はあ、と大きな溜め息を吐きながら応星は額に手を添えた。少しずつ秋が深まり、街中の銀杏の葉が緑から黄色へと色付く午前十一時。自分の作品を置いて並べてある大きくもなければ、小さすぎない店に入った彼は、作品たちの前で立ち往生する。店員とは顔見知りで、こればかりは景元が「世に出さないのは勿体ないよ」と言って用意してくれた場所だ。
売れているという印象は少しだって見受けられないように見えるが、実際は応星以外の作品もところ狭しと並べられている。その中の一角を彼は頂き、食器類や飾り、小物まで幅広く取り扱っているのだ。そのいくつかがすっかりなくなっているのを見て、傾向を判断する日々を送っている。
――そして、今日もまたその一連の流れを繰り返す予定だった。大皿に金の装飾を施したそれは、とある富豪が飾り立てるために買い求め、種類を広げるために作ったシンプルなデザインのティーセットは、ある主婦が気に入って迎えたのだという。
売れた、というよりは自分の作品が好かれ、認められ、迎え入れられたことがいやに嬉しく思う。収入など最早二の次だと認識はしているが、それでも暮らしに困らないほどにもなると、喜びも湧くのだ。
次は一体どんな作品を作ろう。日用品は特に必要とされていて、あればあるほど困らないはず。
――そう、普段なら考えるはずだった。
しかし、今日の応星はすっかり草臥れていて、眉間にシワを寄せている。目頭を押さえてぐりぐりとマッサージをする様は、それ相応の年を重ねた男の行動だ。
「あらあら、何か問題でもありましたか?」
そんな彼の様子を見かねて、店の奥から出てきたのは栗色の髪をひとつに束ねた一人の女性だ。優しげな目元に若草のように緑に輝く瞳が瞬いて、不思議そうに応星の顔色を窺う。女性に年齢を問いかけたり、考えたりするのは邪推、というものだが恐らく彼女は二十歳前半かそこそこだろう。応星よりも随分と若く、すべすべとした白い肌には、彼のようにシワなどこれっぽっちも刻まれていなかった。
若いっていいな。――そう年寄りのような呟きを心中に押し込み、応星は「いや」と首を横に振る。いくつか年が離れているとはいえ、相手は店主であり、自分は作品を置かせてもらっている立場である。考え事だとしても、失礼に値すると邪念を払い、彼は気持ちを一新するようにふう、と息を吐いた。
「作品自体に問題はない。ただ、もう少し年齢層を広げたくて」
「それはそれは。ふふ、作家の応星さんがそんな風に頑張っていると知ると、私も精が出ますねえ」
店主、――停雲はころころと愛らしい笑みを浮かべながら、携えている扇で口許を隠す。彼女の装いは骨董店に相応しいといったような着物を着ている。藤色をベースとした白へのグラデーションに、牡丹の柄が足元で花を咲かせている。カランコロンと音を鳴らしているのは、随分と履き慣れた様子の下駄で、すらりと着こなしたその様子はまさに和服美人、といったところだ。
そういえばこんなに近くに和服を着ている人がいたのか、と応星は改めて人脈の広さを実感する。彼の友人たちはといえば、特にそういった着こなしをしないことがもっともで。実際のそれを見ると何やらインスピレーションが湧いてくるようであった。
――それでも体が一向に動き出さないのは、数日間溜まり続けてきた疲労が原因だろうか。
それじゃあ邪魔はしないでおきますね、と停雲は踵を返し、カラコロと下駄を鳴らして店の奥へと戻っていく。その後ろ姿を見送ってから、応星は作品たちを前にして深く、深く溜め息を吐いたのだった。
疲労感の原因は明白だ。妙に重い瞼をこすり、応星は欠伸をひとつ。積み重なる寝不足は彼の思考を曇らせ、判断を鈍らせる。
実際のところ応星は寝不足になるようなことなどひとつもしていなかった。普段と何ら変わりのない家事に、掃除。近くにある工房にふらりと立ち寄って、焼き上げていた陶芸品の出来に満足感を得る。その作品たちにひとつひとつ丁寧に柄を刻み、絵を描いて乾きを待てば、一品ができるというわけだ。
