前世


 ――そう、願っていたはずなのに。

 切実に願う応星を神は許してはくれなかった。今宵もまた、彼は月夜を眺めながら盃に酒を注ぐ。とくとくと小さなそれに酒を入れてから、隣にいる彼に慣れた手つきで差し出すのだ。
 ああ、またか、と何度思ったことだろう。この視点は明らかに応星自身のものであるというのに、思考と行動は別々にされてしまっている。この頭で考えているのは、現実の応星のものであり、どうしてまた同じような夢を見続けてしまうのかという疑問に苛まれている。何かの意味があるのか、それとも呪いの一種なのか。意思とは反して決して自分の意思では動かないこの体に、彼は何度も嫌気が差してきた。
 いい加減にしてくれ。夢ならとっとと覚めてくれ。
 ――そう思うこと数回。応星は目の前にいる彼がこちらを見て、月明かりのように柔らかく、優しく微笑んだのを見た。

「――応星」

 ――確かに聞こえた彼の声。今まで聞こえなかったはずのそれは、思ったよりも低く。静かな湖畔にひとつの波が立つように、嫌気が差していた応星の鼓膜を揺さぶった。耳触りが良く、月明かりが差し込む夜にはよく聞こえるほど、心地の良い声色。それに、応星自身は面食らったように呆然としていた。
 まるで霧が晴れるかのように清々しく、軌跡を辿るかのように声がはっきりと聞こえてくる。幾重の感情をその一言だけに詰め込んだであろう彼の声は、甘くとろけるように優しい。それこそ見た目にそぐわないほどだから、現実の応星は彼の声に耳を傾けてしまっていた。
 ――否、その声に耳を傾けてしまっていたのは、何も現実の応星だけではなかったのだ。差し出した盃を受け取ってもらったにも拘わらず、応星の体は少しだって動くことはない。応星の視線はただ、目の前にいる月光のような彼に縫い付けられたかのように、釘付けだった。
 水底から海面を見上げたときに見る海のような青い瞳。キリリと鋭いそれが、今夜ばかりは僅かに弧を描き、柔和になる。少しだって隙を見せない彼の表情は、愛しいそれを見つめる恋人のよう。――少なくとも応星はそれに視線を奪われ、動くことも忘れてしまったのだろう。
 ここで初めて応星は、自分の胸の奥がいやに五月蠅く高鳴っているのに気が付いた。今までにそうであったかどうかを疑問に思うほど、奥底でドクドクと主張をしている心臓に、応星の片手がきゅうっと握り締められる。現実の応星の意思ではないそれは、彼に悟られないように精一杯耐えているものだった。

「今宵の月は美しいだろう。日頃から工房にこもっている其方のことだ、少しくらい息抜きになるかと思って誘った」

 案の定渋られたが、来るとは思っていたぞ。
 そう言って猫のように目を細める彼を見て、応星は小さく笑った。全部お見通しってことか、と彼は漸く手を動かし、自分の盃に酒を注ぎ始める。トトト、と軽快に流れていくそれを見ながら、応星は心臓を落ち着かせるように呼吸を整えていた。もちろん、隣にいる彼に気が付かれないように、だ。

 工房――彼が紡いだ言葉に、応星の思考が働き始める。夢の中の自分も工房にこもる仕事をしているのかと、まるで他人事のように聞き耳を立てていた。ここ数日は意図的に減らしていたものの、職人として作品を作る以前の応星は、自分の体も顧みず工房にこもっていたことがある。それを、刃を初めとして友人である景元や、匠たちが口煩く止めに来たものだから、意図的に減らしてきたのだ。
 睡眠を取らなければ良い作品は作れないよと、景元の台詞が今も尚耳にこびり付いている。ほんの少しの苦笑と、心配そうな声色が頭から離れず、「夢の中の自分も同じように没頭しているのか」と何気なく思った。全く同じ名前であり、同じように職人の道を辿っているらしい己に、ふと刃と話していた「前世」の話題が脳裏をよぎる。
 もしもこの夢が、前世と全く同じ意味合いを持つものであるならば、現実味を帯びたこの感覚も実際にあったことなのだろう。――到底そうだとは思ってもいないが、応星は妙に鮮明になっていくこの夢に、少しばかり意識を傾けた。

