――――結局、彼女の代わりに稼ぐことになった丹楓に残された期限は二日ほどになった。週末の夜中、迎えの車が来る手筈になっているらしい。彼女は見知らぬ名刺を片手に震える手で連絡をして、代わりがまだまだ若い丹楓であることを告げた。本当に男でもいいのかどうか、という心配は杞憂だったようで、ふたつ返事で了承を得たらしい。連絡を終えた彼女は見るからに表情を輝かせて、ほっと安堵の息を吐いていた。
明らかに丹楓を売ったことに対する罪悪感は見受けられない。寧ろ漸く邪魔を排除できるような面持ちで、これで安心できると言い放つ。その顔に親という役割の責任など欠片も感じられなかったが、それこそが彼女らしいと思った。
丹楓を迎えに来る車はここより遥かに遠く、高速に乗って数時間ほど経った街中へと向かうらしい。
――――週末の夜中。先程応星と交わした会話は週明けの話。最後の挨拶もままならないのかと少しだけ寂しくなる。
彼には幾度と救われてきた。友人との会話や過ごし方を知らない丹楓に、応星は食べ歩きや遊びなど教えてくれた。その代わりに自分は勉強を教えて、お互いをお互いで補っていたかのように思う。
そんな応星に事情を伝えるのは野暮というものだろう。このまま悟られないように事を進めて、何も言わずに姿を眩ませるのが彼の為になるはずだ。そうすれば応星は、礼儀も知らない友人に約束を放っておかれてしまったと、切り捨ててくれるに違いない。
そうして丹楓の存在を忘れ始め、やがて伴侶を見つけるのだ。
――――そう考えると、やはり胸が苦しくなるような感覚が芽生えてくる。胸の奥、喉元、それらを一緒くたに締め上げられて、息を止められるような違和感。ギリギリと締め付けられる感覚を胸に抱えながら、丹楓は近くにある戸棚を漁って、封筒をひとつだけ取り出す。それは、丹楓がもらう度に少しだけ別に分け続けた給料の一部だ。口座に残しておくのはあくまで貯蓄で。取り出した封筒は――――、他でもない彼女に渡すためのものだった。
「これを」
そう言って差し出したそれを、彼女は不思議そうに見つめていた。今の今まで貯め続けてきていた結果として、それなりの厚さになっている封筒を、彼女はまじまじと見つめる。そうして少しばかりの嫌悪を含んだ瞳を丹楓に向けた。
「支度ができるまで……迎えが来るまで、この家にいるのも不服だろうから。それを持って約束の時間まで、姿を眩ませたらいい」
そう告げると、彼女はその封筒を奪い去って、納得したように「そうね」と言った。
これくらいしてもらわなきゃ割に合わない、だなんて言って、いそいそとリビングから出て行くものだから呆れさえも覚える。そうして少し時間が経ったあと、玄関の扉が開いてから閉まる音が聞こえた。少しの感謝も見せることはなかったが、それこそが彼女らしい。
落ちていたスマホを拾い上げ、丹楓はロック画面を開いた。偶然にもメッセージアプリを閉じていて、既読はつけなくて済んだらしい。スマホの画面上部に通知がひとつだけ残っているのを見て、ほんの少し口角を上げる。応星の変わらないメッセージが、丹楓の心を少しだけ軽くしてくれた。
バイト先に連絡を入れて、大学にも連絡を入れる。理由は、思ったより病気が悪化していて、近々遠くの病院に入院しなければならないことにした。そうすれば下手に疑われずに済む。彼らはそれぞれ心配そうに丹楓の身を案じていて、見舞いに行きたいという旨を話していた。――――けれど、薬の影響で窶れてしまうこと。髪の毛が抜けて、見窄らしい姿になってしまうから、誰にも見られたくないということを告げると、深刻そうに丹楓の気持ちを尊重してくれた。
人生初の大嘘が、こんなにも誰かの心を乱してしまうことになって、丹楓の罪悪感が悲鳴を上げる。やむなくバイトを辞めてしまうこと、大学を中退してしまうことを謝罪すると、謝らなくていいと告げられた。たったそれだけで、体が少しだけ温かくなったような気さえする。
その次に丹楓が連絡を入れたのは、仲の良い応星でも、白珠や鏡流でもなく、景元だった。
同じ年代として、丹楓は気遣って通話ではなくメッセージを残すと、数分後にはポンと通知音が鳴る。普段なら誰かに頼ることがない丹楓からの『頼みたいことがある』という連絡を受けて、景元は快く請け負ってくれた。
事情を詳しく話したわけではない。ただ、してほしいことを身勝手につらつらと並べ立て、可能かどうかを問いかけただけ。一度だけ景元が『どうしてそんなことになったのか、訊いてもいいかな』と送ってきたが、丹楓は『すまない』とだけ返すと、彼は察したようにそれ以上は訊かなかった。ただ、本当にこれでいいのかと訊いてきたから、丹楓は当たり前のように『これでいい』と返事をした。
