夏祭りに行く話

 午後七時――――各住宅ではそろそろ夕食の準備をしようかという時間帯。雲ひとつない空は、未だ水平線の向こうが少しだけ夕日の名残を残している。熟れた赤い果実の色を夜の濃紺がゆっくりと呑み込もうとする――――そんな空をぼうっと眺めながら、丹楓はそれを待っていた。周りは賑わい、老若男女で溢れ返っている。普段なら耳にしないような賑やかさを横目に、彼は腕を組みながら人差し指をとんとん、と数回動かした。
 色白の肌が映える夜空を模した濃紺の浴衣。浅葱色の帯を腰に巻いて、木陰に備え付けられているベンチに足を組んで溜め息を吐く。近くにある背の高い時計は七時を指してから五分ほど針を進めている。日が落ちてきたとはいえ、未だ暑さが残る外で丹楓は腕をほどいてぱた、と手で軽く扇いだ。気休め程度の風を少しでも感じていたかった。
 近くの神社で夏祭りがやると言って根気強く丹楓を誘ってきた応星は、未だこの場に来ていない。もしやからかっただけだろうか、と些か不安になるものの、懸命に懇願してきた応星の顔を丹楓は忘れていなかった。
 わざとか、それとも本気か――――眉尻を下げ、こちらの様子を窺うようにじっと藤紫色の瞳を向けてくる様は、まるで子犬を彷彿とさせてくる。存外それを可愛らしいと思ってしまっている丹楓は、それを存分に堪能してから「仕方がないな」と言って折れた。そのときの応星の表情といえば、それはそれは可愛らしいものであったのだが――――とうの本人は約束の時間を過ぎて尚、丹楓の前に現れなかった。

 まさか、忘れたとは言うまい。

 とんとん、とんとん。再び組まれた腕の中で人差し指が頻りに動く。丹楓の心情を表すかのように感覚を短くしていくそれは、誰がどう見ても苛立ちによるものだった。それが功を奏して、遠巻きに丹楓に視線を配らせる若者たちを寄せ付けていないことを、彼は知る由もない。
 そんなことも露知らず、丹楓は未だやってこない応星を待ちながらじっとベンチに座り続ける。五分、十分――――刻一刻と時間は過ぎていくが応星の影はまだ見えない。少し前まで水平線の向こうに見えていた夕焼けの色は、気が付けば紫へと染まりかけている。ひとつふたつ、街灯の多いこの場所では星の瞬きは数えるほどしか見付けられなかった。
 そうこうしているうちに、ふと、一抹の不安がよぎる。――――まさか、本当に来ないのではないだろうか。

 応星と丹楓は他人から見ても大の親友だ。丹楓が関わりを持たないと決意していた今世でさえ、彼はその柵を乗り越えて丹楓の内側まで入り込んできた。屈託のない笑みと、物作りに対する情熱は少しだって前世と変わりがない。
 だからこそ丹楓も、応星に対して気を許したのだ。少しくらいは自分を恨み、憎んでいると思っていたが――――その素振りを見せない彼に、心を溶かされたのだ。今世でも共にいてもいいのかと。

 ――――けれど、本当は丹楓を許していなかったら?

 くしゃり。組んでいる腕の上にある手が、シワひとつない浴衣をきゅうっ、と握り締める。ぞ、と胸の奥が冷えるような感覚に陥った。夏の暑さが居座る夜に、丹楓の周りだけが熱が冷めたような感覚さえする。賑わいが遠退き、突然自分はここにいてはいけないような気がした。
 握り締めていた手を緩め、丹楓はそっと手元に視線を向ける。

 「応星に夏祭りに誘われた」そう丹恒に相談するや否や、何故か彼の友人たちと景元が集まり、服装に関する何かしらを話していた。こういうのはやっぱり浴衣だよ、しかし持っていない。これだけ毎日着物を着ているのに、では私が贈ろう――――そんな話が飛び交っているのを、丹楓はぼんやりと眺めていた。
 まるで自分のことのようにはしゃぐ彼らが妙だと思ったが、彼らも彼らで祭りに行くのだという。その途中、丹楓はどうするかという話になった頃、彼が応星に祭りに誘われたというわけだ。