 [[rb:応星>からだ]]は満たした盃を口に付け、勢いよく酒を喉の奥に流し込む。まるで隣にいる彼に目を、心を奪われているのを酒の所為だと誤魔化すように。熱もないはずの液体は、食道を通った後に体を温める。ほくほくと、体の芯から温まるような感覚に、応星は再び酒を注いだ。
 酒を呷る応星を眺めてから彼は夜空を見上げ、ちみちみと盃に口を付ける。「悪くない夜だな」とどちらかが呟いたが、どちらが呟いたのかも分からないほどの小さなそれに、応星は瞬きをした。
 ふわりと冷たい風が頬を撫でる。その風が冷たいと感じるのは、応星の体が火照っているからなのか、それとも季節のものなのか、応星には見当もつかなかった。ただ、彼と同じように軽く空を仰げば、視界の端に映る紅葉が夜空を彩っているのだ。
 夜だというのに機械のような鳥が微かに飛び交う。ちかちかと瞬く星が十分に目に見えるほど辺りは明かりが少なく、人の気配も疎らだ。その状況に応星自身が違和感を覚えるということは、この場所は普段から人で賑わっているのだろう。ふと、唇が勝手に「ここで酒を飲むなんて珍しいな」と動いた。いつもならあそこで飲むだろう、と言っていて、場所に心当たりのない応星自身は首を傾げる面持ちでそれを聞いていた。
 その応星の呟きに、彼は「たまには悪くないだろう」と言う。

「案ずるな。人払いはしておいた」
「それはお前が言う立場じゃないだろ……」

 酒を一口。苦笑を洩らしながら応星はそれを飲む。正直なところ、味など少しも分からない。ただ、飲む度に体が温まるものだから、頬に集まる熱が酒の所為だと言い訳ができる状態になれるのだけは都合が良かった。空には満天の星が。下から照らされる楓が赤く色付いていて、味気のない空を華やかにしている。こんなにも目を張る目映い月が大地を見下ろしていると言うのにも拘わらず、応星の視線は絶えず隣へと注がれていた。
 自分もどうかと思うほど、応星の視線は隣ばかりを見つめている。その視線に気が付いたのか、或いは気晴らしか。彼は思い立ったように席を立ち、木製の手すりに手を突く。鶴が描かれた長い袖が風に煽られ、そこから覗く腕は女のように細い。あの手首を掴んでしまえば、自分の指と指が触れあってしまうのではと錯覚するほど、頼りなかった。
 それでも彼はこの地で重要な地位を背負って生きている。――夢を重ね、何をすることもできない応星は、夢に身を委ねることしかできない。その中で応星が得たものといえば、自分のことよりも目の前にいる美しい男のことばかりだった。

 輪廻転生を繰り返す「不朽」の末裔、或いは「龍の血族」とも呼ばれている彼。持命族の龍尊、飲月君。応星よりもいくらか背の低いその体に背負う使命はあまりにも重く、いつの日にか折れてしまいそうな錯覚さえ抱かせる。頭部から覗く翡翠のツノはまさに龍の象徴であり、時折姿を見せる透き通る長い尻尾は、彼をただの人間ではないことを証明していた。
 死にかければ真珠のような卵へ還り、時が経てばその殻を蹴破って海から顔を出す種族。その頂点に立つ存在であるということ――ただ、それだけが応星の記憶に強く根付く。応星は一度死んでしまえばそこで「応星」という人間の人生は終わるが、彼の場合は別の個体としてまた生まれ直すのだ。
 生まれ直し、また生を巡る。――到底応星には理解できない生を、彼は送っている。
 その所為だろうか――、応星自身が彼を見つめることに多少の違和感を抱き続けるのは。手を伸ばせば届く距離にいるにも拘わらず、応星はそれをしない。心ではいくら惚れ込み、求めようが、彼の中にある理性が「身の程を知れ」と何度も語りかけてくる。地位も、種族も、到底届きはしないのだ。諦めるのが筋だと、言い聞かせてくるのだ。
 だからだろう。応星が彼を見つめることはあれど、わざわざ彼に触れようとする様子を見せず、頻りに手のひらを強く握っていた。月光を受け、なびく黒い髪に馳せる想いが応星の胸を僅かに突く。同調しているつもりはこれっぽっちもなかったのだが、どうにも彼に惹かれているらしいと自覚する頃には、全てが手遅れだった。

