ずっと目障りだった

 彼が車を走らせてから早くも数時間が経った。月はとうに傾き、その煌々とした姿を地平線の向こうに沈める準備をしている。丹楓を乗せた車は高速道路に入っていて、周りの景色は普段では見慣れない速度で流れていった。深夜ということもあって街は比較的暗闇に沈んでいる所為か、夜空に浮かぶ星々は地面に足を着けて眺めていたときよりも遥かに数を増している。あのどれかが線で繋がれていて、星座になるのかと、丹楓はじっと見つめていた。
 彼は気分を紛らせるように、一方的な話をし続けていた。丹楓の名前を聞かないのは、店で使うための名前に本名を使うわけにはいかないから、ということだった。理由としては店を経営している中、本名で働いていた従業員が陰湿なストーカー被害に遭ったから、というものだ。その従業員は酷く怯えきってしまい、一生もののトラウマを引きずりながら店を辞めていったのだという。

 人を買ったくせに妙に気を遣っているな、と丹楓は話半分に聞いていた。彼曰く丹楓の名前は月に因んだものにしたいそうだ。初めて丹楓の姿を目にしたとき、月光を一身に浴びて毅然と立つ姿が美しかったのだと、彼は語る。
 語って、思い出したようにそう言えば、と言った。

「知ってる? 今日ってお月見なんですって。アナタ、お酒はイケる口? 月見酒なんてどう?」

 返事が返ってくることはないと知りつつ、彼は丹楓に話を振り続けていた。好きな酒の銘柄、種類。色々な話をしていて、ふと丹楓は五人で飲みに出掛けていなかったことを思い出す。
 提案をしていた白珠はきっと、その日が迎えられないことに酷く落ち込むだろう。彼女に何らかの感情を向けているらしい鏡流は、丹楓に向かって怒りを露わにするかもしれない。一部の事情を知っている景元は少しでも二人を宥めてくれるだろうけれど、応星はどのような反応をするのだろうか。

 ――――なんてことを思っていると、彼がふと、「月……」と呟く。

「月……飲む……そうね、アナタ『飲月』はどうかしら? ぴったりな呼び名だと思うわ!」

 水面に浮かぶ月を飲む美人さん、とっても絵になるわね、――――なんて言って一人ではしゃいでいる。
 丹楓はそんな彼についていけなくて、黙って窓の外を眺めていることしかできなかった。夜中だからこそ、止まることを知らない景色の流れは、見ていて飽きることがない。何もかもを置き去りにして流れていく景色を、丹楓は網膜に焼き付ける。

 そんな丹楓に彼も言葉をなくしたのか。数十分後には遂に口を開くことをやめて、運転に集中していた。具体的な店の場所を教えてもらっているわけではないが、長時間の運転に彼は少しばかり溜め息を吐く。――――やがて、「アナタみたいに静かな人は初めて相手にするわ」と丹楓に告げた。

「皆、怯えて、泣いたまま車に乗るんだもの。当然よね、体を売るんだから」

 だからこんな口調にしたのだけれど、アナタには不評みたいねと彼は言う。その口振りに丹楓は何気なくルームミラー越しに彼の顔を見た。彼は、がたいの割には美容に気を遣っている上に、どの男と比較しても話しやすい部類には入る人だった。そんな彼が、運転中に隙間を見て丹楓の様子を窺っているようで、ぱち、と視線が交わる。
 彼の瞳はとても、不思議な色をしていた。金に染まっている短い髪を綺麗にまとめていて、瞳は海のように青かった。そこで、丹楓は彼が外国人か何かなのかと思う。少しも興味はないはずなのに、構ってほしいと言っている大型犬のような彼に視線を向けた。
 すると、彼は漸く目が合ったと笑う。無邪気なそれは、到底黒いスーツをまとっている大の大人のそれには見えなかった。

 次こそはと丹楓は紡がれる話をぼんやりと聞いていた。丹楓がこれからするのは接待を中心とした仕事だ。よく言うバーだとか風俗店だとかに似た店での接待で、その延長で体を売るのだというのだ。これが一番手っ取り早く稼げるのだと、彼なりの提案をしてくれているようだった。
 丹楓はそれに「そうか」とだけ言う。

