ずっと目障りだった


 熱を出して数日。念のために療養していた丹楓は、丹恒を見送ったあと家の掃除をしていた。リビングのソファーの下、キッチンの垢落とし。掃除の手が行き届かないようなところまで隅々掃除をして、満足感を得る。そうして落ちた体力と筋力を戻しつつ、昼食は何をしようかと思っていた矢先――――閉めているはずの玄関の鍵がガチャンと音を立てて開いた。
 ゾクリ、と背筋に悪寒が走ったのは言うまでもない。反射的に勢いよく音がした方へと顔を向けて、ぐっと手を握り締める。丹恒であれば「ただいま」と言って帰ってくるはずだ。それをしないということは、彼女が帰ってきた、ということだ。それなりの覚悟は毎回しているはずなのに、体が強張るのは本能的なものか。
 少なくとも幸いだと思えているのは、丹恒が学校にいる平日だということだ。もう一日遅ければ、丹恒は休日で丹楓と共に部屋の片付けをしているか、予習復習に時間を費やしていたか、読書に勤しんでいただろう。そうでないことに安心感を覚えて、丹楓は一度だけ深呼吸をした。少なくとも今、この場に丹楓の弱味はないのだ。
 なるべく凶器になりそうなものを遠ざけて、丹楓は彼女が真っ先にリビングへと顔を出すのを待つ。彼女は自室という自室を設けているわけではなく、一人で暮らしているときはリビングやら何やらで寛いでいることが多かったようだ。丹楓や丹恒の部屋は元々物置とされていて、この家に来る際に適当に処分されたらしい。
 その件も相まって、彼女は兄弟二人に酷い苛立ちを抱えている。殴ることでその鬱憤を晴らして、また男と連絡を取り合い女の顔をして家を出て行く。養母としての責務は一切果たすことはないが、そうすることで少しでも生きるのが楽になっているのならば、それでもいいと丹楓は思っていた。

 ――――だからいつだって覚悟はできている。少しばかり鼓動が速くなる胸元をそっと押さえて、リビングの扉が開くのを丹楓はじっと見つめていた。

 ゆるりと開かれる扉。そこから現れたのは、妙に草臥れた姿の、華やかだったはずの彼女。ふらふらと覚束ない足取りで廊下から足を踏み入れて、ゆっくりと顔を上げる。化粧で歳を誤魔化し、着飾る女の努力が崩れてしまっていて、同情せざるを得ない容姿に丹楓は眉間にシワを寄せた。そうしてぱちりと視線が交わる――――。
 さすがの丹楓も、彼女の様子がおかしいと思った。普段なら目が合った瞬間に彼女は顔を真っ赤に染め上げ、足早に駆け寄り手をあげるのが日常だった。それが丹楓にとっての普通で、他の家庭を見かねたときにあまりの違いに衝撃を受けて、逃げ出してしまったのは最早いい思い出だ。もう一度あの家庭を見ることがあれば、あのときは申し訳なかったと、謝らなければと思う。

 ――――それも、丹楓が無事に今日を乗り越えられればの話ではあるが。

 そのこともあって、丹楓は珍しく丹恒以外の人間にメッセージを送っていた。宛先はもちろん、他でもない応星だ。週明けには戻れるから謝らせてほしい、という旨の連絡をしていたところだった。彼は真面目に講義を受けていないのか、それともまともに大学へ通ってもいないのか、間髪入れずに既読がついて『気にしなくてもいいぞ』と返事をしていた。

『それでも気になるなら、会ってくれるか』

 ――――と、予定を伺ってくるので丹楓も調整していたのだ。
 そんな矢先にやってきた彼女の帰宅に、思わずスマホを背に隠してしまう。特別悪いことをしているつもりはないけれど、それが見つかって癇癪を起こされたら尚のこと立場が悪くなるからだ。
 そうして彼女を待っていると、彼女は覚束ない足取りのまま自分の手が届く範囲内にやってきて、焦点が合わない瞳で丹楓を見る。どこか恐れ戦慄いているようにも見えて、体にどの程度の傷が刻まれるのか、丹楓は考えていた。あまりにも酷い傷を負ってしまったら、丹恒が帰ってきたときに驚かせかねないからだ。
 考えて考えて、少しの抵抗を検討していたそのとき――――屍同然の彼女の手が、強く丹楓の腕を掴みかかったのだ。

