ずっと好きだった

 丹楓は家から少しだけ離れた場所に下ろしてもらった。どうせなら送っていくと彼は言ったが、丹楓は首を横に振って「頭を整理したい」と断る。さすがの彼もそれには何も言えないようで、何故か自分が苦しい思いをするかのように泣き出しそうな顔をしていた。そのお陰もあってか、丹楓は狼狽えることもなく、「世話になった」と言える心情を保てていた。

 彼と別れる寸前、彼は懐からいくつかの封筒を取り出して丹楓の手に収める。それは、丹楓が今まで投げやりにしていた、丹楓の労力に対する報酬の一部だった。言われたとおり返済に充てていたし、口座にも振り込んでいたけれど、全てを彼女に明け渡すのは許せなかったのだと彼は言っていた。
 いつか丹楓に受け取ってもらえるように、と蓄えていたそれは、ひとつの封筒だけでは収まらなくて。どうせなら口座とか用意しておけばよかったわね、と彼は申し訳なさそうに俯く。彼が悪いわけではないのに、落ち込む姿が大型犬のようで。丹楓は徐に手を伸ばしたあと、ぽん、と頭を撫でた。
 さすがに二メートル近くもある彼の頭を撫でるのは一苦労で。一度だけ置いただけだったが、彼はそれに驚き、目を丸くする。

「アタシ……アナタと同年代だったら惚れてたかも……」
「そうか。生憎余は心に決めた者がいる」

 落ち込んだ表情から一変して、彼は青い瞳を瞬かせる。うるうると、まるで乙女のような顔付きになる彼の額を指で弾いて、間違いを起こさないようにしっかりと断った。その言葉が自分の胸に突き刺さるとは思いもしないまま、言い放ったあとに少しだけ胸が苦しくなる。心に決めた相手が今、誰かと共にいるのかどうか知りもしないけれど、望みのないそれを口にして気分が落ち込んだ。
 彼はそれに何かを言うことはなく、一度だけ丹楓に渡した封筒を手に取って、ペンでさらさらと何かを書き足し始める。「本当にどうしようもないときは連絡して」と言われながら返された封筒を見れば、彼の携帯番号が記されていた。アタシはこんなだけれど、一度面倒見たからには力を貸すから――――そう言って丹楓に拠り所を残してくれた。
 丹楓がそれに甘えるかも分からないというのに。

「…………感謝する」
「そこは『ありがとう』って言ったらいいのよ。最初から最後まで不器用なんだから」

 器用不器用ってアナタのためにあるようなものね。
 そんな言葉を少しだけ交えてから、ほんの少しだけ白んでいく水平線を見上げて、彼は車に乗り込んで行った。

 丹楓は彼の黒い車が見えなくなるまで見送ったあと、踵を返し一人でゆっくりと歩き始める。手に収まるのはずしりと重たい労働の対価。自分の口座は丹恒に押しつけたもの以外は持ち合わせておらず、一体どうしようかと思いながらアスファルトを踏み締める。久し振り吸った外の空気は雪の所為で肺が冷たくなるほど寒かった。
 彼女の葬儀は親族が執り行うことになったようだ。丹楓がするべきことは、彼女がいた家をどうするかということだけ。住むも良し、手放すのも良しと彼経由から言伝を得ている。何故彼が連絡をもらったのかというと、身元確認のために開いた彼女の財布から出てきたのが、彼の名刺だったからだ。
 親族が執り行うということは、一族の汚点を身内のみでひっそりと消し去ってしまおうとしているのだろう。そこに丹楓がいる必要性はなく、今回は家だけをどうにかしてほしいというのが彼らの願いであった。
 どうにかするにしてもそれなりの手間がかかるだろう。

