ずっと目障りだった


 ――――そこに着いてから、一日だけ体を休ませて、全てを頭に叩き込んだ。彼は丹楓の身を案じていたが、「全部忘れたい」と言えば自嘲気味に笑って了承した。
 初めてまともに飲酒をして、丹楓は自分がとても酒に強いことに気が付いた。いくら飲んでも酔った気はしなく、店に来る客が好奇心から飲み比べをしに来ては片っ端から酔い潰した。
 丹楓は自分が酒を飲んだら彼女と同じように情緒不安定になってしまうのかと懸念していたが、実際はそんなことはなかった。飲み比べは相手を落とせるし、丹楓も気持ちが軽くなる。その上、彼らは金を落としていくので、苦行だとは思わなかった。

 ――――けれど、その裏でふと、約束を思い出してしまって。約束を思い出してしまったその日は、店の裏で体を丸めて、押し寄せてくる寒さに必死に抵抗していた。
 店には男女問わず顔立ちのいい人間が揃っていた。彼らも何らかの事情で売られてしまったらしく、中には嫌だ嫌だと声を上げる者も少なからずいた。突然の来訪に丹楓は嫌悪を向けられるかと思っていたが、彼らは驚いた眼差しを向けて絶句しているようだった。中には突然その場に崩れ落ち、「負けた」などと呟く煌びやかな女性がいた。
 丹楓はそれに興味を持つことはなく、ふらりとその場から立ち去って裏へと逃げ込んだ。不思議なことにここに馴染みを覚えた人間もそれなりにいて、想像よりも明るい職場だった。

 ――――それでも、丹楓の好みには合わなかったけれど。

 退屈なときはわがままを言って、いくつかの教材と本をもらった。暇潰しとして勉強に身を投じている間は余計なことを考えずに済んだし、物語に没頭している間は知らない世界を体感しているようで楽しかった。パラパラとページを捲って、紙の手触りを確かめていると、不意に丹恒のことを思い出してしまって、手から本が滑り落ちた。この本はきっと、気に入ってくれる内容だっただろう、と想像すれば何度も胸が痛くなった。
 本来の目的である体を売ることも、滞りなく行われた。初めてを失うことに対して泣きじゃくる子は多いと、彼は言っていたが、丹楓はそれを気にすることはなかった。どうせもう諦めた恋だ。今更どうこうできるわけではないと言い聞かせて、全てを捨てる覚悟ができていたからだ。――――ただ懸念すべき点は体に刻まれている数々の傷跡で。丹楓を強請った客にはあらかじめ体の事情を話していた。

 後悔はするなと念押しして、全てを曝け出した。真っ青なそれが残っている体を見られて、引かれるかと思っていたが、「綺麗だ」と言われて言葉を失った。何故だか脳裏に応星の姿がよぎって、どうしようもない胸の痛みが丹楓の体を突いた。
 それを覆い隠すよう、全てを委ね、何もかもを擲った。

 激しく燃え上がった熱い夜も、丹楓は寒くて仕方がなかった。一度捨てたものに縋るつもりはなく、その日を境にどんな要望も受け入れた。

 体を求める者、癒やしを欲しがる者。謎に飲み比べに挑み続ける客と、体の傷跡の調子を確かめるだけの客。世の中には色々な人間がいるのだなと、身を委ねながら思った。受け身で居続けている所為か、それともやたらと気に入られている所為か。丹楓に落とされる金は多く、彼は満面の笑みを浮かべながら給料を丹楓に差し出していた。
 丹楓はそれを一瞥したあと、彼女から言い渡された指定の口座に振り込むように言って、その場を後にする。元々金に執着する人間ではない丹楓は、住む場所を提供してくれているだけで十分だった。

 ――――順風満帆だった。何せ、酒は飲めるし雰囲気も悪くはない。稼ぎも悪くなければ、人付き合いもそこそこできる。客層は不思議と位が高い者が多く、羽振りだっていい。

 ――――けれど、年に一回。丹楓自身がどうすることもなく、無意識で涙を流してしまうことがあった。本人が自覚する前に周りが気付いてしまうほど、厄介な現象だ。無表情でポロポロと泣くのを止められず、やむなく彼はその一日だけを、丹楓の休日にすることとした。
 ――――そもそも丹楓は働き過ぎているのだ。言っても聞かずに、体を顧みず働くものだから、彼は「この機会にうんと休みなさい」と言い放った。

 店の裏に戻り、階段を上って自室を目指す。あの頃と何ら変わらない必要最低限の家具と、あの頃よりは増えた本が並ぶ部屋。その部屋の壁に掛けているカレンダーを見つめて、呆然と立ち尽くしながら止めどなく溢れる涙をそのままにする。
 おめでとうと呟いて、その日付を指先で撫でた。

 ――――休日だと割り当てられたその日は、二人で決めた丹恒の誕生日だった。

 ――――夢を見た。狭く、息の詰まる部屋の中心で、一人の少年が両手に何かを抱えて丹楓を見上げていた。黒い髪に青いインナーカラー、天色の瞳に見覚えがあって、丹楓はそれが幼い自分であることをすぐに理解した。
 その小さな自分が、瞳を潤ませて、両手に抱えているそれをぎゅっと抱き寄せる。足下に転がっている一枚の写真をよく見ると、以前五人で撮った写真だった。
 彼は必死に抱き締めていた、応星と丹恒に模した人形を。彼はずっと掻き抱いていた、今までに見てきた大切な人の写真を。いやだ、と。わすれたくない、と言って、ずっと泣きじゃくっていた。
 自分はこうも泣き虫ではなかった、と、丹楓は冷めた目でそれを見下ろしていた。そうすることをやめなければ、弟を守ることなどできないと分かっていたからだ。
 ――――しかし、それが自分自身であることも十分に理解していた。何せ、胸の奥が、心が絶えず悲鳴を上げているからだ。傷だらけの体で、大切なものに縋り付いて泣きじゃくるその姿は、丹楓が今まで押し殺してきていた自分そのものだった。

 ――――もう遅いのだ。
 丹楓は丹恒が無事に高校を卒業していたらこの年だろう、と指折り数えていた年を迎えたあと。それ以降の年数を数えるのをやめてしまった。