ずっと目障りだった

 そうしてやれることを全てこなし、早いもので彼女との約束の時間までもう一時間もなくなっていた。夜中の十二時に丹楓は丹恒の部屋に赴き、トントンとノックをする。普段ならば眠っているはずの彼は、目を擦りながらゆっくりと部屋の扉を開く。「こんな時間にどうした……?」と呟く丹恒は、じっと見つめてくる丹楓の様子がおかしいことに気が付いて、目を擦っていた手を下ろし始める。

「……丹楓……?」

 丹楓が丹恒の顔を見たまま何も言い出さないことに違和感を覚え、ぽつりと名前を呟いた矢先だった。――――トントン、と不意にインターホンではなく扉が叩かれる。それに丹楓はふと視線を投げて、「入れ」と言った。
 思えば丹恒には外での姿を見せることは少なかったように思う。酷く冷めたような態度で放たれる言葉に、丹恒は思わず扉の方へと視線を向けた。――――すると、丹楓の言葉のあとにゆっくりと玄関の扉が開かれる。掛けていたはずの鍵は、丹恒が気が付かない間に丹楓が外していた。

「やあ、こんばんは丹楓。彼が丹恒かい?」
「ああ」
「話に聞いていた通り、いい子そうだね」
「当然だろう、余が面倒を見ていたのだから。――――だから先程の言葉を訂正しろ、『いい子そう』ではなく、『いい子』なのだと」

 親しげに丹楓と会話をしながら部屋に上がり込むのは、応星よりも癖の目立つ白髪の、長身の男。緩い口元と月のように輝く瞳が特徴的な彼こそが、丹楓が唯一頼った景元だ。
 彼は丹楓の目の前にいる丹恒に目を向けると、ふわりと微笑んで「私は景元、よろしく」と告げる。突然の来訪に、丹恒は状況が少しも理解できないのだろう。自己紹介をすることもなく景元から丹楓に視線を移し、「どういうことだ……?」と問いかける。夜中の十二時に友人を呼ぶのはおかしくないか、と丹楓に言い放って、説明を求めていた。――――しかし、丹楓はそれに応えることもなく、次々に景元に指示を出していく。
 その途中、景元が丹恒を横目に見つつ、「何も言っていないのかい」と不安げに声を掛けた。たった一人の弟だろう、と不安そうに丹楓を見つめる丹恒の身を案じて、代わりに説明くらいはしたらどうだと促す。

 ――――しかし、丹楓はそれに一瞥したあと「何故」と告げた。

「これは余が独断で決めたことだ。説明したところで恒が納得するとは思えない」
「弟が納得しないようなことをしようとしている、という認識をしても構わないかな」
「好きにしろ」

 景元とのやり取りを投げやりに済ませる丹楓は、近くにある時計を確認して眉間にシワを寄せる。このように会話をし合っている余裕など、丹楓にはないのだ。
 彼は未だに呆然としている丹恒の手を取り、玄関で靴を半ば無理やり履かせる。時間がない、と言えば丹恒は丹楓が何かに焦っていることに駆られて、咄嗟に言うことを聞いてしまった。
 履き慣れた靴を履いたのを見て、丹楓は玄関から外へと出る。それと同時に擦れ違う人影を横目で追って、後から追いついてきた景元に「あれが助っ人か」と訊ねた。
 彼は少しだけ不服そうに「そうだよ」と言い放ち、目の前に止まっている黒い車の鍵を開ける。カチャンと音が鳴ったあと、景元は後部座席の扉を開いて「ここに」と示した。扉を開けたときに香る多少のガソリンと、社内の匂いが鼻を刺す。ツン、としたそれに一度だけ怪訝そうな顔をしてから、丹楓は丹恒の手を引いた。

「た、丹楓、一体何を」

 目の前で繰り広げられるやり取りに、漸く思考が追いついてきたらしい丹恒が、自分の口から説明を求め始める。ぐっと足を踏ん張って、丹楓が説明してくれないと乗らない、という意思を見せつけるものだから、「丹恒」と思わず声を掛けてしまった。

「いいから乗れ」

 そう言い放つ言葉は、つい先日まで弟に向けていたものとは思えないほど低く、冷たい。今までに向けられてきたことのないそれに、彼は一度体を強張らせたものの、キッと強く丹楓を睨む。全身に力を込めて、「嫌だ」と明確な否定を表した。