――――これでいい。後悔はない。
――――その日の夜。丹楓は夕食を贅沢にたくさん用意した。普段なら決して並べないような量に、帰ってきた丹恒は目を白黒とさせて、何か記念があったのかと丹楓に問いかける。丹楓はそれに、「食材がもうすぐで傷みそうだったから」と答えてみせた。――――実際冷蔵庫にあった食材はいくらかだめになりそうなものが多くて、処理に困っていたところだ。
丹楓の答えに丹恒は納得したように頷き、処理が大変そうだな、と呟いた。家族二人、これだけの量を食べ切るには数日かかりそうだと言っていて、微かに笑みを溢す。彼の言う「家族二人」が紛れもなく自分と丹恒の二人だと知っている丹楓は、胸の奥がギリリと締め付けられるような痛みを覚えた。
少しだけ手先が震える。気が付かれないよう表情を繕い、丹恒に風呂を勧めた。休日は何をするのかとその背に問えば、勉強とバイト、と簡素な返事が返ってくる。丹楓の願いを叶えようとしているのか、それとも逆らって就職に身を置くのか。そのどちらかは分からないけれど、丹楓は「そうか」とだけ呟いて見送る。
たくさん作った夕飯は、翌日の朝食にでも回せるだろう。少しだけ皿に移し替えて、ラップを掛けて冷蔵庫にしまう。丹恒が腹を空かせたときに食べてもいいようメモを添えて、彼が食卓へ現れるのを待った。
風呂を終えた丹恒は、タオルを首にかけながら丹楓に風呂を勧めるが、丹楓は首を横に振る。後ででいいと告げて、風呂上がりの丹恒にそっと歩み寄った。
よく見れば短い髪の毛先にポタポタと滴が滴っている。丹恒は不思議そうに兄を見上げていて、水滴に気が付かずに「どうした?」と丹楓に言った。丹恒は兄が熱を出して以来、以前のように話すようにはなったが、それでも少しだけ壁を感じることがある。まるで何かに気が付かれないように、陰でこそこそと動いているような感覚。恐らく丹恒は、進学をする素振りを見せながら就職を選ぶつもりなのだろう。
本当に兄想いの優しい子になってくれた、と丹楓は嬉しく思った。不思議そうにこちらを見上げる丹恒の頭を撫でてやろうかと思ったけれど、毛先のそれが気になって、肩に掛けられている白いタオルに手を伸ばす。少しだけ熱によって温まっているそれを丹恒の頭に掛けてから、くしゃくしゃと少しばかり乱暴に頭を拭いた。
「わ、っと……おい、それくらい自分で……っ」
「できていないから余がやっているのだ」
ふん、と鼻を鳴らし、丹楓は丹恒の抵抗を制しながら頭を拭く。彼は足下をふらつかせながら丹楓の手を止めようと必死になるも、丹楓の手を止めることを躊躇していた。止めたいのなら止めればいいだろう、と何気なく言えば、丹恒はうっと痛いところを突かれたかのような声を上げる。丹楓は止められない限りは頭を揺らすほど丹恒の頭を拭い続けているが、丹恒はその中で「たまにはいいかと思って」とぽつりと口を洩らす。
それが、数少ない丹恒の甘えであると気が付くと、喉の奥が震えた。
人に甘えられることがこんなにも嬉しいものなのかと、丹楓の中で兄としての一面が決意を揺らがせ始める。
まだ、一緒にいたい。丹恒が高校を卒業するまで傍にいたい。進学をしてほしいけれど、本当はどちらでもいい。丹恒が選んだ道を、真っ直ぐに歩いているのを見届けたい。
――――そう、悲鳴のように声を上げる心を押し潰して、丹楓は言う。「このままだと風邪を引いてしまうぞ」と。
「丹楓のようにか」
「ふ、まだそのようなことを言う余裕があったか」
「事実だろう」
軽口を叩きながら丹楓は頭を拭き終え、タオルを自らの手に収める。丹恒の首に掛かっていたそれは、恐らく滴る水滴が机やら床に落ちないようにするためのものだったのだろう。丹楓が丁寧に拭き取った今、丹恒が懸念していた水滴は落ちないわけで。回収されたタオルを横目に見つつ、彼はリビングの椅子に座る。
並べられたたくさんの手料理を目の前にして、両手を合わせていただきますと言った。それは、丹楓が幼い頃から丹恒に言い聞かせてきたもののひとつで、彼は今もなおそれを律儀に守り続けている。「食事は命を頂く行為だから、感謝をしてから食べること」――――そう言って手本を見せるように丹楓が率先したことを、丹恒は真似て食事を行っていた。
それが今となっては酷く懐かしく、胸が満たされる。そして、しっかりとした弟に育ってくれたことに感動を覚えて、丹楓も椅子に座ってから両手を合わせて「いただきます」と言った。
自分の育て方は間違っていなかった。――――喜びと、悲しみが折り混ざった不思議な感情が、ふつふつと湧いてくる。そのお陰で作った料理の味は少しも分からなかったが、丹恒が「相変わらず美味しいな」なんて言うものだから、安心した。