 突拍子もない彼女の行動に、丹楓は理解が追いつかなかった。落としたスマホは画面が消えていて、中身を見られる心配はこれっぽっちもない。それどころか、彼女はそんなものに意識を向けることはなく、ただぽつりと小さく呟くのだ。

「た、助けて」

 ――――そう、震える声で紡がれたそれに、丹楓は自分の耳を疑った。まだ熱の症状が残っているのか、あるいは後遺症か何かが体に刻まれてしまったのかと、不安に思うほどだ。それほどまでに彼女が丹楓に助けを請うことなど非日常にほど近く、珍しく丹楓は混乱を隠せなくなる。憎み、恨み、衝動的に手をあげてしまう相手に助けを請うなど、一体何があったのか。
 純粋な疑問から、丹楓は思わず「何が、」と言ってしまった。
 一体何があったのかと。そう口を洩らした途端、彼女が声を張り上げる。

「しゃ、借金ができて……巨額の、……でも、誰も助けてくれなくて……もう、アンタたちにしか頼れなくて!」

 震えた声で紡がれたのは彼女の個人的な事情で。話を聞くに彼女はどうやらホストに貢ぎ続けた結果、返しきれないほどの借金を抱えてしまったのだという。何とか逃亡と誤魔化しを続け、少しずつ返してきたものの、借金は膨らむばかりで。先日とうとう督促状と使いの者が彼女の元を訪れたようだった。
 一体どうやって彼女の元を探り当てたのか、それは彼女自身も分からなかった。彼女はひとつの妥協案を提示され、残り数時間の猶予もないまま検討を進められる。臓器を売るか、体を売るか。女としての旬は過ぎているけれど、それでも金を稼ぐにはまだ使えると言われたようだった。

 彼女は今まで自由に生きてきた身だ。華やかに自分を着飾り、夜の街に軽快なステップで繰り出して、蝶のように舞ってきた人間だ。それが突然、閉じ込められるか何かを失うかの選択肢しかないとすれば、憎んでいる人間に縋り付きたくなるのも分からないでもない。恐らく彼女にとって丹楓は本当に「最終手段」だったはずだ。――――そうでなければ、彼女が丹楓に懇願することなど、ありはしないのだ。
 売れるものなんてないと彼女は言っていた。貢ぐために売れるものは売ったのだと、懸命に丹楓に相談していた。それを丹楓は他人事にように――実際他人である――聞いていて、同情をすることはなかった。何せ丹楓の体には今まで何をされてきたのか、痕跡が痛いほど残っている。記憶には、憎悪に満ちた彼女の表情が強く刻まれているのだ。

 丹楓が彼女の話を聞く理由など、何ひとつないはずだった。

 ――――それでも丹楓は、くらくらと揺れ動いていた。この家は彼女の家で、自分たちは住まわせてもらっている身。彼女が助けを求めてきていれば、それに応えなければならないような気がしてならなかった。
 きっと、丹恒がこの場にいたのなら、「丹楓は優しすぎる」と睨みを利かせながら言い放っていただろう。――――しかし、その丹恒も今この場にはいない。この家にいるのは丹楓と、彼女のたった二人だけ。家を訪ねる人間は皆無に等しく、窓の外から見えるのは自転車や車の往来と、枯れ葉が落ちていく様子だけ。
 誰も、助言をしてはくれなかった。丹楓は「自業自得だ」と一蹴するべきだった。そうするべきだと理性が言っていた。
 ――――けれど、彼女が言い放った言葉で、丹楓は手のひらを返すように考えを改めてしまう。

「もうアンタにしか頼れないのよ、丹楓……!」

 ――――そう言われたとき、彼の中の何かが音を立てたような気がした。割れるような衝撃か、それとも何かが芽生えた錯覚か。彼にはもう分からなかった。
 突然の衝撃の中でかろうじて分かったことはといえば、彼女が初めて丹楓の名前を口にしたことだけ。