 ――――思えば、丹恒が丹楓に向かって刃向かうのはこれが初めてで。つい、丹楓も体を強張らせてしまう。

 ――――しかし、そんなことに時間を取られるわけにはいかないのだ。約束の時間まで刻一刻と迫っていて、丹楓は焦りを掻き立てられる。早く、早くしなければ彼女すらもここに来てしまう。約束の時間には取引先と、彼女が立ち会って、やり取りをすることになっているのだ。その前に丹恒を連れて立ち去ってもらわなければ、丹楓の願いが虚しく散ってしまうことになる。

 ――――そんな兄弟の攻防戦を見かねていた景元が、どちらに助け船を出そうかと悩んでいたとき。家からいくつかの荷物を持った黒ずくめの男が、助手席の扉を開けて座席に荷物を放り投げる。そのまま景元に「運転席に座れ」と言い放ち、助手席の扉を強く閉めた。
 バタンッと扉が閉まる音が聞こえて、立て続けに歩く音が鳴る。丹楓は懸命に丹恒の手を引いて後部座席に押し込めようとするものの、彼の抵抗も強く、思うようにはいかなかった。丹楓が遂に「言うことを聞いてくれ」と言うものの、何の説明もないことに納得がいかない丹恒は「嫌だ」と首を横に振るだけだ。

 ――――本当であれば、丹楓も余すことなく丹恒には説明したかった。どういう経緯でこのような行動に出たのか、ひとつひとつ順を追って話をして、理解をしてほしかった。
 だが、そんなことをすれば彼が強く抵抗するのも明白で。どちらに転んでも納得を得られないというのなら、何も知らないまま丹楓の言うことを聞いてくれる方がマシだと思えていた。その方がきっと、幸せになれるはずだと信じて疑わないから。親族たちの事情に巻き込まれないまま、過ごしてほしかったから。
 だから「すまない」と丹楓は言う。

「すまない、丹恒、不甲斐ない兄で……余が、其方の為にできるのは、ここまでだ」
「……? 丹ふ、」

 良心の呵責に耐えかね、思わず丹楓が謝罪を口にした。それは、あまりにも小さく、弱々しく、丹恒が今までに聞いたことないほど頼りないものだった。それに驚いてつい、丹恒が丹楓の様子を窺うと――――後部座席の向こうから、黒い衣服に包まれた腕が伸び、丹恒の手を取る。
 暗闇から突如現れたようにしか見えない腕。それに丹恒はおろか、丹楓まで驚いていると、その手が丹恒の体を強く引き寄せる。ぐいっと引き寄せられた丹恒は驚きの声を上げながら、後部座席へと転がり込んでいった。

「う、だ、誰――……刃……どうして、お前が」

 手を引かれて転がっていった先。丹恒は頭を打ち付けると覚悟をして閉じていた目を、恐る恐る開けていた。どうやら手を引いた本人とは面識があるようで、彼の胴体をクッションにして見た先にある顔に、驚きを隠せずにいる。丹楓から見た彼は、ニット帽をかぶり、サングラスをかけた不審者にしか見えないのだが――――好都合だった。
 兄弟のやり取りに刃と呼ばれた彼は嫌気が差したのだろう。ぐっと丹恒を押さえ込むように腕の中に閉じ込めている様子は、兄として多少不快感が募ったが、文句など言ってもいられなかった。後部座席に身を乗り出して、丹恒の胸にトン、と通帳を押しつける。

「これは余が今まで貯めてきたものだ。暗証番号と、あと雨別の連絡先も挟んである。何かあったらすぐに頼るといい」

 有無も言わさず、丹楓は丹恒の返事を待たずに手を離そうとする。
 ――――しかし、何かを察したらしい丹恒が間髪入れずに離れようとした丹楓の腕を咄嗟に掴んだ。こういった反射神経の良さは兄弟同じような血が流れていると、嫌というほど実感してしまう。掴まれた腕をぐっと引きながら、「離せ」と丹楓は呟いた。

