店に巨額の金が舞い込んだのは、ほんの数日前のことだった。ふらりと立ち寄ったであろうある男が、案内も受けずに真っ直ぐにカウンター席へと着いた。店の中では賑わいもあって、男の登場を気にする従業員は少なかった。カウンターで注文を受けることに徹しているオーナーは、それが真っ直ぐに自分を見ているのを察した。
一見バーにも見えるこの店に案内もなく入ってくる彼を、見たことがあるような気がして。本能的に裏へと招いてその場を従業員に任せる。男は何も語ることはなく、一度だけ頷いてから大人しくオーナーの後ろをついて行った。
裏で茶を出してから、「何かをされるかも、とは思わなかったの?」と問えば、彼は「この店は客に手をあげるほど、乱暴なやつがいるのか」と笑いながら言っていた。その口振りには絶対的な自信と、少しばかりの敵意が見え隠れしている。
そのとき、丹楓は丁度店にはおらず、そのようなことがあったのを車の中で初めて聞かされた。店に来たときと同じように後部座席に乗り込み、シートベルトを着用して景色を眺めながら彼の話を聞く。以前と異なるのは、丹楓には彼の話を聞く意思があるところだろう。その客は何をしたのかと問えば、「アナタを買ったのよ」と言った。
「アタシがアナタを買った同じ――――いえ、それ以上の額をポンと出してね」
末恐ろしい男だわ。彼はそう言って高速道路をひたすらに走っていた。見せられたという写真は、彼の手中に収めることはできず、その顔を見ることしか叶わなかったのだという。
それは、紛れもなく丹楓自身で。一体どんな手を使ってここまで来て、丹楓の居場所を突き止めたのか彼は問い質そうとした。何せ丹楓は極力外の世界に触れることを拒んだ。情報を得ることも、自分自身を外に曝け出すことも。決して誰かの目に留まらないように。
そんな丹楓を、どう見つけたのかと問えば、彼は笑って「秘密」と言った。明かしたくないわけではなく、明かせないのだという旨を添えて、小切手をそっと机に置く。稼ぎは悪くないから一括で払えることを彼は鼻に掛けることはなかった。
それが一体どこの誰であるか、彼には分からなかったものだから、丹楓も見当がつかなかった。もしかしたら丹楓を偶然街で見かけて、コツコツと貯めてきた金で買ったのかもしれない、と彼は言っていた。それにしては金額があまりにも大きいし、所在も分からない――――そのあともどうすればいいのかも聞かされなかった彼は、どうせなら丹楓と初めて会った場所へと送り届ける決意をした。
そうすれば丹楓は知人にも会えるし、彼女にも会える。借金は返し切れたと言えば、少しは丹楓のことを認めてくれるかもしれない。
――――しかし、本当にそれでもいいのだろうか。そう、不安がよぎる。
あの頃とは打って変わって空はどんよりと重く、今にも落ちてきそうなほど曇っている。到底星空を眺めることなどできなければ、月が浮かんでいるのかも分からない。秋だった頃は枯れ葉が待っていたが、今の季節は寒い冬。肌を刺すような寒さに、今夜は雪が降るような気がしてならない。
試しに丹楓は「それでいいのか」と彼に問いかけた。こんな簡単に店を辞めてしまっていいのかと、彼の気持ちが知りたくなった。
そんな丹楓の言葉に彼は「オーナーとして言うなら痛手ね」と隠すこともなく言う。
丹楓は店一番の人気者だったのだ。アナタがいなくなったら皆悲しむわね、と肩を竦めていた。――――けれど、個人的に言うならばこんなに嬉しいことはないと、彼は呟く。
何せ売られた人間に、帰る家など基本はないも同然だからだ。彼らは家族から捨てられ、生きる道を制限される。見知らぬ土地で住む場所など店以外にあるはずもなく、胸を痛めることが殆どの中で、丹楓は誰かに求められて自由を得た。
彼は丹楓に「借金を返したのは自分だから家を渡せって、あの女に言い張りなさいよ」と助言を残す。どうやら彼は容赦なく身内を売る親というものを良く思っておらず、見返せるのなら見返してやれ、という心意気を丹楓に教える。どうせだったら一発くらい殴ったって構わないわ、と言って躍起になる彼に、「殴ったら本末転倒だろう」と丹楓は冷静に言葉を返した。
――――けれど、丹楓の心は緊張と興奮に満たされていて。思わずきゅっと膝の上で手を握り締める。もしかしたら本当に会話ができるかもしれない。もう一度名前を呼んでくれるかもしれない。――――そんな期待が抑えられなかった。
その丹楓をルームミラー越しに見つめる彼は、長い運転に溜め息を吐きつつも、「しっかりとご飯は食べるのよ」と言ってくれた。店にいるときの丹楓は、ろくに飲食も摂らずに過ごすことが多かった。そのことだけが彼には気掛かりのようで、まるで保護者のようなことを言ってくる彼に、丹楓は睨みを利かせる。元々はしっかりと食事を摂る人間だと言えば、彼は面白そうにくつくつと笑っていた。