 雪がしんしんと降る中、丹楓は腕をさすりながらたった一人で道路を歩いて行く。まだ夜中と言っても差し支えないほどには薄暗い外。早朝ということもあって辺りは静まり返っていて、鳥の鳴き声ひとつも聞こえない。周りの音は冬に呑み込まれていって、まるで世界にたった一人だけ取り残されているような気持ちになった。
 ――――いや、実際のところはもうひとりきりと言っても過言ではないのだろう。
 丹楓は唯一の弟をこの手で突き放し、酷い言葉を浴びせて別れてしまった。景元の力を借りて丹恒を送ったのは、彼の自宅だった。景元は早いうちから一人暮らしをしていて、部屋なら余っていると言っていたことに丹楓は甘えたのだ。
 友人の家なら危険が及ぶことはまずない。その過程で、進学した先で学生寮に住めるように手配してほしいという願いを、彼は快く受け入れてくれた。その全てを丹恒に明かさなかったのは、丹恒が絶対に反対すると言って聞かないと思ったからだ。そんなことを勝手に一人で決めるなと、声を張り上げると思ったから何も言えなかった。

 ――――結果として丹楓は、丹恒を守ることはできたとしても、大切にし続けてきた弟を失ってしまったのだけれど。

 彼は高校を卒業したあとは進学してくれただろうか。スマホを早いうちに解約してしまった丹楓は、その結果を知る術がなく、どの道に転んでいたとしても文句を言うことはできやしない。何らかの奇跡が起きて顔を合わせたとしても、話すらもさせてもらえないだろう。
 ならばせめて、一緒に過ごしていたあの家だけは、どうにかして手元に置いておきたかった。いくつもの手間と書類やら何やらが待っているだろうが、その手間を終えてから思い出に浸るのも悪くはないはずだ。小さい頃から過ごしてきたあの家は、やはり何があっても丹楓の帰る場所で。一族が好きにしてもいいと言うなら、相続しておきたかった。
 ――――しておきたかったのだけれど。

「――――…………あ…………」

 外を避けてきた足は、筋力が落ちていて、歩くのが一苦労だった。道中で思い出に浸りつつ寒さに震えていた丹楓は、もたついて転ばないように気をつけながら歩き、懸命に前へ前へと進むことを意識していた。そうでなければ疲れ果ててその場に崩れ落ちてしまいそうな気がしたからだ。
 家に着いたらまずはひと眠りしよう。それから役所に行って、手続きをして。やることのひとつひとつを頭の中で並べ立てながら、丹楓は家に着いた。
 ふうふうと肩で息をしながら見上げた先にあるそれを見て、――――丹楓は遂に言葉を失ってしまう。頭の中で必死に並べ立てたものは音もなく崩れていって、その先の考え事をすることもままならなかった。

 丹楓が見上げた先。あるはずの彼女の家は――――見るも無惨に燃えていて、残っているのは家だったものの残骸だけだった。

 それを見たとき、丹楓の足は頼りなくふらついて、体を支えるのが精一杯だった。それでも丹楓はその家に歩み寄り、道路と家の敷地を隔てる壁に手を突く。ざらりとした粉が僅かに手について、ゆっくりと手のひらを見れば黒い煤が付着している。もう何日も、何ヶ月も経っているようで、いくら近付いても焦げ臭い匂いはしなかった。
 家の前にはいたずらで入らないように立ち入り禁止の規制線が張られたままだった。

「…………は、……はあ……」

 敷地に入らずとも見える家の中は、殆どが黒く染まっていて、おおよそ人が住めるような状況ではない。その上、修繕ができるような状態にも見えず。解体をされるのをじっと待っているようにさえ見える。
 問題はその権限を持っている家主が他界してしまったことで、決定権を持っている人物がこの世にはもういないということだった。
 丹楓が縋り付くために残しておきたかった過ごした家は、既に見る影もない。黒ずんだ家を見て分かることは、丹楓が置いてきた思い出はもう、ひとつも残されていないということだった。

 ふうにぃ、と後をついて回る弟が愛らしかった姿も。一緒にやるには少し狭い、と苦言を呈されたキッチンも。慣れない手つきで懸命に施してくれた手当ても。小さい頃に雷が怖いと言って、一緒に眠った思い出も。