応星はそれを日常的に繰り返し、停雲の元へと届けて店に並べてもらう。定期的に彼の作品を気に入った誰かが停雲を介して注文をするものだから、何を作るかなど困ることはない。注文を受ければ彼はそれに従い、満足してもらえるような作品を相手方に届けるだけだ。
――だが、その日常に少しずつ停滞の兆しが見え始めた。朝起きることに倦怠感を覚え、気が付けば九時を回ることがある日々。鬱陶しそうに体を起こし、洗面台で顔を洗って鏡を見たときは、その顔色の悪さに応星自身が引いたような言葉を洩らした。
本当に眠れているのかも分からない隈が、目の下に刻まれている。まるで何かに取り憑かれ、満足に日常生活も送れていないかのような風貌に、彼は一人で頭を抱えた。刃は普段通りの時間に起きているようで、リビングへと向かえば、無愛想にラップで封をされた朝食がテーブルに置かれている。最早在宅と遜色のない生活を送っている応星に対し、刃は外に出て稼いでいるものだから、申し訳なさが際立った。
原因はもちろん――数日前から色濃く見るようになった夢だ。
初めは深く眠りに就いた頃に声が聞こえる程度だったはずなのに、青年に会って夢を見たあの日からずっと同じような夢を見るようになった。まるで今まで記憶に蓋をしていたものが一気に溢れて、水の中でもがき苦しんでいるような気分だ。当初は記憶にすら残らなかったその夢も、回数を重ねるにつれて嫌でも頭に残るようになった。
一面暗闇だった景色は空が映り、ぽっかりと浮かぶ月は煌々と輝いて思わず感嘆の息を洩らすほど。どこかの建物の中で酒が注がれた盃を手に、ぽつりぽつりと会話をしながらくっと酒を飲む。ほんのり熱を帯びている錯覚を得た液体は、喉を通り食道を通って、胃へと流れ落ちる。その感覚を味わいながら隣に目を移せば――、必ずと言ってもいいほど彼がいた。
月光を受けて艶やかに煌めく漆黒の髪は惜しげもなく床についてしまっていて、折角の綺麗な黒髪が勿体ないと思うこと数回。彼もまた応星と同じように酒を飲み、月を眺めていた。普段なら姿勢を正しく座っていそうな装いであるはずなのに、応星と酒を酌み交わすこのときだけは足を崩し、だらしなく伸ばしている。それもまた様になるものだから、彼は足を組みながらぼうっとその横顔を眺めているのだ。
名前も知らない彼は、応星がじっと魅入るほどに顔が良い。すらりと通る鼻筋も、薄く開かれた唇も、陶器のように白い肌も、何もかもが完璧だった。とても偉い立場であるような気がしているが、応星と対等に並び、共に酒を飲む程度には良い仲でありそうだ。
応星は相変わらず彼のことを知りもしないが、その横顔だけで目が釘付けになるほど惹かれていることだけはよく分かる。月明かりを一身に受ける翡翠のツノは、何よりも美しく。その存在と対等でいられる自分はなんて幸運なのだと思うのだ。
ぽつりぽつり。彼もまた応星に何かを語りかけているようではあるが、その内容は一切応星の耳には届かない。しかし、彼は体の権限を剥奪されたかのようにその語りに唇を動かし、何かを返しているようだった。
意識だけははっきりとしている。これは夢だという実感もある。
だが、到底自分の意思だけでは動けない現状では、何をどうすることもできなかった。
――応星は軽く腕を動かし、床に広がっている彼の黒髪を一房手のひらに掬い取る。それはさらさらと女のように柔らかく、絹のような滑らかな手触りだった。どこまでも丁寧に手入れがされた様子の髪に、応星は微かに胸が高鳴るような錯覚に陥る。こんな風に触れられるのは他の誰でもない自分だけなのだと、まるで酔いに酔われたかのように、恍惚とした。
その応星に気が付いたのか、彼がゆっくりとこちらを見るのだ。