「――どうだ。美しいとは思わないか」

 月明かりを浴びながら、彼は応星に振り返って言った。その際になびく黒髪が艶やかで、あまりにも綺麗で。応星はそれを見てから微かに口許を緩める。

「ああ、綺麗だ」

 端的に、簡潔に。必要以上の言葉を紡ぐこともなく、彼はたった一言だけ返す。濃紺に染まり、夜空との境界線を失う彼の輪郭を、月が、楓が浮かせている。現実味のない彼の存在が、目の前にあるのを実感するように、応星は肯定を溢していた。

 ――それは空の月に向かって言い放ったものじゃないだろうな。

 ふと、現実の応星が呆れたように自分自身へと溜め息を吐いた。実際には応星自身の口からは何も溢れず、彼は酒を口にするばかりで呆れもしていないのだが。思考だけは相変わらず別々の意思を持ち合わせたかのように分かれているのだ。そんな応星が、客観的に見た自分に呆れを覚えてしまった。
 応星が綺麗だと言ったのは、一見月夜についてだと思われるが、決してそんなことはない。自分自身の目から見ている景色は、周りの紅と、月光に浮かされた彼の輪郭だ。夜に溶けんばかりの絹のような髪に、陶器のような白い肌。衣服に隠されてしまっているが、頼りなさそうな彼の腕に、どうしようもない加護欲が掻き立てられる。桜の花にも似た彼の儚さがよりいっそう、美しさを掻き立ててくる気がして。唇から紡がれたその言葉は、案の定彼に向けられた言葉だった。
 ――しかし、それを知る由もない彼は「ならば工房にこもりきりになるのも大概にしろ」とだけ言って、再び応星の隣へと座る。椅子の背もたれに背を預けて、空になった盃を傾けるものだから、応星は慣れた手つきで酒を注いでやるのだ。

 飲み過ぎも大概にしろよ、龍尊様。

 ――そう軽口を叩きながら応星は笑って言うと、彼は唇を僅かに尖らせて「どの口が言う」と言い放つ。

「余に言わせれば大概にすべきは其方の方だ、応星。短命種の命は短い。その命を削る行為を取るのは誰だ?」
「はいはい、他でもない俺ですよ」

 そう口では言いつつも、応星は酒を呷り続け、彼も止めもせずに酒を呷る。彼も彼で応星と酒を酌み交わすことをいたく気に入っているようで、月を眺めて機嫌が良さそうに鼻を鳴らした。ふん、といつもと変わりのない態度。最早地位も種族も関係のない態度に、心なしか彼もそれを堪能しているような気がして、応星はゆっくりと酒を飲む。
 月明かりに照らされる彼を眺める自分、というのはなかなかに露骨で、応星の視線に気が付かないのかと疑問が浮かぶ。景色ではなくすぐ隣にある月を眺め、進む酒は何と美味いことか。すいすいと進む手が止まることなく酒を口へと運ぶものだから、ああこれは相当だな、と応星は思うのだ。