「余は、男だが」

 ――――そう言うと、彼は数回瞬きをして、「一人称が余なのね」と驚いたように言った。飲月の呼び名にぴったりの高貴な子ね、と言ってから、丹楓の疑問に答える。

「問題ないわよ。世の中にはいるんだから。アナタみたいにキレイで、強気の子をどうこうしたいって大人がね」

 やり方を知らないのならまずは勉強をしましょうね。そう言って彼はふ、と微笑みを浮かべる。その仕草に、丹楓は少しだけ違和感を覚えた。店の人間がこんなにも優しくて問題ないのかと。従業員のためと言って本名を隠している人間が、体を売ることを勧めてくる不気味な感覚は、水の上に浮いた油のように気味が悪かった。

 ――――しかし、それも束の間。結局どう思ったとしても丹楓にはもう選択肢はない。

 そうであれば気にするだけ無駄だと、再びふい、と窓の外を眺めた。流れていく景色よりも、瞬いている星の数々を目で追っている方が有意義だと、丹楓は空を眺める。ひとつふたつ、キリのないそれを数えていると、落胆しつつ興味本位で紡がれたであろう彼の言葉が鼓膜を揺さぶる。

「アナタ、若いんだから恋とかしてないの? こんな目に遭ってるのに言うことじゃないと思うけど、アタシ飢えてんのよ、恋バナに」

 フッと彼は吐息を吐いて、退屈そうに言った。好きな人の一人や二人、誰かいなかったの、と問いかけてくる彼に、丹楓は「好きな人、」と小さく呟く。

「そう! 気が付いたら目で追っちゃうとか、考えちゃうとか! そういう経験なかったの?」

 アナタは簡単に自分の体を差し出してきたから、少しだけ気になっちゃう!
 ――――彼はあくまで場を和ませるように、陽気な声色で言った。その理由には先程言っていた、「皆」のこともあってのことだろう。泣いて、怯えていた彼らの中には当然体を売ることに抵抗を示す人が多かったのだと彼は言う。その理由に、何をされるか分からない、ということと、好きな人以外には触らせたくないということが殆どだった。
 だから、そういった反応を少しも見せない丹楓の、個人的な部分が気になったのだろう。彼はわくわくといった様子で、丹楓の話を待っていた。顔のいい丹楓のことだから、さぞモテていたのだろうと踏んでいるに違いない。――――そんな期待を込めた瞳が、ルームミラー越しに見え隠れしているのを、丹楓は横目に見ていた。

 ――――好きな人。目で追いかけて、気が付けば考えてしまう人物。誰かいただろうか、と考えていると、ふと脳裏に彼の、――――応星の笑った顔が浮かんだ。

 丹楓、と笑い、彼は必ず丹楓の傍に寄り添った。軽口を言い合えて、気兼ねなく街を出歩き、限られた時間の中で食べ歩きをした思い出が蘇る。あの頃は買い食いというものが世の中では当たり前のことだということが信じられなくて、訝しげな顔をした記憶がある。そういうのはマナー違反ではないのか、と言えば、じゃあ座ればいいだろ、と近くのベンチに座って、二人して肉まんを頬張った。したこともない買い食いに、罪悪感が芽生えた気がしたが、応星の嬉しそうな顔を見ていたらどうでも良くなってしまった。 丹楓の体のことを知ってもなお、応星は丹楓の傍を離れることはなかった。今まで隠してきたのだと、応星を騙していたのだと言えば、彼は少しだけ寂しそうに笑っていた。隠さなければいけない家庭環境に身を置いているのだと知った彼は、面倒事に巻き込まれるのを恐れる素振りも見せず、「よく頑張ったな」と言った。そうして恥ずかしげもなく丹楓の服を捲って、丁寧に手当てをしてくれるようになった。

