ずっと好きだった

 家の近くで意識を失った丹楓を介抱していたのは、他でもない応星だったらしい。彼は毎日毎日飽きもせずあの家の前を通りかかっては、丹楓が姿を現さないことに落胆する日々を送っていたようだ。

 ――――週が明けた平日、どこを探しても丹楓の姿がないことに異変を感じていた応星は、何度も自分のスマホを見ていた。メッセージアプリを開いて、何度見ても既読のつかないことに胸騒ぎを覚える。
 工房にこもっていた休日、先程まではやり取りをしていたのだから、既読がついていないとおかしいのは明白だったのだ。それでも送り続けなかったのは、単純に丹楓の体調が万全でないことの懸念と、用事が積み重なっているかもしれないという考えからだった。
 読み切れないメッセージを送り続けて、次に開いたとき丹楓を驚かせるのもどうかと思ってのことだ。折角の友人だ、引かれるくらいなら待っていた方がマシだと思っていたのだ。

 ――――その選択が間違いであったのだと気が付いたのは、大学に行っても丹楓の姿が見えないと分かってからだった。

 突然スマホが震えて通知を応星に知らせる。それに彼は丹楓からのメッセージかと思って、講義の最中にも拘わらずそっと画面を見た。体調が思わしくないという旨の連絡であればまた見舞いに行きたいと、そう言うつもりだった。
 ――――しかし、急いで見たスマホの画面に現れたのは丹楓の名前ではなかった。ただ、何の飾り気のない『兄の姿はありますか』という文章が表示されただけで、応星は訝しげにその通知を開く。相手はもちろん、諸事情により連絡先を交換した、丹恒だった。
 応星がそのメッセージを受け取ったのは、義務教育期間なら決して電子機器に触れられないような、平日の午前中だった。その時間帯に丹恒からメッセージが来ることに違和感を覚えつつ、応星は丹楓がいないことを素直に伝える。彼が送ってきたということは、丹楓の身に何かあったのかと、気味の悪い胸騒ぎを覚えていた。ただの杞憂であれと、どれほど思っていたことか。
 ――――けれど、応星の願いも虚しく、丹恒は『憶測ですが』と言葉を続けていった。

 多分きっと、兄はもう、この街にはいません――――と。

 コトン、と丹楓の目の前に置かれたのは、一人分にしては明らかに量が多い寄せ鍋だった。火を止めてダイニングのテーブルへと移したはずなのに、未だにぐつぐつと音を立てているように見えるそれを、丹楓はじっと見つめる。近くには取り分けられるように置かれた小皿と、箸と。白い米粒がひとつひとつ立っているようにさえ見える、光り輝く白米だ。
 それらを交互に見つめたあと、自分の向かい側に座る応星に視線を移す。彼は椅子を引いて座ったあと、丹楓の視線に気付くや否や「無理はしなくていいから」と言う。

 話を聞く限り、丹楓はあのあと三日ほど熱を出して寝込んでいたようで。その間の看病も応星が率先して行ってくれたのだという。病院に連れて行くことも考えたが、どうしてもその手を取りたくなかったと言って、静かに両手を合わせる。

 いただきます、と彼は言った。それに丹楓も倣い、両手を合わせて「いただきます」と呟く。応星は無理をしなくてもいいと言っていたが、目の前に出されたそれを見た途端、鳴りを潜めていた空腹が顔を覗かせたのだ。
 応星に取り分け皿を差し出すように言われた丹楓は、その皿を差し出して具が盛られるのを見つめる。ほうほうと湯気を沸き立たせる野菜たちを眺めると、腹の虫が頻りにくうくうと鳴いていた。応星に聞こえているかどうかは定かではないが、彼は嬉しそうに微笑みながら丹楓に皿を返す。
 差し出されたそれを受け取って、丹楓は箸を持った。柔らかく煮込まれた白菜と火の通った肉をまとめて摘まみ、ふうふうと息を吹きかけて熱を冷ます。口の中に入れても熱すぎない程度に冷ましたそれを、落とさないようにと口へ運んだ。
 出汁と野菜の甘みが染み込んだ優しい味わいに、じわりと目頭が熱くなるような気がする。その衝動を呑み込んで、咀嚼を繰り返し、「美味い」と呟いた。