数日だ。数日かけて漸く見られるようになった彼の顔は、これまた見たこともないほど綺麗で。造形美、という言葉は彼のために作られたのではないかと思えるほど美しかった。黒髪が映える白い肌も、その見た目から発せられているであろう低い声も、応星の心を揺さぶるほどの凶器を兼ね備えていて。危うく意識の全てを夢に奪われそうになる。
極めつけは、海や空のように青く染まる[[rb:天色>あまいろ]]の瞳だ。一度目を合わせれば深海を思わせる静寂さを感じさせるのに、強く芯のある視線は、彼という一人の人間性を指し示しているかのように鋭い。真っ直ぐに体を射貫かれたように一度だけ応星は動きを止めたつもりだったが、夢の中にいる応星は、流れるように髪から手を離した。
二回、三回。会話を挟む。その内容は、やはり何を言っているのかなど理解できやしない。
――だが、何らかの会話をいたく気に入ったであろう彼は、今まで感情など存在しないと思わせるほどに澄まされていた顔を一変させて、フッと柔らかく微笑んだのだ。
――綺麗だ。月明かりにも引けを取らないほど。己の知識の全てをもってしても、彼のその美しさを形容する言葉など、ひとつも見つけられないほど。
そう、思った[[rb:瞬間>とき]]だ。
案の定彼の体を、音もなく鋭い針が正面からドッと、勢いよく突き刺してくる。
宙を舞う盃。ころんと転がった酒瓶の口から残っている酒が床を濡らしたが、応星はそれに気が付くことはなかった。体を刺す針の数は毎回増えたり、減ったりしている。それは応星ではなく、決まって彼を突き刺すものだから、それを目の当たりにする応星は毎回言葉を失うのだ。
刺された拍子に僅かに動く彼の黒い髪。その隙間から、天色の瞳が応星をじっと見つめる。口の端から流れる赤い鮮血に、応星は恐ろしいものを見たかのように血の気を失う。――だが、やはり応星とは裏腹に、刺されている彼は何でもないような顔をして、言うのだ。
――「忘れろ」と。
ズキリと痛む頭に手を当てて、応星は一人顔を顰める。自分は何かを忘れてしまっているのだろうか。夢の中でのみ邂逅する彼は、応星といやに親しげで、酒を酌み交わす仲だ。その上応星と同じタッセルピアスを片耳に付けていて、分かち合うように腕甲すらも互いに付けているのだ。こんなにも揃ったものを見せつけられて、何の関係性もないと決めつける方がおかしいだろう。
応星は頭に当てていた手をゆっくりとピアスに下ろし、タッセルの部分を柔く触れる。ふさふさと柔らかな手触りは現実のものであり、この世に実在しているもの。もし、彼と何らかの関係があるとするのなら、このピアスの片割れは、彼が持っているということだろう。
まさか、片割れが本当に夢の中で会う彼が持っているとは到底思えないが。恐らくきっと、似て非なるものを付けているに違いない。
――そう思って、応星はきつく目を閉じた。酷い寝不足で頭が痛む今、目を閉じてしまえばそのまま眠りに落ちてしまいそうではあったが、閉じなければ辺りの景色が目の奥をチクチクと刺してくるように痛むのだ。
――そう思わなければ、夢と現実の境目が、分からなくなりそうだった。
きゅうっと拳を握り、頭の中を整理しようと試みること数分。静かに呼吸を繰り返す応星の耳に届くのは、若い男女の声。それらが少しずつ近付いて、店に入るや否やきゃあきゃあと甲高い声を上げる。綺麗だと、ここなら良いものが見つかるかもしれないと、和気藹々と話す声は、応星の背後から聞こえてきた。
ああ、このままでは邪魔になる。――そう気が付いた応星はふと目を開けて、握り締めていた手を広げる。瞼の下に隠れていた藤紫色の瞳は暗く、どこか遠くを眺めているようではあるが、彼はそっと顔を上げて店を出ようと踵を返した。
「あ」
踵を返し、出入り口へと顔を向けた途端。パチリと合う目線に応星は思わずといった様子で口を開く。それは、眼前にいる彼もまた同じようで。右目の目元にだけ化粧を施した、灰青色の瞳を小さく見開かせていた。
「なになに、丹恒~、知り合いの人?」