 ――――物を作り出すその手が、割れ物を扱うようにそうっと丹楓に触れて、各所を労ってくれる。湿布を貼って、消毒をして。手当てが終われば彼は満足そうにほっと一息吐いてから、「早く治るといいな」と言っていた。この傷が家庭環境にある以上、減ることがないと知っているはずなのに。
 ――――熱を出して倒れていたとき、応星の家から飛び出して逃げた丹楓を、彼は献身的に看病してくれていた。丹楓が熱に浮かされてまともな思考回路をしていないというのに、応星が事の発端だからだと、妙な強請りを叶えてくれた。応星には好きな人がいるはずなのに、何の抵抗もなくすんなり交わしてくれたそれに、ほんのり胸の奥が熱くなる。
 白い髪が、星の瞬きによく似ていた。彼の名前には星の名前が刻まれている。それも相まってか、夜空を見るのに飽きが来なかった。――――間接的に応星のことを思い出していられるから。

 応星はある日からよくモテるようになった。よく見て観察すれば、彼は女生徒には優しく、手を差し伸べる一面を見せているからだと分かった。その優しさに彼女たちは惚れ込んで、在学中のときだけでも関係を、とでも思って声を掛けていたのだろう。

 ――――しかし、彼女たちは知らないのだ。応星は作品を作るときは滅多に呼びかけに応答しないし、上手くいかなければ癇癪を起こして作りかけのそれを叩き割ったことさえある。俺が作りたいのはこんなんじゃない! と叫んで、頭を掻き蹲ることだって多かった。
 そんな応星を知っているのは、唯一工房の在り処を教えてもらった丹楓だけで。酷く苛立つ度に声を掛けて息抜きに誘ったことだってある。今思えばあの頃に頭を撫でていれば、また違った顔を見られたのではないかと後悔が押し寄せてきた。
 後悔しても何かが変わるわけではない。――――それでも、ひとつひとつ思い出を振り返って、胸が熱くなってくる。

 ――――気を持ち直すようにふと、応星から丹恒のことへと意識を向けた。最後に見た彼の顔は、今まで見てきたことのない表情で、信じていたものに裏切られた顔をしていた。過去に丹楓が否定した言葉を、今になって引っ張り出して突きつけるのかと、驚きに満ちた顔をしていた。
 彼にはもう、嫌われてしまっただろうか。丹恒に手出しをさせないために、わざと突き放す言動を取った兄を、弟は嫌に思ってしまっただろうか。――――もう二度と、丹楓と名前を呼んで、兄と慕わなくなってしまっただろうか。

 ――――応星は明日、律儀に大学で会おうとするのだろうか。既読をつけず解約してしまったスマホを気にして、律儀に返事を待っていることだろうか。まだかまだかと主人の帰りを待つ忠犬のように待って、いざ蓋を開けてみれば音沙汰もなく行方を眩ませてしまったことに腹を立てるだろうか。
 彼は将来、丹楓の知らない女と添い遂げるだろう。大学を卒業するかどうかは彼の手腕とやる気にかかっているが、物作りに対する情熱は誰にも負けてはいなかった。ここ最近は名のある職人のお眼鏡に適い、その人の下で経験を積むのだと丹楓に語っていた。それが実を結べば、彼は名のある職人になり、様々な人との交流を持つだろう。その中で運命的な出会いを果たし、家庭を持って、幸せに過ごすに違いない。

 ――――その中で丹楓がどうしても自分が傍にいることが想像できなかったのは、こうなることが分かっていたからだ。

 親族は丹楓や丹恒を良く思っていなかった。それに気が付いたのは、自分たちが雨別と深い関わりのある血筋だと気付いていたからだ。きっと将来的に雨別と同じように権力を持ち、人の上に立つ人間になると、読まれていたから。若いうちから親族に尽くすようにと、言い聞かせられていた。
 ――――だから想像した。応星の隣にいるのは自分ではないと。性別のことを考慮して、親友の立場にいたとしても、彼の傍にはいられないと。自分にできるのは、彼の朗報を聞いて、祝福することだけだと。応星の心を掴み取れるのは、自分ではないのだと、思って。
 
 ――――ズキリと痛む胸の原因を、丹楓は漸く理解した。

 丹楓は膝に置いていた手を徐に胸元に添えて、ぎゅ、と服を握り締める。それでも胸の奥の痛みは引くことはなく、次第に息をすることすら困難なほど苦しくなる。胸の奥が、胃が、締め付けられる不快感をどうにか逃がしてしまいたくて、トン、と窓に頭を置いた。ガタガタと揺れる振動が、丹楓の体に伝わってくる。
 そうして身を委ねていると、ルームミラーで丹楓を見つめていた彼が、寂しそうに笑ったのが見えた。