「丹楓、時間が」

 気が付けば運転席に乗り込んでいる景元が、兄弟喧嘩に口を挟んでくる。事前に連絡をしていた時間に迫ってきていて、丹楓も景元も焦りを隠せなくなってきていた。この中で唯一焦りをひとつも見せていないのは、丹恒を押さえつけている刃という男で。サングラス越しに彼はちらりと丹楓を横目に見る。
 その目が何だか少しだけ応星に似ているような気がして、体が強張った。――――だが彼は丹楓をどうこうするつもりはなく、ただ口も挟まずに鬱陶しそうに丹楓に視線を寄越しただけだった。

「わ、分かった、乗る……乗るから、だから、丹楓も……丹楓も、来るだろう……だって、何だか、胸騒ぎがするんだ…………このままじゃ、駄目だと、」

 あの男は一体どのような意図があってこちらを見たのか。丹楓が考え込んでいると、不意に丹恒が口を開いた。その顔は少しだけ不安の色を湛えていて、薄灰色がかった翡翠の瞳は微かに揺れている。丹楓の腕を掴む手は気が付かなければ分からない程度に小さく震えていて、丹楓に縋り付いているようにさえ見えた。
 その様子にどうしようもないほど心が悲鳴を上げていて、丹楓も声を上げたくなった。自分も離れたくはないと。丹恒の成長を傍で見守り続けたいと。何せたった一人の弟だからだ。血の繋がりのある、唯一の宝物だから。ぎゅっと抱き寄せて、冷たく当たって悪かったと言って、謝りたかった。

 ――――けれど、丹楓にはそれができなかった。ギリ、と奥歯を食い縛り、自分の情けない部分を押し殺して耐えていた。情けない――――情けないことに、どうしようもなく求めてしまっていたからだ。
 ――――もう一度、自分の名前を呼んで、認めてもらいたかった。

 はあ、と息を吐き、丹楓は自分の心を落ち着かせる。深く息を吸って、景元が再び時間がないと急かしてくるのを聞き流して、丹恒に顔を近づけた。
 自分によく似た綺麗な顔立ちが不安に塗れている。自分の知らないところで何かが起こる不安を胸に抱えている。それが手を伝い、丹楓自身にもありありと伝わってきた。

 ――――今からそれに、拍車を掛ける。

 丹楓は静かに唇を開いたあと、丹恒に聞こえるようにはっきりと言い放った。

「――――ずっと、目障りだった」

 不意に訪れるしん、とした空気を、丹楓の言葉が切り裂く。夜の、虫たちの鳴き声しか聞こえない静寂の中。丹楓が冷酷にも放った言葉は、丹恒どころかその周りにまで届いてしまって。「……は」と間抜けな声を洩らした景元と、「貴様……!」と敵意を露わにする刃の声が丹楓の耳に届く。彼の声色は応星と似ていて、少しだけ緊張が走った。
 しかし、それを意に介することなく眼下にいる丹恒に丹楓は視線を投げ続ける。彼は突拍子もなく紡がれた丹楓の言葉に驚きが隠せていなかった。唇を震わせて、音にも鳴らない声を洩らしているようで、僅かに唇が開閉を繰り返している。衝撃が丹恒を襲い、彼は丹楓の腕を掴んでいた手を、ゆるゆると離してしまった。

「――――其方がいなければ、余はもっと早く、自由になれていた」

 そんな彼に更なる追い打ちをかけるよう、丹楓は言葉を続けた。それは、随分前に丹恒に言われた言葉の数々だ。今にも泣き出してしまいそうだった弟を、宥めるべく否定し続けた言葉だった。
 それを、こんな状況で持ち出してしまったことに対して、丹楓の罪悪感が更に増し続ける。
 丹楓の言い放った言葉は彼に強く刺さったようで、じわりじわりと自分によく似た瞳が潤んでいくのが見えた。意図しない言葉にそれは為す術を失ったかのように、つぅ、と丹恒の輪郭を伝う。静かに涙を流すことすらも似ているのかと、どうしようもない親近感を覚えながら――――丹楓は後部座席からそっと体を外に出した。
 秋の冷たい風が、車内に顔を乗り込ませていた丹楓の頬を撫でる。すっかり冷えて、風が頬を撫でる度に全身が寒さを訴える。丹恒はもう、抵抗する意思すら持てないようで、丹楓の腕を掴んでいた手が、静かに胸元へと収まるのを見送った。
 そうして丹楓は後部座席の扉を閉める。バタンと音を立てて閉まった扉を眺めてから、運転席にいる景元に「行け」と言葉をひとつ。

