――――ふ、と閉じていた瞼を開いて、懐かしい感覚に身を委ねながら丹楓は目を覚ます。長い間眠っていたかのように重い瞼をこじ開け、数回瞬きをした。ぱちぱちと瞬きをしたあとに見える景色に、靄がかかって白んだようにぼんやりとしている頭は少しずつ認識を始める。見慣れない照明と天井が、目を覚ましたばかりの丹楓をじっと見下ろしていた。
ここはどこだろうか。――――そう疑問に思いながら、丹楓はゆっくりと体を起こす。見知らぬベッドの上に寝かされていた丹楓は、しっかりと体を支えてくれるベッドに手を突いて、重い上半身を支えた。不思議なことに、上半身を起こすのに多少の苦労を覚えて、少しだけ腕が震える。
起こした勢いで掛けられていた布団は零れ落ちてしまったが、寒さはなかった。恐らく部屋全体に暖房の温風が行き渡っているからだろう。天井の隅で懸命に部屋を暖めている暖房器具が視界に入る。寒すぎず、けれども暑すぎない丁度いい温度に、無意識で安堵の息を吐いた。
近くを見渡せば、水が張られた桶が見える。その傍に数枚タオルが用意されていて、体温計などの機器も乱雑に置かれている。熱でも出していたのだろうかと思わず額に手を当ててみるが、それらしい体温は返ってこなかった。
試しに片手を握って開いてみるものの、異常らしい異常は見受けられない。意識を失う前のあの現象は、まるで夢だったのではないかと思えるほどだ。
――――だから丹楓は自己判断でベッドから足を下ろし、そっと床に下り立つ。ゆっくりと立ち上がると、少しの体の違和感が拭えなくて、堪らず顔を顰めた。
力の入りが悪かった。まるで寝たきりだったかのような体は、部屋の中を数歩歩いただけで、微かに悲鳴を上げ始める。歩けないほどではないけれど、呼吸は少しだけ荒くなって、疲労を訴えかけていた。
――――それでも丹楓は部屋を歩き、近くにあるものを物色し始める。本棚があり、クローゼットがあり、目覚まし時計が時刻を刻んでいる。アナログではなくデジタルのそれに少しだけ好奇心がそそられながらも、丹楓は辺りを見渡していた。
時刻は十九時頃。何気なく窓から外の景色を見たが、ぽつぽつと街頭やら家の明かりやらが灯る街並みは、丹楓の知るそれではない。自分の全く知らない場所にいることへの恐怖は少しも感じてはいないものの、家主に対する罪悪感は覚えてしまった。
見渡す限り丹楓が今いるこの部屋は、他でもない寝室だ。ドンと姿を構えているベッドを見る限り、家主は寝室を使えてはいないのだろう。
自分の存在が限りなく迷惑をかけている。――――その事実が少しだけ丹楓の息苦しさを助長させる。彼女のみならず他人に迷惑をかけるしかないのだと、指先が微かに震えた。
ベッドの一人で使うにはあまりにも大きすぎるサイズ感に、一人ではなく二人で使うものだという推測を立てる。白いシーツにふわりと軽い毛布。使っていた限りでは寒さを感じなかった分、それ相応の値段が費やされているはずのもの。よく謳われている「羽のように軽い」はこういったものを示唆しているに違いない、と丹楓はそっと布団に手を伸ばした。
生きていて初めて味わったようなそれに、少しだけ幼い心が震える。これを日常的に使える家主と、その同居人に少しばかりの羨望を抱いた。
家の造りは悪くはない。その上、少しだけ街並みから離れているのか、辺りからは家族特有の賑わいも少なければ、人の通る物音も少ない。代わりに聞こえてくるのは車が走る音と――――誰かが歩く音。廊下ではなく、絨毯の上を掠めるようなそれが寝室に近付いて、止まる。
そうして――――、ガチャリと扉のノブが下ろされた。
「あ、……」
特別悪いことはしていないはずなのに、ドアノブが下ろされた瞬間、丹楓は咄嗟にベッドから手を引く。パッと手を背中に隠しながらその扉へと体を向け直して、扉を開いてきたであろう家主へと顔を向かせる。その向こうから現れるのが家主ではなく、同居人だったらどうしようかと、妙な考えが頭を掠めた。
