ずっと好きだった


 二人を玄関で見送って、丹楓は小さく手を振る。すると、丹恒も同じように小さく手を振ってから刃の車へと乗り込んでいった。後部座席ではなく、助手席に乗り込むその姿を見かねて、少しだけ何らかの感情が込み上げてくるのを感じてしまう。その感覚を頭の片隅に追いやっていると、応星が冷えるぞと言って丹楓の手を取った。
 夜の空からはしんしんと雪が落ちてくる。まだ冬の気配を漂わせてくるそれに、ほうと吐息を吐くと白い靄が現れて消えた。寒いとどうしても人肌が恋しくなってくる。それはきっと応星も全く同じで、「さすがにまだまだ寒いな」と笑いながら丹楓に手招きをしていた。
 丹楓はそれに従ってリビングに戻り、ソファーに腰を下ろすと、応星はきゅっと肩を抱いてくる。まるで寒さを紛らせようとするそれに、丹楓は考えが至らなかったとばかりに話を切り出す。

「余も早く新しい家を探さなければ」

 ――――そう告げると、応星は驚いたように目を丸くして、「は?」と言った。

「……何かおかしいことを余は言ったか?」
「いや…………まずは何でそんな突拍子もないことを言ったのか、訊いてもいいか?」

 応星は額に手を当てながら丹楓の考えを知るべく、一息吐きながら問いかけてきた。

 丹楓がその考えに至った理由は簡単だ。――――応星には想い人がいるからだ。

 学生の頃に盗み聞きしてしまったことをそれとなく謝りながら、丹楓は自分の考えを応星に語る。
 応星には好きな人がいる。――――けれど、丹楓のことを思ってか、一度もそういった話をしなければ、それらしい陰を見せたことも、話題に出したこともない。そのどれもこれもが、丹楓と唯一親しいのは応星であるからというものに関連付けられた。
 丹楓には唯一と呼べる親友は応星しかいないから。たとえ大学で会った友人がいようとも、気兼ねなく相談できる相手は応星しかいないから。体の事情を知るのも、外部の人間は彼しかいなかったから、丹楓は応星が気を遣っているのだと思っていた。

 その気遣いももうしなくていいと丹楓は胸に手を当てて応星に言い張る。これから住み処を探すまで応星の家に居候するわけにはいかないから、どこかのホテルでも借りようと思うと言えば、応星はますます顔を伏せて大きく溜め息を吐いた。一体何かと丹楓が訝しげな顔を浮かべていると、そうっと口を開いた。

「この家がやけに広いことは理解してるか?」
「当然だろう。この家は其方が一人で住むにはあまりにも広すぎる」

 キッチン、ダイニング、リビング――――どこを見ても広すぎるこの家は、どう見ても二人以上の暮らしを前提とした広さだ。夕食後に借りていた風呂場もやたらと広くて、大の大人二人が一緒に入っても窮屈にはならないであろう広さだった。両手いっぱい広げても余裕のある空間に、いつしか応星は丹楓の知らない人間とそれはそれは濃厚な一夜でも過ごすのだろうと思っていた。そんな場所に自分がいてもいいのかと、悩みながら風呂を借りたのは内緒である。
 最後まで言うことはなかった言葉を並べ立てると、尚更応星が大きく溜め息を吐いた。それでも決定的な言葉も何もないことにいじらしさを感じ、丹楓は小さく顔を顰める。

「…………お前の着替えがあることについては何も思わなかったのか」

 そう問いかけてくる応星に、丹楓は首を傾げた。応星と丹楓の身長には多少の差が生まれているが、それでも大きすぎるほどの差ではない。着替えのひとつやふたつくらいならあるものだろう、と言えば、応星はそれこそ納得がいかないように顔を顰める。

「…………ベッドが、二人分の大きさって知ってたか……?」
「それも応星がいつか結婚したときに使うものだろう? 今は一人寂しく使っているようだが」

 そう言えば看病してくれていたようだな、後片付けをしよう。
 そう言ってソファーから立ち上がった丹楓の手を、応星はぐっと掴み留める。無意識のうちに左腕をさすっていたらしい丹楓の左手を、応星の右手が掴んだあと、左手も掴みにかかる。そのまま左手で手を握りながらゆっくりと右手が腕を這った。丹楓の腕を確かめるようなその仕草に思わず「何だ」と丹楓が言うと、応星はじっとその手を見ながら「知ってるか?」と問う。

「丹楓、お前……何か不安なときにこうやって腕をさするんだ。寒さから逃げるようにさ」

 するり、応星の手が丹楓の腕を頻りに撫でる。ゆっくりと上から下に、下から上に撫でるそれがやたらと恥ずかしく思えて、堪らず腕を引こうと試みる。――――しかし、応星は予想よりも遥かに力強く丹楓の腕を掴んでいたようで、逃げることは叶わなかった。