「ああ、いや……知り合いというほどでもないが」
ひょっこり。丹恒と呼ばれた彼の背から顔を覗かせたのは、淡い桃色の髪を持った天真爛漫な少女だ。――とは言え、丹恒と親しげであることから同年代だろうと、応星は考える。その隣から辺りを興味深そうに見渡している男女は、顔が酷く似ていて、金のように輝く瞳も、灰に染まる頭髪も同じことから双子であるのだろう。
その双子と思われる男女も応星を見上げて、数回瞬きをする。まるで不思議なものを見るような目付きに、応星は首を傾げて「何か用か?」と試しに問いかけた。髪の色こそ年齢とは裏腹に真雪のように白く染まっているが、彼らの視線は今までに味わった好奇なものではない。ぱっちりと丸く、星のように瞬くその瞳の奥に、子供のような好奇心が見て取れるのだ。
――しかし、彼らは首を横に振ったあと、丹恒の肩をトントンと叩き、「知り合いなら話してきなよ」と呟く。
「ついでにここの常連さんなら、何かおすすめがあるか聞いてきて」
「俺たちは俺たちで色々探してみるから!」
なんて厚かましい。――口を開き、そう呟こうとしたであろう丹恒を差し置いて、双子は少女を連れて店内を物色し始める。その場に置き去りにされた彼はぼんやりと三人の背を見送ったあと、片手で頭を掻き小さく溜め息を吐いた。
――これは苦労している立場の顔だな、と応星は思う。自由奔放に動く彼らの手綱を握っているのは、丹恒と呼ばれている彼ただ一人なのだろう。無表情で着飾られた端正な顔立ちが、僅かに顰められた。――その中に小さく、微笑ましそうな色を見たのは気のせいではないだろう。
彼は友人――と思われる三人から目を離し、応星の顔を見上げた。数十センチの違いが、丹恒の顔の角度を大きく変えてくる。見上げられている応星は、多少の申し訳なさを胸にしながら「この間は大丈夫だったか?」と話しかける。
「ええと、君の、」
「…………丹恒で大丈夫です」
「そうか……? なら俺も応星で十分だ。敬語もいらない。堅苦しいのは苦手でな」
もし癖のひとつであれば無理に外すこともないが。
補足と言わんばかりに応星は言葉を付け足し、丹恒の反応を窺う。
応星の性格上、彼は自分の方が上だと思えばそう言った発言をすることがあるが、誰に対しても傲慢であるというわけではない。例えば自分にとって何の脅威でもないと分かれば、対等に接することを求めるのだ。それが年下であれ、何であれ、彼の意思は変わることはない。
けれど、相手が対等であることを嫌がれば無理を強いることもない。応星自身にむず痒さは残るであろうが、時間が解決してくれる問題だろう。
――しかし丹恒は応星の善意を受け取り、「じゃあそうさせてもらう」と言った。何故だか肩の荷を下ろすかのようにほっと吐かれた吐息に、応星は首を傾げる。だが、それはあくまで丹恒自身の問題であり、応星には何の関係もないのだ。
だからこそ彼は一瞬だけ首を傾げただけで、顔見知り程度の人間がズカズカと個人の問題に入り込むのも間違いだろうと、訊くこともしなかった。代わりに「丹恒」と呟いて意識を向けさせる。
丹恒は応星の声に反応して、じっと彼の言葉を待った。僅かに俯かれていた丹恒の顔が再三応星を見てくる。その際に小さく揺れる黒い髪が酷く目を惹いて、チクチクと頭を刺激するようだった。
「数日前に兄さんにりんごを買ってやってたろ? 気に入ってもらえたのか?」
――個人の問題に首を突っ込まないと決めていたが、何の話題もない。代わりに応星は丹恒と知り合った切っ掛けとなった先日の話を切り出す。そういえば半ば無理矢理交換してしまったりんごの存在はどうなったのかと、気になってしまった。
応星はといえば、傷付いていたとはいえ、該当箇所を取り除いてしまえば食べられるだろうと、結局アップルパイにして美味しく頂いたのだ。もちろん、弟である刃ももれなく処理を手伝ってくれていた。流石の応星もたった一人で食べきるのは困難であり、人手があると助かることは大いにある。