 家を空ける不安があり、且つ丹楓しかいないとなれば自ずと丹恒の考えも鈍る。いっそ誰かと一緒に過ごしてくれれば、と思った矢先のそれに、丹楓は溜め息をひとつ。家の留守を任せられないのかと多少なりとも呆れを覚えたが、それだけが賑わう理由でないことは丹楓自身もよく知っている。
 丹恒は丹恒で、丹楓のことを気にかけてくれていたのだ。そうでなければ偶然を装って応星と邂逅させようとするなど、考えるはずもない。
 彼らも祭りを楽しみにしているのだ。自分も楽しまなければ損というものだろう。

 そうして丹楓は待ち合わせの時間が近付いて来るにつれ、慣れた手付きで浴衣を着た。和服にはあまり馴染みのない丹恒の着付けも手伝ってやり、一足先に向かうと言った姿を見送って、数分後に自分も家を出る。鍵を閉めて履き慣れない下駄を鳴らしながらぽすぽすと、何の気なしに袖や腹回りを叩く。濃紺の生地、ところどころに蓮の花があしらわれた貰い物に、埃や汚れがついていないかを確認して。
 ――――本当は、どこか落ち着きのない気持ちを落ち着かせるように振る舞っているだけだと、頭の片隅では知っているのだ。
 頼む、と言った応星に折れたとき、何人で行くのだと問いかけた。前世ではもう少し仲のいい仲間たちが確かにいて、何をするにもよくつるんでいたと思う。今世では多少の抵抗があるものの、応星が望めば丹楓はそれに応えるつもりだった。
 けれど、応星は丹楓に許しを得た喜びを湛えたまま首を傾げ、「二人でだぞ?」と言った。

「俺と丹楓、二人だけで行くんだ」

 にこにこと、人当たりのいい笑みを浮かべたままの応星に、丹楓はやられたと思った。表情こそは出さないが、反射的に体が強張ったことだけは他の誰でもない丹楓自身が気付いている。
 再会を果たして以来、応星はやたらと丹楓に積極的なアプローチをするようになった。暇さえあれば自宅を訪ね、身の回りの世話をしては意気揚々と去っていく。売る気はないが作ったものなんだ、と丹楓に渡しては部屋を飾る装飾品が増え、今ではどこを見ても応星の存在を感じられる状況だ。
 あまつさえ彼はことあるごとに丹楓に向かって「かわいい」だの「好き」だの言っては頬や手に触れ、丹楓に「応星」を覚えさせてくる。今世の応星はこんなにも丹楓が好きなんだぞ、と猫ならぬ子犬をかぶって接してくるのだ。
 そんな応星にずるずると堕ちているのもまた事実。丹楓は断ることもできず、今日を迎えて今に至る。待ち合わせの場所に着くまでおかしなところはないか、着崩れをしていないか何度も確認した。慣れない人混みに冷や汗をかき、道行く男女や他人を見ていると、「あの輪に自分も行くのか」と気持ちがそわそわと浮き足立つ。
 二人で、と言った本人はきっと、その気のはずだ。意図的にそういった雰囲気を作り出して、丹楓をその気にさせるに違いない。
 人知れずどくどくと高鳴る鼓動を聞いていないふりをして、丹楓はそっとベンチへと座って応星の姿を待っていた。

 ――――その結果がこれだ。

 ほう、と彼は吐息を吐き、徐にベンチから立ち上がる。境内やら屋台やらからは少し離れた待ち合わせの場所に、祭り特有の太鼓の音と、金属を鳴らす音が響いてきた。午後七時を過ぎた頃から人の通りが向こうへと流れていった辺り、待ち合わせた時間が祭りの開始だったのだろう。
 それももう十五分も通り過ぎてしまった。時計の針を見上げる度、丹楓は高鳴っていた心臓が静かに、冷めていくのを感じる。子供のように心を躍らせていた自分が恥ずかしくて仕方がないと思えた。景元が用意したという浴衣もしっかりと着こなして来たはいいものの、見せる相手がいないのでは意味がない。
 待ちくたびれてしまった彼は、帰ろうと踵を返しかけたが、ふと彼らが自分のことのように喜んでいた光景を思い出して足が止まる。普段人通りの多い場所へ赴かない丹楓が、行事に参加してくれることの嬉しさなど、彼らにしか分からない。極力人との関わりを避けて、夜な夜な寂しそうに酒を飲む姿など、丹恒しか知らない。
 ――――けれど、自分のために何かをしてくれた彼らに対して、この結果はあんまりだろう。せめて祭りに参加したことへの証として何かを持ち帰るべきだ。
 そう思って丹楓は重い足取りで、ゆっくりと賑わいに足を踏み入れる。石畳の上を履き慣れない下駄がカランと音を立てて――――突然、丹楓の体が後方に引き寄せられる。