 ――これは相当、好いているのだと。

 現実では応星は女性との付き合いしか経験していない。それも、行為こそはあれど、決して長続きしない奇妙な付き合いだ。彼は彼なりに相手を好いているはずなのだが、相手からすると到底愛されているような気がしないのだという。
 初めこそはその理由が分からなかった。何せ、応星自身は目の前にいる相手を好く方法しか知らないからだ。相手に合わせ、相手のしたいことを何よりも優先させて、欲を叶えてやる程度のことしか知らないからだ。そこに好意は確かに存在しているはずで、少なくとも好いているからこそ、できていたことである。
 ――が、今こうして夢に身を委ねて気が付いてしまった。応星は確かに相手に好意を抱き、自分なりに好いていたはずだが、この月光のような彼に対する感情に比べれば、到底足りやしないのだ。
 応星はこんなにも誰かを見つめ続けたことはなければ、表情を目に焼き付けようとしたこともない。黒くなびく髪の一房を手で掬い上げ、口付けをしようと考えたこともなければ、この隣を他の奴に譲りたくないと強く思ったこともない。
 彼の耳にあるタッセルピアスも、腕甲も、互いに片方分け合って付けているという優越感に浸っていたことも、なかったのだ。
 これこそが応星が長続きしなかった理由のひとつだろう。自分のことながら、胸の内に潜む腹を焼くような熱は、生きていて一度も味わったことのない熱だ。いくら酒で誤魔化そうとも、この熱は一向に誤魔化しようもないだろう。

 ――けれど、応星は決してその想いを口にすることはないようだ。

 あまりにも客観的なそれに、他でもない応星自身が他人事のように疑問を抱いてしまう。端から見れば彼もまた、応星に心を許していると見えるのだ。軽口を叩き、互いに装飾品を分け合うほど、仲の良い間柄なのだから、少しの欲を見せたところで彼は応星自身を否定することはないだろう。
 それでも応星が彼に欲をぶつけないのは、種族の違いからか。それとも、抱えている地位の違いからか。或いは寿命の関係か――。

 ――いや、どれもだな……。

 疑問はふつふつと湧いて、応星はそれをひとつひとつ紐解くように自答する。
 不朽の末裔――、持命族であり、龍尊で飲月君という異名を持つ彼を、ただの一介の人間に過ぎない自分がどうこうできるわけがない。彼の言う「短命種」は紛れもなく応星を指し示しており、その口振りからして彼は長い時を生きているのだ。
 夢を漂う気持ちでぼんやりとそれを見ていれば、嫌でも彼との差をまざまざと見せつけられてしまう。そうして仮に、この想いを彼にぶつけたところで自分が残せるのは、一体何なのだろうか。
 ――そう思えば思うほど、夢の中の自分が正しい判断をしているように見えて仕方がなかった。夢でも現実でも、この自分はやはり[[rb:応星>じぶん]]なのだろう。仮にこれが本当に前世なのだとすれば、悔いしか残らない人生になっただろう、と彼は思った。体は自分に言い聞かせるように、現状で満足するよう満たされてはいるが、物足りなさも妙な寂しさも、拭われることはなかった。
 そうしていつの間にか、応星は夢から覚めるのを願わず、ただ時間が過ぎるのを待っていた。無駄な抵抗は心身の疲労に繋がっていると、何気なく思ったからだ。その上、この心地のいい時間を過ごすことが、少しばかり癖になっていたのだ。彼も彼なりに、目の前にある月に見惚れ、ぼうっと目に焼き付けようとしていたのだ。
 ――それが不意に訪れるのを、頭から忘れてしまったかのように。

「応星」

 ――ぽつりぽつりと会話を挟んでいると、ふと、彼が澄んだように低い声で応星の名前を呼んだ。それに応星は「何だ」と返事をして、盃を机の上に置く。コトン、と陶器を置く音は耳を澄まさなければ聞こえないほど小さく、彼の声を聞き逃さないよう細心の注意を払われたようだった。