初めて会ったときは人形のようだった丹楓が、しっかりと口答えをするのが彼は嬉しいのだという。子供のようにふて腐れたり、気まずくなれば仏頂面でその場を濁す丹楓が、可愛らしくて仕方がないのだと。きっと弟がいたらこんな感じだったでしょうね、と惜しげもなく語る彼に、丹楓は窓の外を見ながら「くだらない」とだけ言い放った。
少しの照れ隠しと、居心地の悪さ。丹楓が丹恒に向けていた感情はこのようなものなのかと、遂にその身に実感する。もしも、万が一顔を合わせてくれることがあれば大人しく見守るだけにしよう。
――――そう決意していたとき。ピリリと電子音が車内に響き渡った。彼の携帯が鳴ったのだ。
「こんな時間に……ちょっとごめんなさいね」
彼はそう言って耳元で何かに触れる。すると、着信音が鳴り止んで、彼は少しだけ咳払いをしてから「もしもし」と言った。運転中に行うハンズフリー通話に邪魔をしてはならないと、丹楓は唇を閉ざしたまま景色を眺める。
「ああ…………それは確かに俺の名前ですね……はい……」
彼は従業員やその関係者以外と話すときは、見た目に合った口調と声色にすることを徹していた。一人称も一般的なそれに変えて、店のオーナーであることを隠すかのような口調は、店では一番のレアものだと話題になっている。それを間近で聞いている丹楓は確かに貴重だと思い、徐にルームミラーに目を向けた。
こうしてまともな口調をしていれば、彼はきっと色々な女性を魅了してきたことだろう。――――そう思わざるを得ないほど、整った顔立ちをしている。美容にも詳しければ、料理の腕も悪くはないのだ。
唯一の懸念点は、彼自身にその気がないことだろうか――――。
「……………………えっ……」
――――なんて考えていると、突然彼が驚愕の声を上げた。
「そんな、それは……本当に…………ええ、彼女の身内は知っています。自分はただ、彼女の知り合いで」
はい、はいと相槌を打つ彼を見かねて、丹楓はすい、と視線を景色へと戻す。これ以上盗み聞きをするのは良くないような気がして、何気なく景色を眺めた。高速道路にいたはずの車は少しずつ減速して、ゲートへと差し掛かる。その減速で、丹楓は空から雪が降っていることに初めて気が付いた。
外はきっと寒いのだろう。無意識のうちにそっと左腕をさすっていると、車は路肩に駐車するべくカチカチとハザードランプを点灯させる。カチ、とスイッチを押してから、車道の左側に車を停めた彼は「そうですか」とまだ通話を続けている。
この街の景色は少しばかり見覚えがあった。近くにはスーパーやコンビニが並んでいて、学校や商業施設が近くにある広場が存在しているのだ。もう数十分ほど車を走らせれば、大学が見えてくるはずで。――――けれど、数年も空けていたこの街は少しだけ姿を変えている気がした。
「わか……りました…………失礼します」
トン、と彼はナビの画面を叩く。すると、通話中だった画面は地図に切り替わって、彼の通話が終わったことを示していた。
彼は通話を終えるや否や、大きな溜め息を吐いてハンドルに腕を置き、顔を伏せる。精神を摩耗したのか、それとも身の振り方に気を遣いすぎたのか。彼は酷く疲れ切った様子で草臥れたように背中を丸めていた。
店の方に何かが起こったのだろうか。売られた身であるものの、比較的居心地はよかった場所に、微かに心配が湧いてくる。あそこは彼が賢明に立て直した、不遇な境遇に遭った者の居場所だ。仕事内容は些か認められたものではないが、彼らの居場所はあそこにしかないのだ。
万が一のことがあっては遅いと、丹楓は彼に声をかける。「無事か」と言って、何があったのかと訊いた。自分が聞いてもいい内容なのかは分からないが、声をかける方がいいと判断した上のことだ。
彼は丹楓の呼びかけに肩を震わせたあと、深呼吸をして、顔を上げた。
振り返って、彼が真面目な顔で後部座席にいる丹楓を見る。少しだけずらされたサングラス――――その下から、青い瞳が僅かに不安そうにこちらを見つめる。「落ち着いて聞いて」と彼は静かに呟いた。その声色は、先程の通話のときと全く同じものだった。
初めから落ち着いている丹楓は、彼の口調が戻っていないことに緊張感を覚えた。切り替える余裕もないほど、切羽詰まった状況であることが窺えて、じっと彼を見つめる。彼は震える唇を一度開いてから、閉じて――――また開いて、静かに丹楓へと事情を告げた。
雪がしんしんと降り始める、寒い日の出来事だった。彼女が恋人と不慮の事故に遭い、命を落としてしまったと連絡が入った。
――――飲酒運転の末の、事故だった。