「恋を、していたのね。泣いちゃうくらいの」

 ――――不意にそう言われて、丹楓は胸元に置いていない手をそっと自分の目元に当てる。すると、生温かな水滴が目尻から溢れて、頬の輪郭を伝って流れていった。それは、一度に留まることはなく、立て続けに数回溢れていって、――――やがてキリがないほどにポロポロと零れ落ちていく。
 恋をしていたのねと言われて、丹楓は漸く、たった一度だけ小さく頷いた。

 ――――恋をしていた。自分にはないものを両手に抱えながらも、分け隔てなく寄り添ってくれる応星に、丹楓は恋愛感情を抱いていた。

 とても素敵な人だったのね、と言われて、丹楓はまた頷きで返す。

 ――――素敵だと言われて強く同意してしまうほど、優しい人だった。生涯彼ほどの魅力的な人は見つけられないと、豪語してしまいたくなるほどの人だった。
 もちろん、応星にも欠点はあるし、話が合わずに口喧嘩なんてものをしてしまうことがあったけれど。最終的には応星が折れて謝って、全てを許すことになるのが当たり前になっていた。――――明らかに丹楓に非があるとしても、仕方ないと肩を竦めて自分が悪かったと、言ってくれるほどには優しかった。
 惚れた弱みだろうか。応星が何をしてもどうしようもなく愛しくて、可愛らしいと思うことが多かった。何があっても自分を優先してくれて、丹楓のわがままを聞いてくれていた。その一面が堪らなく嬉しくて、丹恒には決して見せなかった一面を、応星には見せ続けていたような気さえする。
 優しさに甘え続けて、忘れられないようなことを、応星にはさせてしまった。彼は丹楓に後悔するなと言っていたが、丹楓自身は後悔するはずもなかった。

 ――――好きだった。初めて応星の笑顔を見てからずっと。作品に向き合って生き生きとしているあの表情が、丹楓に向けられる悪意のない笑顔が。作品を生み出す手で触れてくれる手が、あの温もりが。

「…………好きだった…………ずっと……」

 けれど、自覚したところでもう遅い。丹楓は初めて抱えたそれを、自らの手で手放し、失ってしまったのだ。
 ――――そうぽつりと呟いた瞬間、体と心が一致したかのように涙が溢れて止まらなかった。泣いても仕方がないのだから止まれと、袖でいくら拭ったとしても、拭った先から次々と溢れてくる。覚悟を決めていたはずなのに。覚悟をしていたはずなのに。心は少しも追いついていなかったようだ。
 頻りに涙を拭っても溢れていくそれを見かねて、彼はそれ以上口を挟むことはなければ、茶化すこともなかった。代わりに「気が済むまで泣くのはいいことよ」と言って、丹楓が涙を流すことを小馬鹿にすることはなかった。
 車は滞ることもなく進み続けていて、丹楓が暮らしていた街はもう、遠くの向こうに消えてしまっている。今いるこの場所がどこに位置するものなのか、家からどれほど離れてしまったのか、丹楓には分からなかった。
 応星はきっと待ってくれる。丹楓が現れてくれるのを。もう風邪は平気なのかと言って、変わらない態度を振りまいてくれる。
 ――――それを全て台無しにしたのが他でもない丹楓自身で。丹楓の言動ひとつで彼らが傷付くものだと、少しも考えが至らなくて。嗚咽も上げずにただずっと、罪悪感と喪失感に苛まれながら涙を流し続ける。
 宝物と恋心。そのふたつを同時に手放して、どうかどうかと願う。震える手を合わせながら額に寄せて、祈るように体を丸めて願う。
 
 どうか、応星の夢が叶いますように。  
 どうか、丹恒が病気もせず、親族のいざこざに巻き込まれませんように。
 どうか――――応星と丹恒が、自分のことを忘れて幸せに暮らしていけますように。

 絶えず車は丹楓を乗せてひた走る。今更戻りたいと言っても、もう全てが遅すぎて。
 丹楓が必死に願う姿を見ていたのは、運転している彼ではなく、――――夜の街並みを煌々と照らしている満月だけだった。