 相変わらず応星の料理は美味しかった。数える程度しか彼の手料理を食べたことがない丹楓は、この味がやけに好きで黙々と箸を進める。向かいに座る応星は一度だけ息を大きく吸い込んだあと、「そりゃよかった」と言って、同じように箸を進めた。
 初めから見透かしたように用意された二人分の寄せ鍋を平らげたあとは、風呂に入るように勧められた。ずっと寝ていて汗ばんでるだろ、と応星に言われて何気なく肌に触れると、確かにべたついているような気がする。それに甘えて入ることに決めると、応星は替えの服一式を丹楓に持たせた。
 いつから買ってあったのかも分からないほど、新品同然のそれを着て、風呂から上がるとリビングのソファーで応星が寛いでいる。テレビを興味なさげに眺めているが、不意に風呂から上がってきた丹楓に顔を向けて、パッと笑った。

「丹楓、湯加減はどうだった? 疲れたろ、休んでていいぞ」
「ん……」

 応星はソファーから立ち上がり、丹楓の手を取って自分が座っていた場所へと丹楓を招く。彼の笑顔は相変わらず向日葵のように眩しくて、思い出の美化ではないことが分かる。
 丹楓は応星に招かれるままにソファーへと体を沈めた。ふわりと体を包み込んでくれる弾力は、そこらに売っている安いものとは訳が違う。L字に置かれたコーナーソファーは倒せばベッドにもなると応星は言った。よく見れば目の前に置かれているテーブルも、配置されているテレビも、知っているものとは遥かに違う。高級感がそれとなく醸し出されているそれに、丹楓は少しばかり緊張感を覚えた。

 応星はキッチンの方へと向かって行って、何かを作っている。レンジが音を立てると、応星がそこから何かを取り出している音が聞こえてきた。カタカタ、コトン、と日常にありふれている音がするのに、何故だか非日常感が拭えない。まるで突然外から拾われて家に招かれた野良猫のような心持ちで、丹楓はソファーに座り込んでいる。
 目を覚ましてからそれなりの時間が経ったものの、一人でいるにはあまりにも広すぎる家で見かけた人の姿は応星のみだけだった。それ以外に女の影や、同居人がいるような家具も、道具も見受けられない。丹楓に気を遣っているだけかもしれないが、今の丹楓にとってその気遣いが何よりも苦しかった。

 ――――このままではいけない。そう、丹楓は咄嗟に首を左右に振って、顔を上げる。

 とにかく夜が明けたらするべきことは住み処を見つけることと、焼けた家をどうにかするべきだと気を引き締めた。いくらかかかるだろうが、丹楓は金に対する執着はない。それなりの費用がかかることは既に織り込み済みだった。
 ――――そんな矢先、ふとテレビから聞こえてくる内容に丹楓は意識を向けさせられる。普段なら特別気にすることでもないニュースだとか、ドキュメンタリーの番組が放送されていた。その画面に、見覚えのある顔が写っているからだ。
 最年少にしてその称号を手にした若き天才、と大袈裟な見出しのあとに愛想のいい笑顔がパッと映る。その顔のまま、ここまで上り詰めてきた原動力は何かと訊かれて、考える素振りもなく『釣り合う人間になりたくて』と彼は言った。

「ん、丹楓。ホットココア。温まるぞ」
『――――好きな人が、ずっと応援してくれてたんで。応えなきゃって』

 ――――そう、聞き慣れた声色が前から後ろからも聞こえてきて。丹楓は近くから降り注いできた声にゆっくりと顔を向ける。テレビに映し出されている笑みと何ら大差のない顔が、丹楓を一心に見つめている。
 それに思わず「職人になれたのか」と問えば、応星はテレビを見かねて「あー……」と口を洩らした。

 ほんの少しだけ気恥ずかしげに応星の瞳が逸らされる。そのままずい、とマグカップを押しつけてくるものだから、丹楓はそれを受け取った。ふわりと漂う甘い香りに堪らずほっと一息吐く。折角用意してくれたのだから、と口をつけると同時に、応星は丹楓の隣へと腰を下ろした。
 そのまま流れるように応星は傍らに置かれたリモコンでテレビの電源を落としてしまう。プツン、と映像が消えた黒い画面に反射する二人の距離は、以前と変わらないまま近かった。
 こくりと喉を鳴らして飲み下したココアは甘く、舌の上でとろける。こんなにも良くしてもらう道理があったかと考えていると、不意に応星の手が丹楓の頭に――――髪に触れたのが分かった。

