「刃は前世を信じているのか?」
己を鼓舞するが、如何せん体調が優れなければ満足する出来にすることはできやしない。さてどうしたものかと悩み、応星はリビングのソファーに座ったまま、流しに立っている刃に問う。カチャカチャと食器がぶつかる音と、水の流れる音が応星の背から聞こえてきていた。今日もまた相変わらず応星が食事を用意し、刃が後片付けをする日常が約束されている。
その後片付けのタイミングで、応星は刃に背を向けながら声をかけた。
以前彼が真面目な顔をして言われた「前世を信じるか」と問いが、応星は気になったのだ。
問いかけられた日の朝、食事をしていた夜。一言一句違わず投げられた言葉に、応星は「何を言ってるんだ」と笑って返した。何せ、刃が冗談を言うことなど、滅多にないと言っても過言ではないのだ。少しだって変わらない表情も、抑揚もない退屈そうな声音も、到底「前世」なんてものを口にするようなものではない。だからこそ応星は笑って「お前も冗談を言うことがあるんだな」と返したのを彼は覚えている。
それに対し刃は、何も言うことはなかった。ただ緋色の瞳を僅かに細め、じっと応星を見つめるだけだった。それは、丹恒が向けてくるものとは意味が違っていて、応星は刃に「本当に冗談だと思っているのか」と言い詰められているような錯覚に陥っていた。
――だからこそ彼は訊いたのだ。真面目な顔で、少しの冗談も含めていないような声色で言う刃のことだ。お前は信じているのかと問いかけ、返答を待った。万が一、刃が信じていると言っても驚かないよう、気持ちを整えて。――寧ろ信じていると言ってもおかしくはない。幼い頃から妙に大人びている弟の様子を、前世を知っているから、という理由で片付けられるのなら、少しは理解ができるからだ。
秋には少し肌寒いアイスを頬張りながら、応星は食器の音が一段落するのを待っていた。刃はキリが悪ければ口を開くことはない。それに気が付かず追い立てるように口を挟めば、逃げるように口を閉ざされてしまう。それを理解している応星もまた、自分のペースで話ができないことは苦手だった。
さく、とアイスのコーンを食らう頃合いに、蛇口を捻り、水を止める音が背から聞こえてくる。そのタイミングで刃が唇を開き、息を小さく吸う音が聞こえて、応星は咀嚼を僅かに遅らせた。
「――……信じていない、わけではない」
「…………そりゃまた、曖昧な……」
刃の回答を聞くべく疎かにした咀嚼を再開し、応星は訝しげな顔をする。己に前世を信じているのかと訊いてくるほどだ。顔や態度には少しも出さないが、刃は前世を信じているのだろう、と彼は決めつけていた。そうでなければ応星に不可思議なことを問いかけるほど、刃は冗談を言う性格ではない。何らかの理由があり、彼はそれに則って応星に訊いたはずだ。
だが、答えは酷く曖昧で、朧気で。確かなものではない。信じているわけではないが、だからと言って信じていないわけでもない。時と場合によっては信じることもあるような内容なのかと、応星は首を傾げた。
彼は弟である刃の言葉を信じたくないわけではない。嘘だの、冗談だのを応星は彼の口から聞いたことがないのだ。酷く真面目な顔で指さしながら「貴様は近寄らない方が身のためだ」と不器用な優しさを向けられることがあったが、その先に何もないときには流石の応星も背筋を凍らせたことはある。試しに「冗談だろ」と訊けば、いやに呆れた顔で「冗談だと思うのなら行けばいい」と言われてしまった。そうして足早に踵を返し、帰路に就くものだから、取り残された応星は何故だか妙な悪寒がして、その背を追う形で走ったことだってある。
――そんな彼の言動を、応星は兄として、一人の人間として受け止めるかどうかを悩んでいた。
正直、応星自身は信じても構わないのだ。信じた方が刃の言動が理解できる。幼い頃から泣くことを忘れてしまったような様子が、前世の記憶があるからだとすれば、彼は見た目よりも遥かに大人であることの証明にもなる。
ただ、――自分だけがどこかへ置き去りにされているような錯覚だけが、受け入れられないのだ。
「前世を『信じる』という方がおかしな話だろう」
アイスを食べ終えて、腕を組みながら頭を悩ませる応星の背に、刃は静かに呟く。その声はやけに透き通るように聞こえて、堪らず応星が流しにいるであろう刃の方へ体を向けた。ソファーの背もたれに腕を乗せ、体を半分ほど捻る。藤紫色の視線の先――、刃は長い髪をまとめた髪留めを取り、一息吐いた。
ひとつにまとめられていた、毛先の赤い髪が彼の背を覆い隠す。
「そいつはどういうことだ」
刃の行動が一段落したあと、応星はタイミングを窺って刃に訊ねる。まるで応星の言葉を少しばかり否定するような言葉に、多少の疑問を抱いたのだ。あたかも「信じる」という表現がおかしいと言わんばかりのそれに、応星は刃の言葉を待つと、彼は自身の手のひらを眺めながら言う。
