ずっと好きだった

 丹楓が自分を商品として体を明け渡して店に来てから、もう何年かの月日が流れた。その頃になると客はおろか、従業員までも歳を重ねていて、時折草臥れた様子が窺えるようになった。店に来る客も、従業員も、揃って丹楓を見かねて「魔性だ」と言っていた。
 丹楓はそれに小首を傾げ、オーナーである彼にどういうことかと問いかける。彼は苦笑を洩らしながら、「そのまんまの意味よ」と言った。

「飲月ちゃん、アナタ……本当に歳を取ってるの? 小ジワもなければムダ毛もないじゃない……」

 何か秘訣はあるの、それとも遺伝かしら。――――そう言って彼は興味深そうに丹楓の頬に手を伸ばして、そうっと触れる。丹楓の目元には一切のシワもなかったが、男だというのに髭すらもなかった。特別手入れをしているわけではない丹楓は、その手を払いながら「別に」と彼に言う。
 恐らく丹楓の容姿は遺伝によるものだ。記憶の中にしかいない雨別と同じ年代になったはずだが、彼もシワやら何やらは存在しなかった。女顔負けの綺麗な容姿を保ち、誰も彼もを近付かせない冷酷は雰囲気をまとっていた。――――きっと彼は今も綺麗なまま、毅然と振る舞っているのだろう。

 はあ、羨ましい、と呟いて、彼はカウンターのテーブルを丁寧に拭いていた。丹楓もそれを倣うよう、カウンター席に着きながらグラスを丁寧に磨く。息を吹きかけてから乾いた布で拭いていると、キュキュッと音を立て始めるのが心地よかった。

 丹楓の唯一の休日はどんな状況であれ、丹楓に指名が入ることはない。それは、自己犠牲が強すぎる丹楓の為に彼ができる最高の待遇だった。こういった店を営んでいる以上、何をしても結局身のためにはならないのだが。――――しかし、こういった気遣いが、彼が従業員に慕われる理由なのだろう。
 優遇もしてくれて、わがままを聞いてくれて。

 以前一度だけ何故こんなにも良くしてくれるのかと丹楓は訊いたことがある。丹楓のみならず、従業員は必ず彼の何らかの待遇を得ていて、それを甘んじて享受している。適度な休息も、それとない褒美も確かにあって。何があっても無理に働かせられるような最悪なイメージは、今はどこにも抱けなかった。
 その問いに彼は「うーん」と唸って、丹楓に告げる。

「だって、アナタたち、自分の意思でここに来たわけじゃないでしょ」

 ここにいる誰もが何らかの理由で親元を離れざるを得なかった。その大半の理由が「親が子を売ったから」であり、他でもない丹楓もそのうちの一人である。望んで来たわけでもない彼らに嫌な思いはさせ続けられない、と彼なりの方法を考えた結果がこれだった。
 その答えに丹楓も納得せざるを得なかった。流れで彼の身の上話になり、彼もまた親に売られた人間であることを知った。その頃の境遇はあまりにも悪く、陰鬱とした雰囲気が最悪の職場だった。金払いはいいけれど、所詮はそれまで。稼ぐべきものを稼いだあとは、道端に猫を捨てるのと同然に捨てられるものが多かったのだという。
 その店を半ば無理やり奪い取り、今の環境に立て直したのが彼だった。彼は多くを語らない人間で、初めて彼の境遇を知った丹楓は、ウインクをされながら「これはヒミツよ」と念を押される。

「では、誰もが余を魔性だと揶揄うが、数年前から何ら変わらない容姿の其方は」
「ああん! これも企業ヒ・ミ・ツ!」

 腰をくねらせ、照れるように頬に手を当てる姿を見かねて、さすがの丹楓も少しばかり嫌気が差したのだろう。「気色悪い」と言って悪態を吐けば、彼は「酷いわ」と言った。そう軽口を吐けるくらいにはいくらか気を許していて、丹楓はふん、と鼻で笑う。そのまま磨いていたグラスをカウンターに置いて、つい、と指先で口をなぞる。コン、と固い音と共に彼を見やって「何か用があるのだろう」と丹楓は呟いた。
 丹楓の唯一の休日。普段なら決して丹楓に関与することのないオーナーは、直々に丹楓を呼びつけ、店の後片付けを手伝うようにと言った。片付けは慣れたものだと、目のつく限り片っ端から掃除をしていって、張り切りすぎだと言われるまで止まることを知らなかった。
 そうもしていなければ、忘れようとしている努力が全て無駄になってしまうような気がしてならないのだ。彼らはきっと、自分のことを忘れてくれているはずなのに、自分だけが覚えているだなんて女々しくて嫌だった。

 あらかた――と言っても殆ど――片付けが終わった頃、彼は丹楓にグラスを磨くように頼み込む。カウンター席に座って、雑談でもしながらやりましょうと言って、丹楓はそれに大人しく従っていた。
 深夜の店に、他の従業員の姿はない。今この場にいるのは、彼と丹楓だけで。あからさまな誘導に、丹楓は失笑する。解雇話でもするのだろうか。それとも、苦言を呈されるのだろうか。