「…………応星……?」

 応星の指先は丹楓の黒髪を撫で、軽く梳いて、軽く摘まむ。何の意図もなさそうなそれに、ほんの少しのくすぐったさを覚えて微かに頭を揺らしてみた。
 ――――しかし、応星は手を止めることもなく、マグカップに口をつけたまま黙って丹楓の髪に触れている。その目付きはお世辞にも優しいとは言い難かったが、身震いするほど怖いものでもなかった。
 丹楓の呟きに、応星は応えることはない。ただ黙って丹楓の存在を確かめ続けるように触れてくるものだから、疑問ばかりが口を突いて出てくる。

「…………怒ってないのか」

 ――――そう呟けば、応星は漸く手を止めて「怒る?」と不思議そうに言った。

 怒られてもおかしくないはずだった。丹楓は友人に何も告げずふらりと姿を眩ませて、何年も音沙汰なしで生きていたのだ。実の弟まで突き放して選んだ道は、あまりにも孤独で感情のコントロールが上手くいかなかったのだけれど。それでも自分なりの方法で、自分勝手に全てを決めてきた。応星や丹恒を蔑ろにしたことは、消えることのない事実だが。
 それに対して丹楓は決して許してもらえるとは思っていなかった。仮に顔を合わせられたとしても、必要以上の関係は築けないものだと思っていた。ただ挨拶をして、それきり。丹楓は応星がどこかへと歩いて行くのを、見送って終わりにするつもりだった。

 ――――そのつもりだったのに。丹楓の問いかけに応星は小さく微笑んで、髪から頬に、手を移動させる。相変わらず少しだけかさついた手ではあるけれど、以前よりはどこか逞しくなっていて、温かかった。

「怒るって、お前がどこかに消えたことに対してか?」
「……それも、ある」

 すり、と頬を撫でてくる手に思わず身をよじる。いっそのこと思い切り怒りを露わにしてくれた方が清々しいと思えるほど、やけに不気味な優しさだ。彼は何もかもを許してくれているような気がして、思わず視線を彷徨わせる。――――すると、不意に離れた玄関の方からガチャリと扉が開く音がした。
 彼の同棲相手が帰ってきたのかと、思わず体が跳ねる。こんな光景を見られたら同性とはいえ変に勘違いされかねない。何とかして誤解を解かないと――――と思った矢先に応星が「俺が怒るのはもっと別のもん」と言った。

「それに――――怒るのは俺の役目じゃないしな?」
「? どういう――――」

 にこりと微笑みながら応星はマグカップをテーブルに置いて、意味がありそうな言葉を丹楓に言い放った。その真意を問おうとした瞬間、ダイニングと玄関の廊下を隔てる扉が開かれる。
 ふっと廊下の冷えた風が遠くからやってきて、ほんの少しの寒さを覚えた。誰かが入ってきたのだと気が付くと同時に振り返って、弁解をいくつも頭の中で並べ立てた。自分は彼の友人だと言おうとして、本当に友人というくくりにしてもいいのか迷って。

 謝罪の言葉が口から溢れ出しかけたとき。その姿を見て、丹楓は言葉を詰まらせてしまった。

 自分とよく似た目元の彼が、短い髪を記憶のままにして、丹楓の前に現れる。薄く灰色がかった翡翠にも似た瞳が大きく見開かれて、唇が怒りに震えるように戦慄く。最後に見た姿と何ら変わらないものの、いくらか大人びた容姿の丹恒に、呼吸さえもままならなくなった。
 彼は丹楓の姿を見るや否や血相を変えて、つかつかと足早に丹楓がいるリビングへと向かってくる。途中で肩に提げていたサコッシュをその場に置き去りにして、なりふり構わず一直線に丹楓の元へと歩いてきた。応星の家とあってか、走ることはなかった。

 その後ろで丹恒が置き去りにした荷物を、応星によく似た男が拾い上げる――――。

 その光景を見送った直後、丹恒が勢いよく丹楓の胸ぐらを掴みあげた。
 ぐっと引き伸ばされた衣服を視界の端に留めた丹楓は、応星の服であることを思い出してそっとその手を押さえる。ただ添えるだけにしたものの、それが気に障ったのか、丹恒は服を握る手に一層強く力を込めた。こんなにも感情を露わにする子ではなかったと冷静に眺める自分が、他人事のように言う。
 弟がこうなっている原因は自分にあるだろう、と。
 ――――それを裏付けるよう、丹恒は強く言い放った。

