温もりに這う

 隠すのが上手い人間ほど、ろくな甘え方をしない。――それを、身を以て体感しているバートンは、反抗もせず黙って押し倒してきたワタリの下で彼を見つめる。
 普段ならほんのり笑みを浮かべる筈のワタリは、まるで初めて会ったときのようにすっかり無表情のままだ。心なしか、髪の毛が湿っている上に、石鹸やらボディーソープやらの仄かな香りが漂う中、独特のそれが混ざっている。戦地で何度も鼻を突いた嫌な匂いだ。
 そして、心を揺さぶる独特な香りだ。
 ワタリは光霊である他、暗殺者であるという一面を持ち合わせている。今宵月のない夜で彼は彼の仕事があり、それをこなしてきた直後なのだろう。自分自身に対してやけに潔癖性であるワタリが、仕事を終えた後に体を綺麗にしないことなどないのだから。
 ――それでもその体と、暗い瞳は冷めたままだった。
 湯冷めでもしたか、それとも単純に温まらなかったか。何も話さずバートンの服を脱がしていくワタリの手は冷たく、到底風呂に入ったなどとは思えない。まるで入念に洗い終わった手のひらのようなそれに、バートンは眉を顰める。
 ワタリは無駄話を好まない。だから事に及ぼうとしても、前戯にでもなりそうな会話のひとつさえ交わさない。ただ淡々と、バートンの喜びそうなところに手を当てて、探ろうとする機械のようだった。
 抵抗をしようと思えばできる筈だ。だが、彼はそれをしないままシャツのボタンを外され、胸元が露わになるのをぼうっと見つめている。服の下に隠れていた傷だらけの、がたいのいい体に、ワタリはそっと手を触れた。体の表面を撫でるようにつぅ、と指先が滑り、熱を奪うように手のひらを押し付けられる。何を確かめているのか分からないが、彼はそれを数回繰り返していた。
 もちろん何も感じないわけがなく、バートンは指先が体をなぞる度にぐっと寝具のシーツを握る。むず痒く、もどかしい。――そんな感覚に数回悩まされていると、ふと、ワタリの表情が目に入った。

 月のない夜。月明かりがない夜。薄暗い部屋の中でバートンの体温を確かめて安心するよう、ワタリの表情が軽く綻んだ。緊張に支配されていたらしい体は、もう風呂に入っていたなどという事実を掻き消すほど、冷たくなっている。独り善がりの強気な顔が少しずつ、剥がれ落ちているようだった。

 ほう、と息を吐いた彼の顔は漸く頬に赤みを帯びたように見える。かろうじて見えるその変化に、バートンでさえ小さな安心感を抱いた。たとえ押し倒されていようとも、ワタリの些細な変化を逃す気にはなれないのだ。
 暫くして体をなぞることをやめたワタリは、ゆっくりとバートンの体に倒れ込み、鼓動を感じるように顔を胸元へ押し当てる。彼の突拍子もない行動にバートンは「おい」と言ったが、ワタリは聞く耳を持たなかった。ただ心臓の音を、熱を確かめるように顔を寄せているので、堪らずバートンでさえもいたたまれない気持ちになる。

 変に緊張はしていないか。この程度で鼓動が速くなるなど、馬鹿にされかねない。

 ――しかし、彼の考えに反してワタリはほんの数分体を堪能していると、徐に顔を上げた。そうして呼吸で上下に動くバートンの体をじっと見つめ、ゆっくりと再び顔を近付ける。形のいい唇が胸元へ落とされたのだと知ると、バートンの食指が動く。
 意図的ではなく反射的なそれに、露骨に反応を示してしまったと反省していると、ワタリと目があった。
 冷たい、冷たい瞳の色をしていた。時折灰にも見える薄紫の瞳は、無感情のままバートンを見つめているが、奥に潜む寂しさの色は決して拭えない。成長が止まってしまった子供のような瞳に、彼はどうも弱かった。

 ――期待に応えるべきか。

 バートンの胸元に口付けを落として以来、ワタリは少しも動くことはない。ただじっと彼の顔を見つめ、バートンの様子をじっと窺っている。まるで「待て」を食らった飼い犬のように彼の行動を待っているかのよう。どれだけ手を出そうが言葉を吐こうが――この状態でのワタリは少しの抵抗も見せない筈だ。