「……知りたいか? 俺の好きな奴」

 丹楓が逃げようと試みるのを阻止しながら、応星は静かに丹楓を見上げる。彼の藤紫色の瞳は笑みを掻き消して、真剣な眼差しを向けてきているが――――、その中に何故か獣じみたようなものが見え隠れしている気がした。
 堪らずもう一度腕を引こうと試したが、結局それも叶わずに終わる。

「い、いい……教えてもらわなくとも、」

 そんなこと聞いてしまえばまた泣いてしまいそうだ、とは言わなかったが、丹楓は応星の言葉を振り払った。一体何が楽しくて想い人の意中の存在を知らなければならないのか、丹楓には理解できなかった。丹楓はただ、遠巻きから応星を見守って、応援さえできればよかった。

 一生の片想いを背負って生きていられれば十分だったのだ。

 ――――しかし、応星はそれを許さないようで。「ほら、教えてやるから顔貸せよ」と丹楓に告げる。内緒話みたいに教えてやるから、とぐっと手を引かれて体勢を崩した丹楓は、そのまま応星に覆い被さる形になってしまった。
 咄嗟に片手を伸ばして背もたれに手を突き、応星の体を避けるように膝を座席に突く。そうしてぶつからないようにと気を付けた結果、応星の顔は間近に近付いていた。

 真っ向から失恋を味わうのかと思ってぎゅっと両目を閉じると――――、不意に唇に柔らかいものが触れる。
 いつの日か味わった感覚。そして、家の前で意識を失うときに味わった感覚。
 それらと全く同じものが今、自分の唇にあてがわれていると知って、パッと目を開くと応星と目が合った。

 揶揄っているのだろうか。こちらは長年の恋の終わりを真っ直ぐに突きつけられそうになったことに対して、感情と情緒がおかしくなってしまいそうなのに、応星は何も告げずにそのままもう一度口付けを落とす。ちゅ、ちゅとくすぐったい音が立て続けに鳴って、あまりの羞恥心に咄嗟に自分の口元に右手を差し込む。体勢を崩して応星にぶつかるかと思いきや、彼の手がそっと体を支えていた。

「……これでも分からないか? 俺は、好きでもない奴にキスなんざしないんだが」

 そっと割れ物に触れるような手つきで応星は丹楓の唇をなぞった。柔い唇に応星指先があてがわれる。唇の端から真ん中へ。ふにふにと触感を楽しんでいる応星の表情は、獲物を目の前にした獣のようだった。真面目な顔付きから一変した笑みが、これ以上ないほどに楽しそうに見える。
 言葉よりも的確に行動で示してきた応星に、丹楓はまともな思考ができなくなっていた。ぐるぐると思考の渦が頭の中で回り続け、言葉という言葉が紡げなくなる。以前と全く同じ行為のはずなのに、自覚した後のそれは、どうしようもなく丹楓の心臓を締め付けてくる。同時にドクドクと、今までに感じたことのないような鼓動の速さに目が回って、短い間隔で瞬きを何度も繰り返した。

 彼の言葉の道理で言えば、応星は随分と前から丹楓を好いていたことになってしまう。そうでなければ熱を出した丹楓にキスをするなど、おかしな話だ。

 そのことを懸命に話し、丹楓は頭の中の整理を試みた。「その道理で言えば、其方は余を学生の頃から好いていたことになる」と。その声はみっともなく震えていて、聞いている自分自身ですら滑稽だと思えた。
 ――――しかし、応星はそれに笑うことはなく、「そうだよ」と肯定する。

「ずっと好きだった。一目惚れだったんだ」

 教室で見かけた横顔が。風に黒髪をなびかせる姿が。凜とした佇まいが。何もかもが同性と思えないほど綺麗で、目が惹かれてしまって。絶えず創作意欲が湧き続けていた。丹楓が偶然見かけた応星の姿は、丹楓によって創作意欲を掻き立てられ続けた応星の一面だったに過ぎない。
 作品を見られなくて安心したけど。――――そう笑う応星は、丹楓が消えたあとのことのぽつぽつと語った。
 
 何を置き去りにしても隣にいることを選び、大学なんてものに通っていたのに、丹楓がどこかへと消えてしまったことに対して酷い喪失感を抱いていた。何日も作品が作れなくて。――――その逆に、ある日は壊れたように何日も工房にこもっていた。できたものの何もかもが気に入らなくて、できた矢先に叩き壊しては喪失感に苛まれる。
 そんな生活を送っていたら当然中退という扱いになって、親を悲しませてしまった。手続きを終わらせるためと、大学へと顔を出したときに、丹楓が遠い病院に入院したらしいという話を聞いて、嘘だと真っ先に分かった。
 ただの風邪で、入院するなど有り得ないと分かりきっていたからだ。