 ――――初めて、親という立場の人間に、自分という存在を認知してもらえたことだけだった。

 恐らく一般的な家庭でいえば、名前を呼んでもらえることなど当然のことだっただろう。丹楓が一度だけ見た応星の家族も、気軽に彼の名前を呼んでいた。まるでそれが当たり前だと言わんばかりにだ。名前を呼ばれた応星も、特に何も気にすることはなく普通に返事をするものだから、何も思わなかったのだろう。

 ――――けれど、丹楓は違っていた。二十年ほど生きてきたが、一度だって自分の名前を呼ばれた試しはなかった。それも丹楓は当たり前だと思っていたし、生を全うするまで変わらない事実だと思っていた。生きている間に親という立場の人間には、自分の存在は認知されないものだと思っていたのだ。

 ――――だが、実際はどうだろう。彼女は切羽詰まった状況で、兄弟二人を引き取ってから初めて丹楓の名前を口にした。その瞬間、丹楓の胸の奥は温かな何かがふつふつと湧いてくる。温もりと、途方もない幸福感。一種の錯覚だとしても認められたような感覚に、堪らず目頭が熱くなった気さえする。足下がふわふわとしていて、今なら何をされても構わず全てを許してしまいそうで。
 漸く自分という個人を見てくれたのだと、幼子のような感動が芽生えてしまった。

「それで……余、……私に、何を……」

 その感情を悟られないよう、気を配りながら彼女に訊ねると、彼女は言った。自分の代わりに金を稼いで借金を返してほしいと。指定の口座に振り込みをしてくれれば自分で借金を返していくと。震える手でしっかりと丹楓の腕を掴むものだから、彼は決意を固めた。

 ――――元より初めからそうするつもりだったのだ。一年という期限を終えたあとは彼女のために身を粉にして働き、尽くすつもりだった。そうすることで丹恒には一切手は出さないという約束をしてくれていたから。自分の一生を掛けて、親族の手にかからないようにと手を回してきた。
 手紙のやり取りをしている雨別や、一緒に住んでいる丹恒にすらそれを打ち明けたことはない。打ち明ければ最後、絶対に反対されると分かっているからこそ、相談するつもりは少しだってなかった。その期限が少しだけ早まっただけだと、丹楓は己に言い聞かせていた。

 これは間違っていない。こうしなければならない。――――そう言い聞かせて、彼女に何をすればいいのかを問う。当然丹恒には一切関与させないという念頭を置いて、自分だけが彼女に尽くすことを告げた。彼女は少しばかり不服そうにしていたが、「そうでなければ一切手伝わない」と言い放つと、渋々丹楓の条件を呑む。
 代わりに家を出て行ってほしいと彼女は言った。一体何故かと思ったが、理由は簡単だ。ここが彼女の家で、全ての権利は彼女にあるからだ。出て行かなければ丹恒にも働いてもらう、という脅しをかけられ、丹楓はやむなく首を縦に振るしかなかった。
 遊び呆けていた彼女が今更働くなど、無理な話だと言っていた。社会経験を積んでいた道中、挫折してしまい、嬢として自分自身を売っていた経験はあるようだ。――――しかし、その中でも劣等感と焦燥感に駆られて違反を起こしてしまい、自分に働くことは向いていないのだと自覚したのだという。
 だからこそ彼女は一族の中で一番に見下され、発言権もないのだそうだ。

 そんな彼女は、自分に提示された案をそのまま丹楓に告げた。丹楓は自分の性別が男であることを一応告げると、彼女は訝しげな顔をして「そんなの分かってるわよ」と言い放つ。

「けど、憎たらしいほどにアンタは顔が整ってるから、大丈夫でしょう……」

 きっと男でも大丈夫なところを案内してくれるはず、と彼女は考え込むように言っていた。その間も爪を噛んだり、指先を弄んだりしていて、不安げに視線を彷徨わせている。心の底から焦っている様子が窺えて、この話が本当であることを裏付けていた。