眠る男に影ひとつ

 夜も更けた暗い巨像。辺りを飛び交う蛍灯が本物の蛍のようにちらほらと瞬いて、仄暗い部屋の中が僅かに明るくなる。
 足元を月明かりと、蛍灯が仄かに照らしあって、居心地のいい夜の空間を生み出していた。
 白い軍服に青色が混ざって、まるで海のように深い場所でそれを見上げているような感覚。波風立たないほどの静けさの中で、獣のように鋭い空色の瞳がワタリを見つめる。
 蛇に睨まれた蛙――とまではいかないが、確かに身動きはできなかった。その理由が、「一心に自分のことを見つめているからだ」ということに気が付くときに、黒い軍用手袋をした彼の手が、ワタリの頬に滑り込む。
 まるで品定めをするようにゆっくりと、確かめるように優しく。普段から見掛ける血の気の多さなど失ってしまったかのように、恐ろしいほど冷静に見えた。
 ワタリが茫然としていると、彼がゆっくりと唇を開く。開いたそれから、鋭い歯がキラリと輝く。綺麗だとか、痛そうだとか、そんなものを考えるよりも早く、彼が熱を隠した言葉を小さく溢した。

 ――好きだ、と。

 ――ふ、と目を覚まして突如視界を覆うように照らしてきた日光に、ワタリは咄嗟に顔を覆った。眩しい、と呟く前に体を起こし、ほんの少し歪んだ感覚のする視界に溜め息を洩らす。ここはどこだと小さな独り言を洩らしてから手を下ろすと、見慣れたような広い空間が視界に映った。
 ソファーと、机と、椅子と――そこまで見やって、自分自身が休憩室にいたことを思い出す。

 ほんの数時間前、彼は覚束ない足取りでふらりと巨像の中を歩いていた。
 遠征の合間にこっそりと暗殺の業務を嗜んで、引退したとしても決して忘れることのない医者の責務を全うする。周りはワタリが無理をしていると思って休息を勧めたが――彼は首を横に振って「無理なんてしてない」と口を添えた。
 ――とはいえ、普段よりも多くの業務をこなして体に鞭打っているのは、強ち間違いではない。
 ただ、忘れたかったのだ。頭の中で反芻する言葉の数々を。妙に熱のこもる瞳でこちらを見てくる澄んだ瞳を。
 冗談で物を言うような眼差しではなかった分、それがワタリの体を支配するように募る。その所為で日常に支障が出るなどごめんだ、と懸命に忘れようとした結果が、激務に身を投じることだった。
 その結果が――疲労と寝不足による足元のふらつきと、思考の低下を呼び寄せてしまったのだ。
 周りから口を挟まれるほどに悪くなった顔色を隠すよう、何度も冷水で誤魔化した。氷のように刺す冷たさが一周回って心地いいと思うほどには、気が滅入っていたように思える。
 この足取りでは自分の部屋に辿り着く前に、糸が切れてしまったマリオネットのように倒れてしまうような気がした。

 ――そうしてやむを得ず休憩室で仮眠を摂ることにしたのだ。

 彼は徐に体を起こした後、小さな溜め息を吐いてから何の気なしに辺りの様子を観察していた。周りには沢山の光霊の姿が見受けられるが、何故かワタリの周辺には誰も近寄るような気配はない。寧ろ様子を窺うようにちらほらと視線を投げ掛けてくる者がいて、ワタリとの視線が交わった瞬間にパッと表情を明るくした。
 ――何故か嬉しそうにはしゃぐ小さな光霊達に、ワタリは首を傾げる。
 きっと、何の意味もない。そう決め付けてちらりと巨像の窓に目を向けると、程好く体を照らしてくれる日光が彼の瞳を焼いた。
 チリ、と刺すような痛みが目の奥に伝わる。堪らず目を瞑ったワタリは顔を下ろして、温かなそれに晒されていることに居心地の良さを覚えてしまった。数十分の仮眠を取るつもりが、一時間ほど眠りこけてしまっていたのはこの所為だろう。
 煌々と差し込む日差しにワタリは小さな吐息を吐いた。
 ここまで疲労を溜め込んでしまった原因は明白だが、自分自身にはどうすることもできないことに対するもどかしさが胸に募る。一言断ってしまえば話が済むのだろうが、とうの本人がはっきりとワタリを落とすことにした、と明言したのだ。それ相応の対処を、彼はしなければならない。

 ――と、顔を顰めたところで彼は漸く気が付いた。気が付いてしまった。
 体を照らす日差しの他に体を温める白いそれが、ワタリの足元に広がっていることに。

「こ……れは……」

 黒のファーをあしらった白いコートのようなもの。袖口は青く、裾や袖口にも黒のファーがよく目立つ。モノクロの中にある落ち着いた青いそれは、まさに彼のようで、ワタリは堪らず息を呑んだ。
 嫌い――ではない。軍用というだけあって触り心地がよければ、随分と造りのいいものだ。生地の細部にまで惜しまず金を費やしたようなそれは、暖を取るには最適なほど。ほんのり厚手のコートは、万が一外で寒さを覚えたときに着れば、寒さを凌げるのは間違いないだろう。

