――多分、一目惚れとかいうやつだと思う。
そう言っていた男を見上げてみたが、頬が赤く染まっているわけでもなかった。恥ずかしさも何もない――寧ろそれすらも通り越して、酷く冷静な顔付きのまま、こちらを見つめている。
青々と輝く瞳が月の光を受けて、よりいっそう眩しく思えた。「こいつは何を言っているんだ」と理解しきれない頭が、それを冗談だと捉えるように軽く口許で笑う。
「何の冗談だ?」
無意識のうちに組んでいたらしい腕をほどき、熱が出ているのかと額に手を添える。
――だが、彼の体温が可笑しいわけではない。至って正常で、人肌が返ってくるだけ。「頭でも打ったのか」と何の気なしに問いかけてみるが、返事はない。ただ、されるがままの状態で唇を結んでいる。
一世一代の告白を「冗談」で片付けられてしまったのが気に食わないのだろうか。
――しかし、彼から怒りのような感情は伝わってこない。寧ろその逆――諦めにも似た静寂が広がっているだけ。迫られている状況の中、彼の背後を蛍灯がひらりと飛び交ったのを見て、視線を奪われるほどには余裕があった。
――それでも告げられた「好きだ」の言葉は、脳裏に反響し続けている。
くらくらと、まるで口当たりのいい酒を呑んだときのように、甘美な響きが余韻として残る。
不思議な感覚だった。真っ向から否定する気も、拒絶する気持ちも起こらない。やんわりと躱してみせたが、未だに響きが残るあの言葉は、少しずつ思考を侵していくようだ。
どうしてそんな感覚に捕らわれるのか。いくつか原因を思い浮かべる。
普段は賑わう巨像の中が、夜になると冬のような静けさを湛えるからか。夜と月明かりに相まって、動く蛍灯がホタルのように見えてしまうからか。
それとも、普段から戦うことに興味を持つ啓光の軍団長が、いつになく神妙な面持ちで目の前に立ち塞がっているからか――、どうしても分からなかった。
――むず痒い。
――どうにも覚えた感覚に慣れず、ほんの少し警戒心を持つ自分がいることに彼は心中で笑みを溢す。
冗談だとか、頭を打ったのか、なんて返されてしまえば怒りが飛んできそうなものなのに、目の前のそれは一向に唇を開こうとしない。一瞬の隙を突いて自慢の鉄顎で頭を持っていかれるのかと、揶揄うように想像もするが――少しも動きはしない。
ただじっと、双方の真昼のように青い瞳が、ワタリの体を射抜くように見つめている。
穴が開いてしまいそうだった。特に無理を強いられることも、返事を強要することもないが、黙って見つめられるのも息が詰まってしまう。
彼は小さく距離を開けようと足を動かしたが、それよりも早く、目の前のそれが手を動かしたのが見えた。
黒い手袋をしたままなのは、軍服を着ているからか、それとも彼の潔癖を案じてからかは分からない。
その手が何の躊躇いもなくワタリの頬へと伸ばされるものだから、彼は避けることも忘れて体を強張らせてしまった。予想外の緊張と告白に、普段の行いができないことに、ほんの少しのもどかしさを胸に抱く。
堪らず僅かに目を細めていると、彼の指先が割れ物に触れるよう、優しく添えられた。
そうして漸く唇を開いたと思えば、――バートンが言う。
「ワタリ」
――と。
名前を呼ばれたのはこれが初めてだったような気がする。――そう錯覚をしてしまうほど、バートンは彼の名前を呼ばなかった。ナビゲーターである空の末裔の影響か、時折ワタリを呼び止めるときに掛けられる言葉は基本的に「先生」の一言だけなのだ。
その男が唐突に名前を呼んだ。酷く静かで、穏やかな海のように。波風立たない言葉の端々に、自分の感情を抑え込むような錯覚さえ覚えさせてくる。
それに彼は驚きつつも平常を装った。「珍しいな、あんたが名前を呼ぶなんて」――そう揶揄するように軽く笑うが、この笑みがバートンに移ることはなかった。
代わりにワタリの唇を確かめるよう、親指の腹でゆっくりとなぞる――。
「……お前が断るのは予想通りだ」
ぽつりと呟いたであろう言葉が、ワタリの耳に届いた。彼はバートンの言動に体を強張らせて、驚くように瞬きを数回繰り返す。ほんの少し青や白、紫がかった薄灰の瞳が揺れ動いた。
「それは驚いた」――紛れもない本心が遂に口を突いて出る。
強いもの以外には興味はない。
――ワタリがバートンに抱いた印象はそのひとつだ。初めに巨像へ招かれ、末裔と騒ぎを起こした原因も勝負事だったと記憶にはある。暗鬼に出会せば自分に行かせろと言っては、何度も戦場へ赴いて気分が良さそうに銃を放ち、刀を振るう姿を何度も見掛けた。
その姿はまるで獲物を見つけたときの獣のよう。一口に軍団長だと言っても、本当にその役割を果たせているのか疑ってしまうほどだった。
そんな彼が何かに対して興味を示すことなどありはしない。――確固たる証拠はひとつも持ち合わせていないが、そういうものだと決め付けていたのは事実だ。強さに直結するものなら未だしも、平和じみたことは一切望んでいないのだから尚更だ。
そんな彼が、確かに言ったのだ。他でもない元外科医であるワタリに「好きだ」と。
――しかし、ワタリが素直に応じない――もとい、首を縦に振らないのはバートンの予想通りなのだという。これが戦いに関することなら、相変わらず彼は本能に従って生きていると思うのだが、今回ばかりは違う。これは、人生を懸けた告白のひとつだ。
どうしてそうなったのかなど、ワタリは知る由もない。ただ平然と夜を過ごしていたら、唐突に声を掛けられてぽつりぽつりと話をされたのだ。何の臆面もなく、そして頬を染めることもなく。淡々とした表情で好意を告げる。
初めに冗談だと思った原因が、その少しも変わることがない表情だった。緊張が混じれば赤面だの、発汗だの、様々な症状が彼の体を襲う筈だ。――にも拘らず、バートンの顔は酷く涼しげで、本当に告白が行われたのかと疑いたくなるほど。
それほどまでに酷く冷めた顔付きをしていたのだが――、その理由も今ならよく分かる気がした。
明確に断った試しはないが、易々と受け入れる気持ちもない。それを既に分かっていて、バートンは少しの緊張も抱いていないような顔をしていたのだ。それどころか寧ろ諦めのような寂しさが見え隠れしているような気がして――。
「――だから、落とすことにした」
「――…………は?」
不意に落とされた言葉にワタリは間抜けな声を洩らした。