そのりんごを丹恒は無事に兄の元へと届けることができたのだろうか。ほんの少し前向きな返答を期待して訊ねてみれば、丹恒は気まずそうに頬を掻き、言う。
「兄は……その、気分じゃないと言って口にしなかった」
「…………そうか」
折角交換してもらったのにすみません。
先程敬語はいらないという会話をしたにも拘わらず、丹恒がそう謝罪したのは、応星が思ったよりも驚き、落胆したからだろう。小さく頭を下げて謝る彼を見かねてハッとした応星は「お前が謝ることじゃないだろ」と笑って、丹恒の頭を上げさせる。お兄さんはりんごの気分じゃなかっただけなんだから、とあたかも弁明するように呟けば、彼は薄く青みがかった灰の瞳を細めて「いや」と口を溢す。
「あの人は気分屋なところがある。人使いが荒ければ、傲慢なときだって」
ふん、と鼻を鳴らして腕を組んだ。少しの歪みもない顔が小さく顰められて、不満の表情を浮かべる。これは兄弟仲は悪い方なのか、と堪らず心配になると、彼は「だが、」と話を続けた。
「彼は、俺の面倒を見てくれているから……日頃の礼を兼ねて何か贈ろうかと思っているんだ。物ならぞんざいに扱うことはしない人だからな」
そう告げる丹恒の表情は優しく、僅かに綻んだ。その様子はまるで蕾が花を開かせるときのように静かで、柔らかい。応星の心配を他所に彼の兄弟仲は良好のようで。他人ながらも応星はそれが嬉しくなってしまい、「そうか」と言う。その声音が、理由もなくはしゃいでいる調子で、その声を出した応星自身もはて、と疑問を抱いた。
贈る物は決まっていないのだと丹恒は言う。その証拠に彼の友人と思われる三人衆――星、穹、なのかという名前らしい――は、丹恒から離れた場所で品物を物色しているのだ。「何がいいと思う?」という会話から始まったため、真面目に悩んでいるのだろうと思っていたのだが、「こういうのは面白みがあるよね」と言ってある置物を指さしている。
それは、店の手前に置かれている狸の置物――謂わば信楽焼だ。
ちょっと、真面目に考えてよ、とはしゃぐような声色を流し聞きながら、丹恒は応星に何か良い案はないかと問いかけた。彼らのように苦労をしたくはないのか、彼らの元に行かないのは丹恒の意思なのだろう。決して話をしなよと念を押されたからではなさそうな言動に、応星は頭を悩ませる。
そもそも一体何故応星がおすすめを訊かれるのか。あまりにも気になって試しに訊いてみれば、丹恒は「ここにいたから」と簡潔に言った。この店にいたから、何が良くて物持ちが良さそうなのか、詳しいのではないかと考えたようだ。
「うーん……俺は詳しいと言うより、ただの作り手なだけだぞ」
多少困ったように応星は眉を顰め、包み隠さずに己が作家であることを告げた。すると、丹恒は驚いたように目を丸くして「作った」と呟く。目の前にいるのが一作家だということが珍しかったのか、驚く丹恒を目にして少しばかり気を良くした応星は頷いてフッと笑みを浮かべる。
「ああ、作ったさ。俺の後ろにあるもんがそうだ。正直、そこら辺の物よりは物持ちもいいと思うし、それなりに気に入られていると思う」
定期的に注文依頼が来るほどにはな。
ふん、と応星は腕を組み胸を張った。草臥れていた様子など微塵も表に出さず、藤紫色の瞳を細めて意地が悪そうな表情を浮かべて見せれば、丹恒はきょとんとした顔で応星を見つめている。正直子供相手に妙に大人げないとは思うが、応星の作品に対する自信はとても大きいものだった。
彼は応星から目を離してぼうっと正面を、応星の背後にある作品を見つめ「そうか」と呟く。――そうか、と一呼吸置いてから全く同じ言葉を、まるで懐かしむように呟くものだから、応星は妙に引っ掛かる何かを覚えた。記憶の中にある何かを重ねてみているのか、綻ぶ表情がいやに優しい。
――一体何だ……?