 ――――もう何もかもがなくなってしまっていて。丹楓は封筒を握ることもできずに、手中からそれが滑り落ちるのを止めることはできなかった。

「ハア、……はあ、っ、は、ぁ」

 バサバサと封筒が地面に叩きつけられ、音を立てると同時に丹楓は両腕を抱えて懸命にさする。体の芯から震えるほどの寒さが突如全身を襲い始め、寒さを逃そうと本能的に体を温めるために腕をさすった。人知れず溢れ出した涙の存在には気が付いたが、それを拭うための手は温めることに使わないと気が狂いそうだった。
 ぼろぼろと零れ落ちていく涙は鬱陶しかったが、得体の知れない寒さには耐えられない。丹楓は懸命に腕を上下にさすって、気を紛らせていく。その場から離れた方がいいはずだとは思っていても、足は地面に縫い付けられたかのように動かなかった。

 ――――本当は気付いていたのだ。この寒さの原因も。自分は決して親戚には認められることはないと、知っていたから丹恒に縋り付いていたのだ。何のために生きているのかも分からない丹楓が、唯一この子のために生きようと、生きる理由をずっと見いだしていた。
 そうすることでしか自分の存在を認められなかった。――――気が付いていたからだ。自分は愛されてなどいないと。名前を呼んでもらえたのも、都合よく利用するためで、認めてもらえたわけではないと。

 これからこの先、愛をもらえることなど、ない――――。

「――――ッ!? ハッ、はあっ……ハアッ、はっ、……ぁ、……!」

 その事実を漸く認めたとき、丹楓は自分が今まともな呼吸ができていないことに気が付いた。
 咄嗟に口元を覆おうとするものの、ろくに酸素が回っていない足はガクンと膝から折れてしまう。転倒を防ぐために手を地面に突いて、転ぶことはなかったけれど、呼吸は止まらなかった。体が異常を来し、必要以上に酸素を取り込もうと躍起になるのがよく分かる。その所為で丹楓は手足の痺れを覚え始め、頭は痛みを訴える。
 ズキズキと吐き気を伴う痛みに、何の対処もできずにひたすらに呼吸を繰り返す。吸って吐いてを繰り返し続けて、数秒でも止めようと奮闘するものの、迫り来る不安と恐怖に思うように事が運ばない。その異常性に体が温まってもいいはずなのに、丹楓の体は冷えていく一方で。

 ――――そのうち、どうして抵抗しようとしているのか、分からなくなった。

 このまま過呼吸を繰り返していたらどうなるだろう。――――些細な好奇心が微かに顔を覗かせてくるが、丹楓は視界がチカチカと点滅していく感覚に思考が乱される。何だか少しずつ眠くなってきているような気がした。頭がズキズキと痛むのにぼうっとして、前後に揺れているような気さえする。死ぬ――――までに至らないとは思うけれど、意識を手放してしまいそうな。

 ――――ああ、でも、もういいのか。失うとすれば後は命くらいだから。

 そう思っていると、自分が呼吸をしているのかどうかも分からなくなってきて。丹楓は身を委ねるようにフッと、体を支えていた両手に力を抜く。恐らく感覚が鈍ってきていた最中も絶えず呼吸は繰り返していたのだろう。上下する胸部を視界の端に留めながら、丹楓は体が傾き世界が揺れ動くのを、全身で味わっていた。
 もう眠ってしまいたくて、チカチカと輝き眩しい視界を閉ざし、朧になりつつある意識を手放そうとする。早朝ということもあり、周りに人がいないのは十分知っていた。その上で意識を手放してしまおうと試みていたのに――――ふと、何かが体を支えてくれる感覚を捉える。
 腕をぐっと抱え込んだのは、温かく大きな手のひら。それが、地面に叩きつけまいと懸命に体を支えて、衝撃を覚悟していた丹楓の意表を突く。そうしてそのまま、丹楓が呼吸を少しでも和らげるように手伝ってくれたようで、暗闇の中でふと、柔らかい何かが唇を覆い隠すのが分かった。
 どこか懐かしいような感覚――――たった少しだけ、胸の奥が温かくなったような気がする。
 ――――だが、丹楓は目を覚ますこともなく、そのまま暗闇に意識を放り投げたのだった。