「――……?」

 しかし、いくら応星が彼の言葉を待とうとも、彼はその先を口にすることはなかった。
 不思議に思い、酒による熱に呆ける意識を手繰り寄せ、応星は彼に目を向ける。話をするときは相手の目を見るのが礼儀ではあるが、心地のいい心持ちであった応星は、時折景色に目を配らせていた。人払いをしたということが窺えるほど静かな空間に、彼と二人きりであるという優越感に浸るように。
 そうして逸らしていた目を、彼に向けたのだ。

 ――ド、と。何度目かのそれが、応星の目の前で行われた。

 藤紫色の瞳に映り込むのは、再び月を背負い、月光を背に受けた彼の姿。背中から針がひとつ彼の胸を貫き、その反動で彼の体は大きく弧を描く。[[rb:弓形>ゆみなり]]に[[rb:撓>しな]]る体が僅かに宙を浮き、髪はふわりと舞い上がる。黒い針の先端は彼の鮮血によって赤く浮き上がり、その存在を大きく主張した。
 カラン、と白い盃が地面へと溢れ落ちる。随分と時間をかけて味わっていたのだろうか――、未だに中身が残っていたらしいそれは、落ちる反動で宙を舞ったあと、地面を濡らしてしまった。変色した地面に、落ちた盃に応星は意識を向けることができず、言葉を失う。まるで初めてその光景に出(で)会(くわ)してしまったかのように、応星は「……え……?」と声を洩らした。
 ――漸く、自らの意思で声を洩らしたのだ。

「お、うせ……い」

 己を奮い立たせ、喉から絞り出したかのように紡がれる彼の声に、応星は震える足で立ち上がる。
 すると、彼が驚いたように天色の瞳を丸くして、くっと息を呑んだのが分かった。直後に彼の眼前から二本の針が、彼の両肩を貫き自由を奪い始める。こぽりと彼の形のいい唇から赤い血が溢れた。どうやら最初に彼の胸を刺した針が、彼の胃を裂いたようで。バタバタと溢れ落ち地面を汚す様を、応星は眺めることしかできなかった。
 そうして不意に、彼の透き通るツノが、根元から割れるように甲高い音を立てながら崩れ落ちる――。
 パキン、――コン、コン
 ――そう音を立てて落ちたそれに、応星は強い目眩を覚える。一体何故、どうして。何が理由でこんな状況に陥ったのか、応星には少しも理解ができなかった。ぐるぐると頭を巡る疑問と、少しも見出せない対処法に応星の足は動くことはない。まるで足元が何かに縫い付けられたかのように、微塵も動きはしないのだ。
 海のように深く静かな色を湛えた彼の双眸は暗く、まるで深海のように染まり始める。いくら不朽であれ、輪廻転生が可能であれ、応星には今の彼が命の灯火を他者の手で掻き消されそうに見えて仕方がなかった。彼は動きこそ封じられ、力なく項垂れているが、再度振り絞るように応星の名前を口にする。

「応、せ、い」

 途切れ途切れで、見た目と同じように頼りない声で、彼は応星の名前を呼ぶ。

「……、……っ」

 応星もまた、彼の名前を呼ぼうとしたが、どうしたってその言葉は紡がれることはなかった。まるでそこだけが記憶からすっぽりと抜け落ちてしまったかのように、彼の名前を口にすることができないのだ。