 そんな状況のワタリを、彼は少しだって抱く気も起きなかった。

 徐に体を起こし、バートンは数十センチ低いその体を抱き寄せる。すっかり冷えきってしまった体は、バートンの体温を少しずつ奪っては温もりを抱え始める。未だに湿っている髪は拭きが甘かったのか、水が滴りはしないものの毛先ですらほんのり濡れている。このまま放っておけば風邪を引きかねない。
 あとでタオルでも持ってきてやるか、と小さく溜め息を吐きながら軽く頭を撫でてやると、腕の中にいるワタリが小さく動いた。

「……バートン」

 痺れを切らしたかのような声は、まるで蚊の鳴く声のよう。抵抗こそはしてこないが、どうして手を出してくれないんだ、と言いたげなそれに、バートンは「うるせえ」と言葉を洩らす。そのまま濡れた髪を乾かすように軽く頭を撫で続け、ついでに背中をあやすように叩いた。
 心持ちは赤子を寝かし付けるものと同じ。しかし、その程度では決して眠りに落ちないのが大人というもの。あやされ続けているワタリはバートンの意図が理解できず、再び「バートン」と呟いた。

 名前を呼び合うこと。日中はどちらも「先生」や「軍団長」で済ましてしまうことが多い彼らにとって、名前の呼び合いは特別な意味が込められている。主に二人きりのときにだけ紡がれるそれは、大抵情事に及ぶことを許可している表れでもあるが、単純に親しみを込めた言葉のひとつだ。
 暗に体を許しているという裏付けのそれを、人前では決して呟くことはない。「仕事仲間」はあくまで仕事以上の関係にはならないからだ。

 その言葉をバートンは敢えて聞かなかった振りをして、何度も何度も背中を叩きつつ頭を撫でる。ろくな甘え方を知らず、無作法に体を委ね、頭の中を掻き乱して欲しい――なんていう考えを捨ててやれるように、手を出すことはなかった。
 ――狼達と同じ。沢山のことをこなした立派なやつには、それ相応の褒美を与えてやらなければ次へと進めない。上手くいかなければできるようになるまでとことん訓練に明け暮れ、上手くできれば全身で褒めてやれば自ずと成長に繋がる。
 それと同じなのだ。疲労によって草臥れた体も、研究を詰め込んだ頭も、飴玉を口の中で溶かすように目一杯甘やかしてやって、褒めてやらなければならない。どうにも自分に厳しいワタリに足りないのは、自分自身に対する労りだ。

「下手くそな誘い方をするくらいなら大人しく寝とけ」

 無愛想に呟いてやって、バートンは飽きもせずワタリの背中をぽんぽんと叩く。普段なら自分らしくないだとか、柄じゃないだとか言われそうなものではあるが、月が昇る夜で部屋にいるのはワタリとバートンだけ。誰も彼を可笑しいだなんて言う光霊はいなかった。

「…………ああ……その…………悪い」
「頭くらいしっかり拭いてこい。医者のくせに風邪引いても知らねぇぞ」

  抵抗はないが名前を呼んでいたワタリは、バートンの言葉を聞くや否や少しずつ体を小さくしていく。初めこそは言葉に詰まっていると思っていたのだが――、弱々しくなっていく言葉の端々に、ワタリが眠気に襲われているのだと気が付いた。
 漸く温まり始めた彼の体に、バートンは熱を逃さないように外套をかぶせてやる。白い服の下に褐色の肌が、夜に溶け込む服が覆い隠されてうつらうつらと船を漕いでいた。

 ゆっくり、数秒の間を開けて、ワタリの落ち着いた呼吸に合わせるよう、背を叩く間隔を開けていく。そうするといつの間にか、バートンの腕から聞こえてくるのはひとつの寝息で、小さく丸まったワタリが眠りに落ちていた。

 明日の朝にでもなれば元に戻るのだろう。それこそ何事もなかったかのように。

 眠り始めたワタリを起こさないよう、彼はワタリを寝具の上に寝かせ、欠伸をひとつ。布団を手繰り寄せ、彼の隣へと寝転がって明日に備えるのだった。