 ――――どちらにせよ、丹楓は彼の意向に沿うしかなかった。

 丹楓がカウンターで見透かすような瞳を向けると、彼はピタリと動きを止めて丹楓の顔を見た。自分が何らかの秘密を抱えていて、それを丹楓にのみ打ち明けようとしているのを、丹楓は既に知っている。じっと見上げた先にいる彼は、バツが悪そうに視線を逸らしたあと、観念したかのように溜め息を吐いた。

「数日前ね、若い男の人が来たの。アタシのお眼鏡に適うくらい、とってもイイ男よ。ちゃんと客として来ていたら、アタシがもらいたかったくらいの」

 ほんの少し脱線気味に、軽口を交えながら彼は言う。ほう、と吐息を吐き、悩める乙女のような仕草を取りながら話す彼に、「其方は客を取らない主義だろう」と言えば、そうだけれどと彼は言った。たとえ話よと言って、気を持ち直すようにコホンと咳をひとつ。訪ねてきた彼は「人を探している」と言ったようだ。

 ただ一言、初恋の人を探していると。

 それはその一言だけを残して、彼の時間を奪ったことに対して金を置き、足早にこの店を出て行った。その彼には時間が残されていないようで、オーナーが引き留めようにも手早く車で去ってしまったのだという。
 丹楓はそれを聞いて、自分に何の関係があるのかと彼に訊いた。トントンと指先でグラスを鳴らし、退屈そうに頬杖を突く。こんな下らない話をするくらいなら、本でも読んでいればよかったと、唇を尖らせていると、彼は笑みを洩らす。「アナタって体ばかりが大きくなった、子供みたいね」なんて言って、腹の中をまさぐられたかのような感覚に、ぞわりと身の毛がよだった。

 自分の体と心の成長が伴っていないことなど、丹楓は既に知っている。それを、表に出さないようにひた隠しにしていたが、暴かれた事に対して少しだけ居心地が悪くなる。知られたくない一面を知られてしまった気がして、思わず眉間にシワを寄せた。

 ――――すると、彼は「そう警戒しないでくれる?」と言って髪を掻き上げる。その仕草は乙女でも何でもない、ただ一人の男の仕草だ。

「退屈そうね。じゃあ話題を変えるわ」

 くしゃくしゃと頭を掻いて、彼は整えられた髪を崩した。初めて会ったときよりも襟足が伸びた髪を、髪ゴムで小さくまとめ上げる。地毛らしい金髪は照明の明かりを反射して、目が痛くなるほど眩しかった。

「借金、数年前に返済しきっているのよ。知ってた?」

 何でもないかのようにぽつりと放たれた言葉に、丹楓は瞬きをひとつ。具体的な金額を教えてもらったことはないが、少なくとも金額はなくなっているだろうと踏んでいた。
 丹楓を指名してくる客は皆羽振りがよかった。その分稼ぎは多く、初めての給料は彼が多少引き気味に「頑張りすぎよ」と言って丹楓に渡そうとしたことを覚えている。
 その殆どを、丹楓は彼に突き返して返済に充ててほしいと言った。今更稼いだところで使い道はないから必要がないと言い、全てを彼に委ねていた。
 そんな暮らしを送っていれば、借金など返済も簡単で。どの程度返していたのか予想はしていなかったが、驚くほどではなかった。「想像以上に早かったな」と何気なく溢してみれば、「働きすぎなのよ」と彼は言った。その話を続ける気は丹楓にはなく、また黙っていると、彼は再び話題を変える。

「ここ最近、ある大きな企業が潰されたって有名なのよ、興味はあるかしら」
「ないな」

 人差し指を突き立て、彼は丹楓の反応を窺うように話をした。それを、丹楓は一蹴してフイとそっぽを向く。聞きたくない――――そう言わんばかりの態度に彼は「アナタって本当に外のこと、知ろうとしないのね」と言った。
 知りたくない理由は簡単だ。――――戻りたいと思ってしまうからだ。漸くこの生活に慣れて立ち回りも分かってきた身であるのに、何もかもを置いてきてしまったあの場所に帰りたいと、願い叫びたくなるからだ。
 その気持ちを押し留めるために、丹楓は外の情報の一切を耳にしないようにした。客を相手するときも、その手の類いを口にしようものなら問答無用で封じた。そうでなければ体を預けているときに、応星がよかったと、心が叫び出すからだ。

 応星――――応星は元気だろうか。彼は無事に卒業できたのだろうか。職人にはなれているだろうか。素敵な伴侶を見つけて幸せに暮らしているだろうか。丹恒は病気もせず健やかに育っているだろうか。

 ほんの少しだけ、彼の口から外の話を聞いてしまって、――――これだ。思い出してしまったらキリがなく、水が湧くようにいくつもの懸念点が思い浮かぶ。弟は一族の手にかかっていないだろうか、と人知れず拳を握り締めていると、彼が小さく「怖い顔」と言ったのが聞こえた。
 美人の怖い顔って本当に怖いのね、と丹楓の顔を見ながら呟いていて。バサリと前掛けエプロンを外す。「ダメね、とっとと本題に入らないと怒らせちゃいそう」――――そう言ってカウンターから出て、丹楓に立ち上がるよう告げる。

 その手には車のキーが握られていて。

「帰りましょう」

 ――――と、放たれた言葉に丹楓は言葉を失った。