「今まで、どこに…………っ!」

 どこにいたんだ、と彼は続けようとした。――――しかし、それも虚しく、丹恒の言葉は途中で切れてしまって。代わりにひとつ、滴が丹楓の頬に落ちてくる。キッと睨んでくる目元に目一杯涙を溜めていて。抱えきれなくなった分が丹楓をめがけて落ちたのだ。
 たくさんの感情を抱えてきた瞳が、ぐっと細められるのを、丹楓は静かに見上げる。

 まるであとときの再演だと思った。あのときと違うのは、車の中ではないことと、丹恒が丹楓に対して怒りを湛えていることだろうか。応星が先程言った「怒る役目」というものは紛れもなく彼のことを差しているようで、少しも助けようとはしなかった。
 ――――もちろん丹楓も助けられようとは思わなかった。元より丹恒に会わない前提でいたところを、少しだけ覆されただけに過ぎない。このまま強く怒りをぶつけられて、縁を切られる覚悟さえできているほどだ。
 そう覚悟をしているものだから、動揺も覚えることはなく。寧ろ応星の優しさに狼狽えていた心は少しずつ冷静さを取り戻せた。丹恒の手は怒りに震えているのか、カタカタと小刻みに動いているのが伝わってくる。
 そのまま怒りをぶつけてほしくて、「続けろ」とだけ呟いて促せば――――丹恒はぐっと歯を食い縛ったあと、丹楓の胸元に額をぶつける。

「……丹恒……?」

 トン、とぶつかった衝撃が丹楓の体を伝う。そのままソファーの背もたれにずるずると体を落としていくものだから、丹楓はそうっと彼の背に手を添えた。
 視界の向こう、ダイニングの方で顔のよく似た二人がぽつぽつと話をしているのが見え隠れする。並んで見るとその顔立ちは、双子だと言われても差し支えないほどそっくりだった。
 知らない間に辺りを見る余裕が生まれていた丹楓に、ぽつりと丹恒が言葉を紡ぐ。

「…………俺、は……目障りか……」

 ――――と小さく、絞り出したであろう言葉に、丹楓は「あ、」と言葉にならなかった吐息を洩らした。

「俺は、ずっと、丹楓の足手まといだったのか……」

 そう、体を震わせながら徐に顔を上げた丹恒は、表情は怒りに染まっているものの、その瞳からは絶えず涙を溢し続けている。懸命に丹楓を睨んで、怒りを湛えてはいるが、どうしてもそれに恐怖は湧き上がらず。ただ、どうしようもないほどの愛しさが込み上げてくる。

 そんなことはない。丹恒のお陰で今の自分がある。足手まといなどと思ったことなど一度もない。

 ――――そう言いたくて。けれど、本当にそう言ってもいいのかも分からなくて。嘘だとしても一度はっきりと言ってしまった手前、軽率に丹恒の言葉を否定できなかった。たとえ今が無事だとしても、親族が彼に手を出さないと断言できる自信がなかったから。
自信がなくて、守れる力も十分ではなくて。何を言うべきかと考え込んでいたとき、向こうから応星が「丹楓」と声をかけてくる。
 ダイニングで何かをしているらしく、物音を立てているものの、彼の声は丹楓の耳にすんなりと届いてきた。
 その声が丹楓の背を押すように言葉を紡いでくる。

「少しは素直になったらどうだ? 今日は大切な日なんだろ」

 そんな日に傷付けてやるなよ、――――そう応星は笑いながら言っていて。袋から何かを取り出してから傍にいる男に皿を取るように指示を出していた。一体何をしているのかと疑問が湧いたが、それよりも先に彼の言葉が丹楓に突き刺さって抜けなくなる。

 ――――大切な日。それは、丹楓と丹恒が初めて会った日。誕生日が分からないと寂しがることのないように、と丹楓が提案した、丹恒の誕生日。寒い冬の日に初めて温もりを掻き抱いた大切な一日。
 丹恒はもう十分に大人になった。丹楓の力を借りずとも、自分の力だけで選択し、決められるようになった。これ以上の介入は野暮であり、迷惑の押しつけに成り得ない。
 彼ならきっと、親族の手を振り払えるだろう。――――そんな気がして、丹楓は徐に丹恒の頬を手で包み、額を合わせる。コツンと少しだけ硬い音が鳴った。丹恒はそれに驚くように目を細めるが、すぐに開いて近くなった丹楓の目をじっと見る。

「目障りだと、足手まといだと思ったことなど一度もない。丹恒……其方は余の宝物だ」

 心にもないことを言ってすまなかった。そう言って丹楓は彼の体を抱き寄せて、トントンと背中を叩く。誰に似たのか、丹恒は嗚咽こそは漏らさないものの、黙って涙を流すものだから、許してもらえたのかも分からなかった。
 ――――しかし、縋るように服を握り締めてきた手は、幼いものと何ら変わりのないもので。体ばかり大きくなったのは何も自分だけではないのだと思ってしまう。