「……う、星……」
「……いい、やめてくれ……話さなくていい……!」

 遂に彼の言葉は聞き取りにくくなり、応星は咄嗟に話すことをやめさせようと言葉を放つ。今まで夢だからと動きは自由が利かず、ただ思考だけが独立していたというのに、今ではこの体は現実の応星のものとなったようだ。思ったことを口に出す自由に、応星は少なからず驚きを覚え、すぐさま頭を小さく左右に振る。
 今はそんなことに現を抜かしている場合ではないと、震える足を動かして彼の元へと歩み寄った。コツコツと自分の足音がいやに大きく聞こえるほど、辺りは静寂に包まれている。だが、頬を撫でる風は木々を揺らすほど強く、赤い葉は朽ちるのを催促されるかのように舞い落ちた。
 眼前を舞う紅葉に目を奪われることなく、応星はカタカタと情けなく震える手を伸ばす。まるで全身の血を抜かれるように体は熱を忘れ、酷い寒さに見舞われた。震える応星の手は彼の頬を手繰り寄せ、優しく包んでやる。儚いそれは、割れ物を扱うように触らなければ今にも崩れ去ってしまいそうで。血の気が引いた応星の手よりも遥かに、彼の頬は冷たかった。
 あたかも先程まで酒など飲んでいないと言えるようなその冷たさに、応星は懸命に口を開いては閉じてを繰り返す。息を吸って、それでも名前だけはどうしても口にできなくて。
 あまりのもどかしさに堪らず彼の顔を窺うよう上げてやれば、今にも眠りに落ちてしまいそうなほど緩く瞼が落ちかけている彼の顔があった。

「おい、……なあ、聞こえてるか」

 思わずそう声をかけたが、応星は頭の片隅ではこれは夢だと認識している。認識しているが――夢の中で触れる人間の体にしてはあまりにも生々しく、氷のように冷たい。光を失う彼の瞳が死に向かうそれと全く同じで、応星は震える声で「起きろ」と呟く。
 それが自分に対してか、それとも彼に対してか全く分からないまま、起きろと言ったその瞬間――彼の体を貫くそれが、惜しげもなく彼の体から引き抜かれてしまった。
 必要以上の出血をさせないためには、彼を傷付けた原因でもあるそれは引き抜かれるべきではなかった。しかし、その針は音もなく不意に現れ、彼の体を貫いたあと、再び音もなくその姿を眩ませてしまう。損傷による出血を抑える壁の役割を失った彼の体は、貫かれた箇所から目を瞑りたくなるほどの出血を始めた。
 ボタボタと地面に赤黒い水溜まりが広がっていく。少しずつ床だったものを鮮血に染める彼の体は力なく倒れ、応星はその体を抱える形になった。
 全身が赤く染まり、辺り一帯は身の毛のよだつほど錆びた鉄の香りで噎せ返る。鼻の奥をツンと刺激するそれに、これは本当に夢なのかと応星は疑いながら、彼の体を抱えたままその場にゆっくりと屈んだ。どうすればいいのか全く分からないが、むやみやたらに動かすことは得策ではないことくらい、応星も理解している。
 だからこそその場に屈み込み、彼の頬を撫でた。

「……おい……」

 飲月君と呼ぶべきか、それとも龍尊様と呼ぶべきか。直前まで迷いに迷った末、やはり応星はその固有名詞を口にすることはなく、ただ力なく倒れる彼に声をかける。すっかり醒めてしまった酔いはその名残を見せることはない。儚く綺麗だと目に焼き付けていたはずの存在が、見るも無惨な姿にされてしまったのを、応星はただ黙って見ることしかできなかった。
 ふつふつと胸に湧くのは、行き場のない憤りと、途方もない悲しみ。一体何のためにこんな夢を見せられているのかという苛立ちと、何もできない自分にどうしても腹が立った。――それと同時に、彼を失うかもしれないという不安が、応星の足元を這い続ける。
 夢なら早く覚めてくれ。彼を失わせないでくれ。――そう訳も分からずに思っていると、彼の手が小さく、ぴくりと動いた。