「前世は過去の自分が送ってきた生そのものだ。それを、『信じる』か『信じない』かで言い表すなど、お門違いにもほどがある」
何故己のことを疑わなければならない。
――ふん、と鼻を鳴らし、刃は濡れていた手をタオルで拭いて水気を取る。ぶっきらぼうに切られた言葉の意味を応星は遂に理解することができなかったが、刃がいやに意味のありそうな言葉を紡いでいたことは分かった。あたかも自分は前世を知っているというような口振りに、応星の少年のような好奇心が小さく顔を覗かせる。どうやら知りたいという人間の本能はいくつになっても、衰えることを知らないようだ。
「刃、訊いてもいいか」
「……何だ」
念のため応星は確認を取り、刃がそれを許可するのを確認して、口を開く。
「お前の前世はどんなもんだった?」
本当に刃に前世の記憶があるのなら、彼はこの質問に答えることだろう。いくらデリケートな問題であろうが何だろうが、刃も応星も相当気に留めていない限りは答えないことはない。特に刃は本当に嫌であれば無言で抵抗するのだ。恐らく彼も、応星が先程訊いてもいいかと言ったとき、前世について触れるであろうと理解していたはず。
絶対に逃げられはしない。――そう確信を得ている応星は、刃を見つめてただ返事を待った。人間以外の生物なのか、海を泳ぐ魚の類いなのか。はたまた植物としての自我でもあるのだろうかと、様々な可能性を頭の中に並べ立て、応星は返事を待つ。
数秒の沈黙。それがひしひしと伝わり始めた頃、刃がゆっくりと、応星の方を見た。
緋色の瞳。鉄が熱を帯び、赤く染まったかのような深い赤。彼岸に咲く花のような色合いのそれに射貫かれた応星は、視線が交わるのを感じていた。逸らされることのないそれが数秒ほど経ったとき、応星はふと気が付く。
応星を見る刃の目付きがやけに険しく、冷めていて、――酷く呆れているようだった。
何も知らないのは自分だけなのではないかと、思うことがある。
応星は無意識のうちに作ってしまったらしい簪を片手に、頬杖を突きながら小さく溜め息を吐いた。金の一本差しに先端には楓の飾りをあしらった、以前スケッチブックに描き起こしたもの。無言で悩んでいても何も始まらないと、手当たり次第に自室でできるものを手掛けていたのだが、簪を作るとも思わなかった彼は頭を抱えた。
秋の訪れを示すかのようなデザインのそれは、恐らく万人に好かれるくらいにはなるだろう。今時簪を使って髪型を変える人間など、なかなか見ることはないが、部屋に飾るくらいのものにはなるかもしれない。
――そう思うものの、やはり作り手としては実際に使用しているところを目にしたい欲がふつふつと湧くのだ。
しゃらしゃらと軽い音を奏でる簪を、自らの手で壊さないようにそうっと机に置き、応星は背筋を伸ばした。気が付けば二十一頃を表示していたはずのデジタル時計は既に二十三時を示している。いつぞやの夜と全く同じような状況に、彼はとうとう二度目の溜め息を吐いた。頭を抱え、先程の刃とのやり取りを思い出す。
彼はひとつの言葉も呟くことはなかった。ただじっと、応星を見つめて、つまらなさそうに彼を眺めるだけ。何かしらの意図はあるのだろうが、それを汲み取ってやることのできない応星は、その視線をじっと返すだけだった。
――やがて刃は痺れを切らしたように視線を逸らし、そのままリビングを出るために足を踏み出す。黒とも取れる刃の髪は彼の動きに倣うように舞い上がり、波を打つ。不機嫌、というわけではないが、話す気もなさそうなそれに応星は言及こそはしないものの、唇をへの字に曲げた。知りたかったことがひとつも知れないこの状況を、彼はどうすればいいのかも分からずに、刃の背を見送ったのだ。
あの視線はどこか、応星を責めるようにも見えて堪らずいたたまれなくなる。くらりと目眩を覚えかけてしまう状況。机の上に置いた簪を指の腹で弄び、唸りながら応星は机に突っ伏した。刃は恐らく前世を覚えているに違いないのだ。その前世を、応星に話す気がないだけで。――それがほんの少しだけ寂しいと、応星は思ってしまっているだけで。
刃が話す気がないなら踏み入ることはしないのだが、どうしても彼の視線が「どうして思い出せないんだ」と咎めているように見えて仕方がなかった。
どうしてそう思ってしまったのか、応星には到底分かるはずもない。ただ、このままでは生活に支障が出てしまうと、ずるずると重い体を引きずってベットに倒れ込む。ここ数日は立て続けに夢を見てしまって、ろくに眠れやしなかった。――いや、正確に言えば、眠っているはずなのに寝た気がしないのだ。
まともな思考にならないのはきっと、夢に捕らわれている所為。だからこそ応星は、今日こそは眠りに就きたいと強く願いながら布団をかぶり、強く目を瞑ったのだ。