 ――――そんな丹恒が意地を張るような口振りで、「次はないからな、」と小さく言い放った。

 丹楓はそれに頷いて分かっていると呟きを洩らす。数回背中を撫でて、弟を宥め続けていると、「兄弟喧嘩は終わったか?」とダイニングから応星が声を張った。

 終わったならこっちに来てくれと彼が言う。その呼びかけに丹楓は弟の背中を叩いて合図を送ると、丹恒はゆっくりと目を擦りながら上体を起こした。大人になったとは言え、それでもやはり幼さが残る顔立ちは、以前と大差ない。彼は今でも丹楓の自慢の、可愛らしい弟だった。
 丹楓は丹恒がダイニングへ向かうのを見送ろうとしたが、ふと服が引っ張られる感覚を味わって視線を手元に移す。丹楓の視線の先には丹恒の手があり、それがぐっと丹楓の袖を引っ張っていた。思わず彼に顔を向けると、丹恒がふて腐れた顔付きでじっと丹楓を見つめている。決して早く来いとは言わないものの、彼は丹楓が動くのを待っているような気がした。

 それに応えるべく、丹楓はソファーから立ち上がる。応星が作ってくれたココアを置き去りに、丹恒に連れられるまま歩いてリビングからダイニングへと移動すれば、テーブルには丸々と円を描いている随分と高そうなケーキと、四人分の取り分け皿が置かれている。何かの記念日かと思って見ていたが、丹恒の誕生日だと思えばなかなか悪くないケーキだと思った。
 ――――しかし、丹恒は丹楓とは違い、それほど甘いものが好きではない。丹楓と二人で暮らしていた頃も比較的ケーキを食べるようにはしていたが、彼は決まって小さいものを選ぶような人間だった。結局ケーキの大半は丹楓が食べていた記憶がだんだんと蘇ってきて、目の前にあるそれが少しずつ不憫に見えてくる。
 堪らず「丹恒はここまで大きいのは食べないが」と口を挟むと、応星が不思議そうに瞬きをして「何言ってるんだよ」と言う。

「お前も食うんだぞ? そのためのケーキだ」
「……まあ、否定はしないが……しかし、丹恒の誕生日だ。もう少しこの子好みのものを考えて――――…………何だ」

 腕を組み、溜め息がちに応星の言葉に苦言を呈していると、やはり尚更不思議そうに応星が首を傾げる。そしてそのまま「ははあ、やっぱり」と思い至ったように隣にいる顔のよく似た男に視線を投げた。男は応星の視線に気が付くと、自分には知ったことではないと言いたげに腕を組んで、目を閉じる。その言動に少しばかり不満を覚えて、唇を曲げていると――――丹恒が呆れたように溜め息を吐いた。
 思わず丹楓は丹恒へと視線を向けて、「どうした」と呟く。「こいつらは何故こんなにも呆れているんだ」と問いかければ、丹恒も同じように腕を組みながら「俺だって呆れている」と言う。

「今日は大切な日だろう。どうして覚えていないんだ」
「覚えていただろう。――――いや、忘れたことがない。今日は余と其方、二人で決めた丹恒の誕生日だ」

 ほら、覚えている。――――そう言うように胸を張っていると、丹恒は尚更呆れたように溜め息を吐いて、応星と男の元へと向かっていった。そうして漸く、あの男が丹恒に刃と呼ばれていた男であることを思い出す。顔のよく似た二人、応星の口から聞いたことのある「弟」の単語。――――もしや彼が応星の言う弟では、と推測を立てていると、「ほら、覚えていなかった。自分に無頓着すぎるんだ」と丹恒の不服そうな声が聞こえた。
 丹恒の不服そうな言葉に、刃が宥めるように頭に手を置く。――――おや、この二人やけに親密では、と思っていたのも束の間。知らない間に傍にいた応星が、「ちゃんと自分のことも考えような」と言った。

 だから一体何のことだ、と言おうとした矢先。応星がするりと丹楓の手を取る。そしてそのまま右手の甲に口付けを落として、微かに微笑んだ。

「――――誕生日おめでとう、丹楓」
「――――…………あ…………」

 ああ、そうだ。応星にそう告げられて、丹楓は何度目かの丹恒の誕生日を思い出した。