「おう、せ」

 そうして何度目かの応星への呼びかけに、応星は「もう喋るな」と咄嗟に返す。目頭がカッと熱くなるような気がしたあと、彼の頬を目がけてぱたぱたと滴が落ちた。それが応星自身の涙であると気が付くのに数秒の時間を要したが、応星はそれを気にしている余裕も持ち合わせてはいなかった。
 彼は応星の言葉に従うこともなく、傷付いた腕を懸命に動かし、応星の頬へと手を伸ばす。
 それに気が付いた応星は咄嗟に彼の手を取って、「何だ」と問いかけた。彼の体を支えていたために使っていた手が、鮮血で汚れてしまっていて、彼の手を汚してしまうことに気が付いたのは問いかけてからだった。
 彼の手は覚束ないながらも応星の頬を、輪郭を指先でなぞる。その指先があまりにも力がこもらなくて、応星の唇は小さく震えた。もう少しで消える命の灯火がそこにあると思うと、足元から崩れ落ちる錯覚に陥る。
 ――そんな応星に対し、彼は妙に優しい笑みを湛えるのだ。

「――忘れろ」

 静寂を切り裂くようにはっきりと聞こえた声。それが、己の眼下から発せられたものだと知っていて、応星は「え、」と声を洩らす。

「何も思い出さなくてもいい」

 まるで体の傷など初めからないと言わんばかりのはっきりとした口調に、応星の頭は理解することを放棄し始めた。

「何も知らなくていい」

 彼は絶えず応星の頬を撫でて、いつも通りの台詞を言い続けた。
 それが、夢の終わりとなる決まり文句だ。

「――全て、余が背負おう」
 ――だから、全てを忘れて過ごせばいい

 ――たったそれだけの言葉を残すため、彼は応星を呼び、傍らへと置いたのだ。
 それに気が付いた応星は、ゆっくりと目を覚まし、転がっていた体を起こす。すっかり夜も明けて、小鳥たちが今日も平和そうに小さく囀り合っていた。チュンチュンと軽い鳴き声がする方へ視線を向けて、応星は朝日が差して明るく染まる遮光カーテンを見つめる。その目から一筋の涙が溢れ落ちた。

 一体何を忘れろと言うのか。

 彼は覚束ない足取りでベッドから降り、ふらふらと自分の机に向かい始める。体は鉛のように重く、何日もの疲労が蓄積しているかのようだった。指先のひとつを動かすにしても相当な意識と、気力が必要で。漸く机に辿り着く頃には息が上がるほど。それほどまでに体力がすっかり落ちてしまったように思えたのは錯覚だろうか。
 それでも彼は書き留めなければならない。起きて鮮明に覚えている間だけの、夢の内容を忘れないように。まるで呪いのようにかけられる「忘れろ」という言葉に従うように、数分も経てば忘れてしまうあの夢を、覚えていなければならない。
 応星は傍にある鉛筆を手に取り、覚えている限りのことを懸命に書き起こした。彼の目を見張るほどの容姿。女に引けを取らない黒髪に、柔らかな月のような微笑み。赤く染まった楓も、目映い月明かりも。意図的に、深く記憶の奥底で眠るそれを掘り起こすかのように。
 衝撃が強ければ強いほど、夢は鮮明さを失っていくようだった。いくら同じ夢を見て嫌でも覚えていられるようになったとしても、彼の言葉の力はやけに強いのだ。

 ――そうして応星は夢をあらかた書き起こし、持っていた鉛筆を手から溢す。ぽとり、と小さな音を立てて落ちたそれを後目に、彼は膝から崩れ落ち、頭を抱えた。あんなにも夢の中で目に焼き付けたはずの彼の顔が、今ではすっかり思い出せないのだ。
 つい最近までは漸く記憶に留めていられたというのに。

「くそ……何で、何でなんだ……俺は、何を忘れてるんだ……」

 あんなにも目を奪われ、月夜にも目もくれず、飽きずに見惚れていたというのに。彼の顔だけは靄がかかったように薄れてしまって。応星は白い髪をぐしゃぐしゃに掻き回してから、絶えず流れ続ける涙を拭った。誰かを好きになるのはこんなにも気が狂いそうになるのかと、酷い頭痛と吐き気に襲われながらも思っていた。
 そして今日も彼は寝過ごしたのだと裏付けるように、刃が部屋の扉を軽く叩くのだった。