人気のない廊下を渡って、曲がり角を曲がるとほんの少し開けた場所がある。控えめな観葉植物と自販機があり、窓から差し込む光が一人用のソファーを照らす。光霊達が滅多に立ち寄らない場所、として、人混みから逃げられるようにあるものだ。
――とはいえ、その場所すらも奥まった所にあり、滅多に人は立ち寄ることがない。大抵の光霊達は和気藹々としていて、巨像の中で思い思いに楽しんでいるからだ。
だからこそそこは、彼らにとって都合のいい場所だった。
「手、後ろに回せよ」
「……分かってる」
ほんのり苛立ちでもこもっているのではないかと思える言葉に、ワタリは無愛想ながらも応えた。
白い壁にワタリを追いやり、バートンは壁に手をつく。晴れた日の窓の向こうは相変わらず青い空が広がっていた。それが、ワタリよりも数十センチ高いバートンが隠して、彼の眼前には傷を背負ったバートンの顔が映る。
白い髪に浅葱色の瞳。酷く好戦的な性格の割には白がよく似合う男など、そうそういないなどと思いながら、ワタリは彼の背に手を伸ばす。特別応える義理はないのだが、応えなければ多少なりとも反感を買ってしまう。そうなればバートンが巨像に帰還した後、痛い目を見ることになるのだ。
――一体いつから隠れてこんなことをするようになったのだろうか。
ほんの少しの疑問を頭の片隅に追いやりながら、ワタリはバートンの背に回した腕を組んだ。それを切っ掛けにバートンの顔がよりいっそうワタリへと近付く。形のいい唇が、荒々しい口付けを受け入れて、ワタリは静かに目を閉じた。
隠れてこそこそと交えるこの行為は、決まってバートンが遠征で巨像から姿を見せなくなる前日に行われる。初めこそは迷惑だの、意味が分からないだのと言って抵抗を見せていたが、回数を重ねていくにつれてそれとなく彼の意図が読めるようになった。
――所謂浮気防止だ。
到底ワタリが他の誰かに心を開き、体を許すなど有り得ない話ではあるが、バートンの目が届かない以上、不安は的確に潰しておかねば戦闘に没頭できない。そうした意味合いから彼は人目につかないような場所でワタリと口付けを交わし、記憶に残そうとしているよう。
そうして極めつけは、帰ってきた後の行動だ。
どうにも戦明けの体は興奮を湛えたまま、暫くは収まることを知りやしない。生死の問題に直面しているお陰か――彼は帰還したあとは執拗にワタリを求める節がある。
自分以外の残り香などついていないかどうか。少しの体も許してはいないかどうか。独占が入り交じったバートンの興奮は、ワタリの制止すらも聞き入れることはない。
――しかし、特別乱暴に扱われているわけではないのだ。
ちぅ、と小さなリップ音がワタリの耳に届く。凡そ数分に渡る口付けは、何度も角度を変えて時間だけを延ばしていく。舌を絡ませることがなければ、首筋を噛み付かれることもない。ただ、どうしようもなく喰われてしまいそうなほど、唇を貪られるだけだった。
今日は少し長い。――そう思いながらもバートンに応え続けるワタリは、背に回している手を離すことはなかった。この程度で済むのなら余計なことはしなくてもいいと、ほんのり諦めが混ざる決意を胸にしているからだ。
それに――ワタリ自身も少しは自覚している。胸の奥底に隠れて様子を窺っている、彼への恋慕を。
「…………こ行ったのかな……」
「――ッ!」
――不意に、普段なら聞こえてくる筈のない他人の声が、近くにまで聞こえてきたような錯覚に陥った。突然のことに驚いたワタリは、バートンの背に回していた手に力を込めて、小さく体を強張らせる。見られることに大して嫌悪は抱かないが、ある程度騒がれることは予想できていた。なるべく静かな空間で過ごし、且つ無駄話を好まないワタリにとって、それは避けたい事実ではある。
だが、バートンを振り払うことなど、今のワタリにはできなかった。
声の主はバートンを探しているようだ。頻りに彼の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。その間にもバートンはひたすらにワタリを貪り、彼を逃さんとばかりに壁から手を離し、ワタリの体を抱き寄せた。
――時間にして凡そ数秒の出来事。声の主は諦めて周囲から離れたようで、微かに聞こえていた声さえも聞こえなくなった。そのタイミングでバートンは唇を離し、じっとワタリの顔を見る。
こうなれば手を離しても問題はない。
ワタリはバートンの背に回していた手をほどきながら、「見られたらどうするんだ」と呟いた。普段なら無表情なその顔に、ほんの少しの不満を湛えながら。ワタリが見上げているバートンは、やはり静かに彼を見つめていたが、ワタリの文句を耳にすると「ハッ」と笑う。
「見られりゃよかったんだよ。そうすりゃ誰もお前に手を出さなくなる」
極力声は抑えたまま。ワタリを気遣って発せられた言葉に、彼は頭を抱えた。
「勘弁してくれ。騒がれるのは嫌いなんだ」
できることならなるべく静かなところにいたい。
――そう言いながら彼は回されている腕を軽く叩き、離してくれと呟く。それにしぶしぶ応え、ワタリを離すバートンは不満そうに顔を歪めながら舌打ちを溢した。どうやら見られてしまえばいいという言葉は本当に思っていることのようで、彼は軽く頭を掻きながら「仕方ねぇな」とぼやく。
そうしてワタリがなるべく騒がれないよう、自分ができる最大限の配慮のもと、バートンは踵を返した。
「浮気すんじゃねえぞ、ワタリ先生」
「……バートン、俺があんた以外にこんなとこを許してると思っているのか?」
惜し気もなく自分から離れていくその背に、ワタリは溜め息がちに言葉を投げた。すると――、バートンは軽く笑いながら「思っちゃいねえ!」とだけ言葉を残し、そのまま向こうへと歩いていってしまう。
本当に好きなのなら少しは躊躇いくらい見せればいいのに、と何度思ったことだろうか。
取り残されたワタリは一呼吸置いて、白い壁に背を預けた。少しでもいい、時間を置いてから自分の部屋に戻ることで、少しでも言い訳ができる状況が欲しいのだ。窓の向こうから見る景色はいやに綺麗で、到底自分には似合わないものだと、彼は思う。
貪られた唇に何気なく指を置いて、指の腹でそれをなぞりながら、数日後に想いを馳せた。まるでバートンの計画通りと言わんばかりの状況に、ワタリですら苦笑が洩れる。彼ほどの人間ならば、女も選り取り見取りだろうに――なんて思って、ふと、呟いた。
「……ああ……そう言えば、狼は一夫一妻か……」