 ――――分かりきっていたけれど、何もできなかった。丹恒も所在は聞かされていないと言っていて、怒りの矛先をどこにぶつけたらいいのかも分からなかった。

 ――――そんな応星が行動を起こせたのはそこから一年が経ったあとのこと。自分なりに丹楓への気持ちに蓋をして、工房にこもって腕を磨き続けてきたある日。弟である刃が鬱陶しそうな表情のまま、ある紙の束を応星に投げつける。すっかり窶れて無愛想になった応星は、弟の刃とよく似ていて。訝しげな顔のままそれを見つめた。

「お前が体を売ってるっていう情報と、ある企業のことが書かれた紙の束だった。どうやって手に入れたのかは秘密らしかったけど、お陰でやることが分かれば生きやすかったな」

 がむしゃらに作品を作り続けて、いつしかそれが評価されるに至って。金に困らなくなって、親孝行して。親は田舎に引っ越したが、俺はまだ都会の方が暮らしやすいし、人気が少ないところに工房を構えた。

 ――――応星は丹楓の腰に手を添えたまま、その手にぐっと力を込める。

 困惑と動揺、そして驚きに包まれている丹楓は、抵抗もなく応星の膝の上に跨がる他なかった。そのまま応星に跨がった丹楓の腰を、応星は引き寄せる。動揺で顔も合わせられない丹楓に、応星はゆっくりと顔を近づけた。
 お前を買ったのは俺だ、と応星は言った。売られたお前を取り戻すために、俺が出したのだとも言っていた。その言葉に恩を売ろうという意図は感じられなかったものの、言葉の端々に応星の執着が窺える。絶対に逃がさないという意思が、丹楓の手を握った。

「なあ、お前は俺じゃダメなのか? 結構、お前は俺のことが好きだと思ってたんだが……そうじゃなきゃ、熱を出したと言ってもあんな強請り方しないだろ」

 そう言って丹楓の額に自分の額を当てて、半ば無理やりにでも目線を合わせた。応星の確信を得ているような言動に、丹楓はぐるぐると思考を巡らせる。随分と前から自分が応星を好いていたのは理解したけれど、それらしい言動を取っていたことに自覚をしていなかった丹楓は、彼からの指摘に体中が熱くなっていくのを感じる。

 震えるほどの寒さは、応星と出会ってからは感じられなかった。あの寒さが、愛されないことを体温として感じているのなら、彼から感じられるこの温もりは、きっと。

 ――――次々と暴かれていく自分の心に耐えられず、丹楓は懸命に応星から逃げようと視線を彷徨わせる。ふらふらとソファーの向こうを見たり、リビングの向こうの扉に寝室があることを思い出したりして。応星の言葉の数々を思い出しては再び頭の中を整理する。

 応星は一目惚れだった。高校生のときに会ったあの頃には既に丹楓に惚れていたという。だから彼は女も作らず、告白を断り、丹楓の傍に居続けた。
 ――――彼はずっと、好きな人の隣に居続けたのだという。それも、比較的好意を表に出していたと、応星は考え込む丹楓に告げた。丹楓がそれに気付けていたかどうかは分からなかったものの、応星は応星なりに丹楓を愛し続けていた。

 この家がやけに広いのは応星が丹楓を取り戻すと決めて、稼ぎを得たときに決して親族に丹楓を明け渡さないようにと用意したものだという。親は都会よりも田舎がいいと言って、応星は一人暮らしを始めた。弟は元より家から出て行く算段を立てていて、これを機会に全員がそれぞれの暮らしに踏み出した。初めこそは慣れなかった暮らしも、数ヶ月も経てば自ずと慣れるもの。何故だか丹恒の誕生日に刃が彼を連れて応星宅へと顔を出すこと以外には、これといって変化はなかった。
 丹楓が何も困らないように家具家電も全て揃えた。綺麗な丹楓には綺麗な家にいてほしいと、隅から隅まで掃除をこなしていくことが、いつしか作品作りの気晴らしになっていた。二人で並んで寝られたら最高だという応星の願望から、寝室は一部屋しかなく、ベッドは二人分のそれだ。

 ――――どれもこれも丹楓と共にあるために用意されたものだと、知るや否やいやに照れ臭くなってしまう。行き場のない熱が顔中に集まっているような気がして、恐る恐る応星と目を合わせた。彼は飽きることなくじっと丹楓の返事を待っている。透き通る藤紫色の瞳の奥に決して逃がさないという強い意志を込めているくせに、応星は丹楓を待っていた。

