようになった。
――しかし、その理由も明白ではある。
「今回もまたラファエルのミサイル治療は必要ないほど小さいものなのか? フィリスはどうせただじゃ動かないしな」
道具を一式収めた箱を手中に収め、彼はベッドの端に腰掛ける。何の気にも留めないよう淡々とした口振りではあるが、ほんの少しバートンの様子を窺うような意思が窺えた。
ワタリに倣うよう、バートンは上着を剥ぎ、無造作に近くにある椅子の背もたれにそれを投げ捨てる。他人の部屋であるという自覚はあるが、どうにも些細なことに気を配れるほどの余裕はないようだ。
次々と服を脱いでいくその様子がどうにも可笑しくて、ワタリは訝しげな顔をしていた。
「……傷が深いのか?」
思ったよりも事態は深刻なのかもしれない。
顔色を窺うような声を掛けると、あらかた脱いだバートンがネクタイをほどきながら「大した傷じゃねえ」と答える。
「せいぜい猫に引っ掻かれたようなもんだ」
そう言ってワタリの隣に腰を下ろすバートンは、厄介だという表情を浮かべていた。
猫に引っ掻かれた程度の傷で何故不快そうなのかを訊けば、彼は唇を尖らせたままその理由を話す。
至って簡単なそれは、服が傷口に擦れて不定期に焼けるような痛みを伴うというもの。腕を振り上げたとき、銃を突きつけたとき。はたまた訓練中にでさえも傷口に繊維が引っ掛かるというのだから、思うように動けないことがバートンにとっては厄介なのだろう。
そんな傷を一体どこでこさえてしまったのか。ワタリは溜め息を吐きながら手の掛かる彼に対し、「患部を見せてくれ」と言った。
どれほど小さな傷だとしても、傷口から菌が入ってしまえば最後。一体どのような結末が待っているかも分からない。多少の時間は経過してしまっているようだが、手当てをしないという選択肢はワタリにはなかった。
命を落としてしまう危険性のあるものはひとつひとつ明確に潰す――それが、ワタリの元医者としての今できることだった。
「――……?」
しかし、バートンはワタリの顔を見つめたまま一向に動く兆しを見せなかった。それどころか、やけに一心に見つめてくるだけで、ワタリの指示など聞いてもいない様子だ。じっと見つめてくる瞳は空のように眩しくて、彼は堪らず「早くしてくれ」と急かす。
現状、ワタリが何らかの忙しさに身を投じているわけではないのだが、ただ黙って見つめてくる視線に逃れるよう咄嗟に口を突いて出た言葉だった。
その言葉にバートンは漸くシャツに手を掛け、ボタンを次々と外していく。衣服の下に隠されている彼の体は古傷ばかりが刻まれていて、見るに堪えないほど。ところどころに変色した肌の色が、傷跡が痛々しく思えるが――これは彼なりの証しのひとつなのだろう。
しっかりと手当てを受けたのか――そんな疑問を胸に抱いていると、彼は不意にワタリに背を向けた。白く伸びた髪ががたいのいい体に散らばっている。
それは、背中に傷を負っている、という無言の暗示だった。
「……珍しいな。あんたが背中に傷を負うだなんて。どこら辺だ?」
「背中に傷をつけるなんて、逃げた証しになりそうで嫌なんだが……こればっかりは仕方ねぇ」
小さく丸められた綿に消毒液を数滴垂らし、傷口に手が触れないようピンセットで摘まみ上げる。
そうしてバートンが髪をまとめ上げるのを待っていたが、彼の口振りは呆れ返ったようなものに近かった。
バートンの手が長い髪をたくし上げる。根元から乱暴に持ち上げるような仕草が彼らしいと他人事のように見つめていたワタリの視界に、問題の傷が移るや否や――ワタリは目を見開いた。
肩甲骨の位置よりも上に、頸椎点付近に強く引っ掻いたような跡がバートンの背中に刻まれている。一番深くて小さな傷からほんの少しだけ血が滲む程度。軽いものは赤く腫れたような形跡が残っていて、服が少しでも擦れてしまえば痛みが伴うようなものだ。
それが鬱陶しくて、バートンは日中からワタリの部屋へと押し入ったのだろう。軽い傷であれば誰でも手当てができそうなものの筈なのに、わざわざワタリの部屋へ訪れた理由が彼にはあった。
「気を遣ってやれなかった俺にも責任があるだろうけどな……まあ、いっぱいいっぱいの奴が気を付けるなんて無理な話か」
――ふと、蘇る圧迫感がワタリの脳を支配する。
薄暗く月明かりが照らす部屋で生温く、痛みを伴った夜を貪った。途切れ途切れの呼吸が、思考の放棄を促してくるようで、酷く朧気な視界ではあった。どこを触られていようが、噛まれようが、塞がれようが――はっきりとしない頭では何もかもが快楽だと誤認してしまうほど。
白んでいく頭では「爪を立てた」という記憶すらままならないほど、鬱陶しい夜だった。
「傷つけるくらい夢中にでもなってたんだろうがよ」
バートンが口を開く度にどうしても夜の出来事を思い出してしまう。――その度に不思議と、頬が熱を持つ感覚を得た。
――ふ、とバートンは振り返り、酷く楽しそうに笑う。
反面、ワタリは顔を顰めてやけに楽しそうな彼を軽く睨んだ。
「傷は付けてもいいが、もうちょい手加減しろ。手当てがなくても動ける程度のな」
彼は挑発的に笑う。背中の傷をワタリが付けたものだ、と明確に言うことはなかったが、それが逆にワタリの羞恥心を掻き立てるよう。
背に回した手で一体いつ傷跡を残したのか、なんて思い当たる節もなく。ワタリは顔を顰めたあと、ゆっくりと顔を俯かせて大きな溜め息を吐いたのだった。