まずは礼を言って、詫びも入れて。ああ、それから――――。
そう懸命に頭の中を整理する丹楓だが、扉の向こうから姿を現したそれに、全ての思考を放棄して目を丸くしてしまう。扉の向こうから見えたその姿は、泣くほど焦がれたそれだった。
白い髪の水気をタオルで拭き取りながら彼は部屋へと足を踏み入れる。その調子でふと、伏せていた目を丹楓に向けて、驚きを表すように目を丸くする。藤紫色の瞳が大きく見開かれて、彼の後頭部に当てられていたタオルはパサリと音を立てて床に落ちていった。風呂上がりということもあってか、彼は何故か上半身が露出したままで。丹楓の心臓は驚いたようにドッと跳ね上がる。
数年前に恋を自覚して諦めたというのに、体は正直だった。思いもよらない再会に驚愕と不安の他に、強すぎる緊張が丹楓の胸の奥を頻りに叩く。目のやり場に困って視線が彷徨うものの、どうしてもその姿を目に焼き付けておきたいという本心が、ちらちらと彼の姿を何度も見てしまった。
学生の頃に着替えで見ていたあの頃よりも遥かにしっかりと筋肉がついている。胸板は厚くなって、腹回りのそれは綺麗に割れているときた。がっつりと鍛えられた腕は逞しく、あの腕に抱き留められる彼の伴侶が羨ましくなる。
――――それでも服を着ればある程度は隠れそうな体つきに、丹楓は頬が紅潮していくような気がした。
恋い焦がれ、諦めたはずの応星が、丹楓の目の前にいる。
それが信じられなくて、怖くて、思わず顔を逸らしてしまった。緊張は確かにある、会えて嬉しいと喜ぶ声も確かに聞こえる。
――――しかし、同時に「どうして約束を破ったんだ」と詰められてしまうのではないかと、怯える気持ちが混在していた。丹楓の身勝手な言動で彼を怒らせてしまっているのではないかと。
――――そう思っていて、気が付かなかった。その場に落ちたタオルも置き去りに、応星が自分に近寄っていることに。
気が付いたときには既に遅く、ハッと顔を上げたときには軽く手を伸ばせば届く距離に、応星はいた。
そして――――。
「――――丹楓……っ」
「…………!」
丹楓の体を強く抱き締めながら、その名前を紡ぐ。聞き心地のいい応星の声が耳元で聞こえてきて、体が芯から温まる感覚を得た。そうでなくとも両腕で抱き締められていて、寒くなることなどなかったのだが。
応星が丹楓に対して怒りを抱いていないことに、丹楓は安心感を抱く。たとえ恋が叶わなくとも、友情はしっかりと存在しているのだと実感した。
――――しかし、さすがの丹楓も素肌に頬をすり寄らせることなどできるはずもなく。「応星、」と声をかけながら、行き場のない手でどうにかして離れてほしいと示すことしかできずにいる。ぺちぺちと彼の背中を指先で軽く叩いてやって、離してほしいと。
そうでなければあまりの緊張で頭がどうにかなりそうだった。何せ丹楓は数年前に、応星に初めて会った頃から恋をしていたのだと自覚したばかりだ。その恋を知ったあとに年数が経っていようとも、丹楓は恋を知りたての子供のように動揺が隠せなくなる。
体ばかりが大人になって、心は置いていかれてしまったという感覚を、まざまざと見せつけられているようだった。
その感情を、彼には想い人がいるのだから、という理由だけで押し殺しているのに。
――――だが、対する応星は丹楓の要望を受け入れるつもりは一切ないようだ。
丹楓が離してくれと抗議した直後に、彼は抱き締める腕にぐっと力を込める。絶対に離してやらないと言いたげなそれに丹楓は遂に言葉を失ってしまった。羞恥が体を占めていく中、心が飛び跳ねるように躍るのが分かる。
初めて真っ向から抱き締められて、人はこんなにも温かいのかと、肩の力が抜けていくような気がした。
――――観念して抵抗をやめた丹楓に、応星は呟くように「腹は減ってないか?」と訊くのだった。