 ――――答えなどとうの昔に決まっている。

 丹楓が覚悟を決めるようにごくりと喉を鳴らして生唾を飲み込むと、応星は「本当に器用な奴だな」と言った。どうやら丹楓はまた無表情のまま顔色を変えているようで、小さく笑みを溢しながら応星は丹楓の頬に触れる。柔い丹楓の頬を、しっかりとした彼の手のひらが当てられた。
 かわいい、と応星が言う。本当に可愛い奴、と今までに訊いたこともないような甘ったるい気持ちを込めて、丹楓に告げる。それを聞く度に体中にむず痒さを覚えてしまって、堪らず「やめろ」と言えば応星は「はいはい」と言ってやめた。
 代わりに一向に返事をくれない丹楓に、ひとつ提案をする。

「もう一回キスしてもいいか? 嫌だったら抵抗してくれ。それで全部決めるから」

 抵抗したら全部諦めるから。――――そう言って応星はじっと丹楓を見つめ続けた。

 頬を滑る手が、もう一本増える。丹楓が逃げないと踏んで、腰に当てられていた手が頬へと移されたのだ。嫌だったらこの手を止めてくれていい、と応星は丹楓に告げて、徐に顔を近づけ始める。

 宣言通りの口付けが落とされるのだと、丹楓はきゅっと自分の手を握り締める。自覚してからのそれはあまりにも恥ずかしくて、それ相応の覚悟を決めなければ応えられそうになかった。その分、応星がすんなりと行動に出せるのが不思議で仕方がなかった。覚悟を決めた、というよりは妙に振り切れた、という方が正しいのだろう。

 丹楓が抵抗もせずに目を閉じて触れるだけのそれを受け入れるのを、応星も分かりきっているようだ。

 頬に添えられた応星の手が軽く輪郭を撫でる。意味のないそれにくすぐったさを覚えたまま、柔らかい唇が離れるのを待って、ゆっくりと丹楓は目を開く。目の前にいる応星が嬉しそうにニッと笑ったのを見て、胸がきゅっと締め付けられたような気がした。

「はは……まあ、取り敢えず今日のところは寝るか」

 応星が喜びの声を上げると同時、両手がパッと丹楓から離れる。その言葉に壁掛け時計を見やれば、日付を越えてからもう三十分は過ぎていた。丹恒たちが帰ってから経った時間はあまりにも早く、少しだけ勿体ないと思う。
 ――――と、同時に応星にすっかり主導権を握られたような気がして、丹楓の負けん気がふつふつと湧いて出た。

 ――――どうして自分ばかりが振り回されなければならないのか、そう自己中心的な一面が顔を覗かせる。ずるい、と小さく呟きを洩らしたことが応星に気付かれたようで、彼は「ん?」と丹楓に聞き返した。

 終始機嫌が良さそうな応星に、丹楓は腕を組み、ふて腐れたように唇をへの字に曲げる。そのまま軽く眉間にシワを寄せてやって、倒れ込むように応星へと体を委ねた。トン、と頭を預けた場所にある応星の胸元は――――やけに柔らかい。そういえば質のいい胸筋は力を込めなければ柔らかいという話を聞いたことがある。応星もその類いかと思ってぼうっとしていると、応星が不意に慌てたように「丹楓」と名前を呼んだ。

 一体何かと視線を投げると――――耳元から聞こえてくるそれに、丹楓は意識を奪われる。ドッドッと早鐘を打つ鼓動が自分ではなく、応星の胸元から聞こえてくると気が付くと、応星は気恥ずかしそうにそっと視線を逸らしてしまった。
 ――――かわいいと思う。以前よりももっと確かに、そう思ってもいいのだと確信を得て。勝利を確信して余裕ぶっていた彼が照れ臭そうにしたのを見て、丹楓は気分がよくなった。

「寝室まで運べ」

 そう言って丹楓はもう一度応星の胸元に頭を寄せる。彼は否定することも、断ることもせずただ「はいはい」と言って、そっと丹楓の肩を抱いた。

 
 ――――その日も夢を見た。様々な事を整理しようとした頭が、突然生み出したものなのかも分からない。丹楓は足下に散らばっていた写真とぬいぐるみを抱き寄せて、彼を見上げる。大切なものなのだと告げれば、彼は嬉しそうに笑って「そうか」と言い、小さな丹楓を優しく抱き締めてくれた。
 寒かった体がゆっくりと溶かされるように温まっていく。今後、このような夢を見ることはないだろうと思って、全力で彼に甘えてみれば、彼も応えてくれる
 幸せだった。弟もいて、初恋が実って。なくしたと思ったものは、ずっと傍に寄り添ってくれていたことに、幸せを覚えた。生きていてよかったと心から思う。

 ――――「愛」はとても温かくて、心地のいいものだと漸く知れたのだ。