 彼はそれに従い、エンジンを掛け始める――――。

「……………………違う……」

 エンジン音に紛れて、ぽつりと丹恒のくぐもった声が、微かに開いている扉の窓から聞こえてきた。
 それに気が付き、丹楓は景元に窓を閉めるように伝える。彼は丹楓の指示に従って、頷いてからそれに手を掛けた。

「本心じゃない…………そうだろう、楓兄――――」

 窓が閉まる直前。丹恒の小さな声が丹楓の鼓膜を揺らす。
 
 幼い頃、あとをついて回りながら「ふうにぃ」と言って背中に抱きついてきた弟の様子を思い出した。あの頃の丹恒はまだ何も知らない純粋無垢の子供で、それでも周りよりはやけに大人しく聞き分けのいい子供だった。丹楓が拙い手で家の掃除をしていたとき、寂しさのあまり構ってほしくて、抱きついてきたのだろう。
 慣れない掃除に嫌気が差して心が折れかけていた丹楓は、ふと丹恒に気が付いて、掃除道具をその場に置く。丹恒が転んで怪我をしないように気をつけて、背中に抱きつく丹恒を引き剥がしてから向かい合って「どうした」と言った。

「余は掃除中だ。ケガをするかもしれないだろう」

 そう言って丹恒の柔い頬を包んで、注意を促しているのに。彼はにぱ、と笑って、構ってもらえたことが嬉しそうにはしゃいでいたのだ。

 ――――そう感傷と思い出に浸っている間に、景元は車を発進させていて。気が付けばその場には何もなかった。
 足下には少しだけ争った跡。すっかり静まり返ったこの場所に残されたのは、丹楓たった一人だけ。さわさわとどこからか木の葉が擦れる音が聞こえる中、一台の車がこちらに向かって走ってくる音が聞こえた。

 丹楓がそれに顔を向けると、目の前でそれがキッと音を立てて止まる。その数秒後に運転席の扉が開いて、一人の男が姿を現した。――――同時に助手席の扉が開き、彼女が怯えた様子でそっと車から出てくる。一体何故車から出てきたのかと見つめていると、運転席から出てきた男が「そこで見かけたから捕まえちゃったのよ」と言った。
 低い声が、女のような口調で放たれる。――――それに幾ばくかの違和感を抱きながら、「そうか」と告げれば、がたいのいい彼が、「こんばんは」と丁寧に挨拶をした。見た限りでは到底怯えるに至るような人間には思えない。

「アナタが噂の子? 話に聞いていた通り、とぉってもキレイな顔立ちをしているのねえ」

 これなら申し分ないわ、そう言って彼は丹楓を頭の先から足の先までじっくりと見定める。その視線に性的な何かを連想させるものは何ひとつとして感じられないが、今この瞬間に丹楓は自分の体が商品になったことを自覚した。
 彼は丹楓に名前を一切聞かなかった。代わりに先に車で待っていて、と促されて、丹楓はそれに頷く。助手席にと言われたものの、気分にもなれない丹楓はそっと後部座席の扉を開き、大人しく座席に座った。
 扉を閉めて、シートベルトをしてからぼうっと窓の外を眺める。家の向こうにある夜空は憎たらしいほど晴れ晴れとしていて、星がチカチカと瞬いている。月明かりがいやに眩しく見えて、思わず目を薄めていると、「お待たせ」と言いながら男が運転席に乗り込んだ。

「助手席はイヤだったかしら? まあ、どこでもいいわ。これから運転するから、眠たくなったら寝てちょうだい」

 彼は丹楓の沈黙を物ともせず、シートベルトをしながらエンジンをかける。車は一度唸りを上げてから、ゆっくりと道路を走り始めた。窓から見えているサイドミラーには取り残された彼女が、丹楓が乗っている車にも目もくれず自宅へと戻っているのが見える。
 その手には何かが収まっているように見えたが、――――丹楓にはそれが何なのか、判断がつかなかった。