チクリと眼球の奥を刺すような痛みが不意に応星を襲い始める。つい先程までは意識が逸らせていた疲労感が、今になって足を引っ張ってくる錯覚を得た。
そんな応星を置き去りに丹恒はつい、と応星を横切り、彼が作ったという品々を興味深そうに眺めている。端から端へ。色々な種類のものを作っているんだな、という言葉を溢して、ほんの少しだけ楽しげに作品を見ていた。
日用品がいいだろうか。――なんて独り言を洩らす丹恒に、何か決めているのかと問うが、当の本人は何も決めていないのだと言う。ただ、邪魔にならない程度の大きさであれば兄も嫌がりはしないと思うとも言った。なら茶碗だとか、湯飲みだとかはどうだと訊けば、丹恒はそれがいいかもしれないと、それらに目を配らせる。
茶碗から湯飲み、箸置きなんてものまで流れるように見てから――ふと目についた小さなそれに、彼は手を伸ばした。
「……そいつは盃だぞ? お兄さんは酒を飲むのか?」
丹恒が何の気なしに手を伸ばしたそれは、白地に楓が描かれた一対の盃だ。ひとつは赤一色で描いたもの。もうひとつは黄色から橙まで、秋の訪れを示すかのように葉の色が変わる様を描いたもの。どちらも応星が自ら手掛けたものであり、気紛れに作った小物のひとつだ。
いつしか秋の訪れと共に気に入ってくれる人がいれば迎え入れてほしいと思って停雲の店に置かせてもらっていたのだが――、丹恒が手に取るとは思っていなかった応星は彼に訊ねる。まさか、この真面目そうな青年が学生の身分で飲酒などすることはないだろう、と思いながら。
応星の問いに丹恒は「ああ」と頷いてから、呆れるように言う。
「晩酌は常に」
「常に」
「星が綺麗な夜なんかには、特に」
「へえ……」
はあ、と小さく溜め息が聞こえてくるようであった。丹恒の左隣にいる応星の耳に届いた彼の声音は、実際に溜め息が混ざっていただろう。彼と同じ言葉を繰り返した応星は、面倒を見てくれているという彼の兄が、常に飲酒をする人間だという事実が俄に信じがたかった。常に、ということは、丹恒の兄は今日も何らかの酒を飲むのだろう。
こりゃ結構な人間だな、と何気なくちらりと丹恒の横顔を見やるものの、彼は呆れるどころか微笑ましげに盃を見つめていて。声音と表情に齟齬が生まれているように見えた。彼曰く、丹恒の家は和式で、そこそこ大きな屋敷なのだという。畳があれば、縁側もあり、庭もある。庭に埋められている紅葉の木がもうすぐ赤く染まり、見頃を迎えるのだそうだ。
その縁側で、ちまちまと酒を飲み、空を見上げている様子を丹恒は何度も見てきたのだという。
それは風情があるな、と応星は言った。自分も成人してとうに酒を飲める身。飲もうと思えば飲めるが、ここ最近は飲酒をしていないことに気が付く。夢の一件が落ち着き、心に余裕が持てたら一杯やるのも悪くはないと考え込んだ。ついでに成人している刃も酒はいける口だ。兄弟揃って腹を割るのも悪くはないだろう。
そう決まれば早いところ問題を解決しなければ。
――そう一人で考え込んでいると、丹恒は再びじっと応星を見上げていた。その視線は相変わらず自分を見ているどころか、まるで心までもを見透かしてくるようなものである。
それがほんの少し居心地悪くて、咄嗟にどうしたと口を開けば、丹恒は手に持った盃を買ってもいいかと応星に訊いた。一体何故店主ではなく自分に訊くのか、酷く気になりはしたが、それよりも遥かに大きな疑問が口を突いて出る。
「その盃は対のつもりで作ったんだが、まさか丹恒……お前」
――とそこまで口にしたところで、丹恒は小さく首を左右に振って応星の言葉を否定する。学生なのに飲酒をするんじゃないだろうな、と言おうとしたのが彼にも伝わったのだろう。応星は丹恒が自分の言葉を否定したのを見て、ほっと安堵の息を洩らした。これで飲酒の手伝いをしてしまったとなれば、罪悪感が一生背中にまとわりついていただろう。
応星は無意識のうちに胸を撫で下ろし、肩の力を抜く。一瞬の緊張の所為か、全身に血流が巡ったような気がして、頬や体が熱くなってしまった。やはり彼は真面目な学生らしい。「そんなことをするような人間じゃない」と言って、手元に納めている盃に慈しみのような視線を向ける。
「それに……兄と酒を酌み交わす人はもう、とっくの昔から決まっているんだ」
その隣は俺じゃない。――そう固く決意されたような言動に、応星はそんなことはないだろうと口を挟みたくなった。今はまだ年齢が足りなくとも、成人して共に酒を飲めば感慨深いだろうと、言ってやりたくもなった。
けれど、丹恒の目が、視線が、あまりにも優しいものだから。応星は口を挟まずにただ、「そうか」とだけ呟いたのだった。