 以前、ワタリは空の末裔――もとい、ナビゲーターが興味深そうに彼のそれに触れて目を輝かせていたのを見つめていた。そんなに触り心地のいいものなのか――と試しに黒いファーに触れれば、思わず顔を埋めたくなるような柔らかな感覚が手を包み込む。
 毛並みのいい狼にでも触れているような柔らかな手触りだ。ナビゲーターがすっかり気に入ってしまうのも頷けてしまう――。

 そんな軍服の一部がワタリの体に掛けられていたのだ。まるで各自に与えられた部屋にある布団のように体を覆い尽くしていたと言わんばかりに、裏返った服が不格好ながらも優しさを醸し出している。好戦的な性格だろうが何だろうが、決して服を着崩すことのないバートンの服が自分の体に預けられているという感覚が、ワタリには信じられなかった。
 普通ならそう易々と他人に預けないだろうに。――なんて思いながらも足元からずれ落ちそうになるそれを掬い上げ、何の気なしに畳んでやる。日の下にあった所為か、太陽の香りが鼻を擽るのが分かった。
 ――そうして、軍人だというのにも拘わらず、不思議と血生臭さも戦特有の煙のような匂いもしないことに頭を傾げる。身嗜みに気を使う人間だったのかどうかを考えて――ふと、小さな足音が近付いて来ることに気が付いた。

「おはよう、ワタリ」

 「先生」と付け足そうとした言葉をグッと飲み込んで、彼の名前を呼び近付いてきたのは巨像の持ち主であるナビゲーターだ。すっかり日が傾いた西日を受けながら蛍灯に命令を下し、何かを伝えている。
 それじゃあよろしくね、と言った頃には蛍灯は空の末裔から離れ、彼もまたワタリへと近付いていた。

「酷く疲れているようだって聞いたから。気分はどう?」

 様子を窺うように近づいてきたナビゲーターに、ワタリは小さく頷く。ほんのり黄金色に輝く毛髪が眩しくて、僅かに視線を横に逸らした。ナビゲーターはその仕草に気が付くことはなく、「それはよかった」と微笑み、近くのソファーに腰掛ける。
 ほんのりと軋む音。巨像自体にあちこち小さな傷や汚れが残っていることから、年季が窺える。取り付けられている家具もそれなりに古びたもののようで、小さな軋む音が時折耳に届いた。
 ――しかし、壊れるような兆しは少しも見せない。未だに使い勝手のいい心地好さは健在だ。
 そのソファーに座ってから、彼はワタリが膝元に置いている白い服を見て、ほんの少しだけ気まずそうに頬を掻く。

「やっぱり、あれかな……この間の事が原因で眠れなかったり?」

 訊くべきか、訊かないべきか。
 そう考えながらもおずおずといった様子でこちらを窺うものだから、ワタリは膝元のそれに視線を落として小さく考えをまとめた。

「――……まあ、強ち間違いじゃないが……」

 彼はこちらの事情を知っている。――その点を踏まえてワタリは空の末裔に本心を溢し、再び視線を向けた。特に苛立ちや、不満があるわけでもない。薄灰だか淡い紫だか、冬を連想させてくる冷たい色の瞳がじっとナビゲーターを見る。
 その瞳とは裏腹に口許は僅かに弧を描いていて――ナビゲーターは苦笑いを浮かべた。
 感知能力でも使ったのだろうか。「随分と無茶をしていたんだね」なんて口を溢す様子を見て、ワタリは溜め息を吐く。彼が心配をする気持ちが分からないわけでもないだろうが、ワタリもワタリで体に鞭を打っていなければまともな考えすらもできなかったのだ。

 夢にまで見てしまうほど、バートンの真剣な声色の「好きだ」が頭にこびりついて離れてはくれない。頭の中で未だに響き続ける甘い言葉が、どうにもワタリの思考を掻き乱す。
 ぐるぐる、ぐるぐると。まるで狙われた獲物のような気分だった。

「あっ、ほ、本当はね、頼み事があったんだけど」

 ――不意に彼の思考を遮るよう、空の末裔が咄嗟に唇を開いた。恐らくワタリの思考が乱れてしまったのが伝わったのだろう。
 咄嗟に切り出されたそれに、ワタリは「そうなのか?」と瞬きをする。

「だったら起こしてくれればよかったのに。別に俺は、起こされて不機嫌になる、なんてことはないぜ?」
「それも、そうなんだけど……」

 苦笑交じりに返してみれば、ナビゲーターは視線を逸らしながら気まずそうな唇を閉ざしてしまった。どうにも歯切れの悪い言葉が、ちらちらとこちらを窺う視線が、ワタリの蟠りを刺激する。
 一体何を隠しているのだろうか――堪らず彼が「何かあったのか?」と問い掛ければ、ナビゲーターは一通り悩んだあと、白いそれをそっと指差した。

「実は、さ……絶対に起こすなって釘を刺されたんだ」
「…………へえ」