「丹楓…………ッ」

 無表情、鉄仮面、冷徹。数々の言葉が似合うほど表情を飾らない丹楓でさえ、突然のそれには驚きのあまり目を丸くした。青々と染まる海の色が、驚きぱちぱちと数回瞬きを繰り返す。一体何が起こっているのかと、止まりかけた脳が懸命に働いて、現状の理解を始めた。
 丹楓の首元に回されているのは、鍛えられ筋肉のついた成人男性の片腕。彼の耳に届くのは弁明の言葉ではなく、終始慌てていたのであろう荒い呼吸。それでも逃がさんとばかりに掴む腕や片手は、ぎゅう、と丹楓の体を閉じ込めていた。

「…………おう、せい…………」

 緊張や楽しみよりも遥かに驚きが勝った鼓動が、今になってばくばくと丹楓の耳元で鳴り響く錯覚を得る。一瞬でも足を踏み外して倒れそうになったのかと思ってしまった彼は、全身から血の気が引いたような感覚を持っていて。漸く呼べた彼の名前を口ずさむ声は、僅かに震えてしまっていたように思う。
 それでも応星は、自分の呼吸を整えるかのように数回息を繰り返してから「丹楓」と彼の名前を呟くだけだった。

「間に合っ…………ては、ないが……その、いてくれてよかった……。言い訳、なんだが…………あんまりにも楽しみにしすぎて、眠れなくて。仮眠しておくかと思ったら、その……」

 「遅く、なった」――――そう語尾を小さくしてから、応星はそうっと丹楓に回していた手をほどく。彼の声色はまるで怒られるのに怯える子供のようなそれで、丹楓は彼の顔色を窺うようにじっとゆるりと振り向いた。
 白地に黒の斜線がところどころにあしらわれた浴衣を、応星はそつなく着こなしている。白に藤紫色の帯が目立ち、慌てて来たことを頷かせるように前がうっすらと開いている。ちらりと覗き込む応星の胸筋は――――、いつの頃も違いはない。しかしその顔は普段の傲慢さもなければ、自信もない。ただ単に丹楓に嫌われるのを恐れる、一人の男の顔だ。
 額や頬に汗が滲んで滴るのを、丹楓は見つめていた。彼の言っていた「楽しみ」が、決して自分だけの一方的な感情ではないことを知り、程好い安心感が胸に募る。冷めていた心が一瞬にして温もりを覚えたような、優しい感覚に丹楓はほぅ、と吐息を吐いた。
 それが特別感情を表に出しているわけでもなく、無表情のまま行われているのは当たり前のことで。応星にとっては丹楓のその行為が呆れているようにも見えてしまう。丹楓が溜め息を吐いたそのすぐ、応星は怒られるのを恐れる子犬のように体を震わせて、ちらちらと丹楓に視線を向けていた。
 杞憂だったのだ。丹楓の心配は。
 す、と彼は応星に向かって手を伸ばし襟を掴む。着付けは悪くない。けれど、慌てて着た分着崩れを起こしている。それを正してやりながらふと足元を見れば、風情を擲って急いで丹楓の元に駆け付けたであろう証が、サンダルとして現れている。普段の靴では合わないが、素足が見えるサンダルならばいくらかマシで、何とか走れるだろうという魂胆なのだろう。
 走って、遅刻した分を巻き返そうとした――――そんな気持ちが窺えてくる。丹楓が着付けを直すのを、息を切らしたまま眺めていた応星は「暑いな、」と小さく呟いたが気崩そうとはしなかった。

「もう少しで帰るところだった」

 楽しみにしていた気持ちを一瞬でも失いかけた悲しみを、からかいという形でぶつけてみれば、応星は小さく唸る。「すまん」「悪かった」「反省してる」次々と出てくる謝罪の言葉に誠意があるのかどうかを確かめるべく顔を見つめれば、やはり彼は悲しそうに眉尻を下げているのだ。本当はもっと早く来て色々と準備をしたかったんだが、と頭を掻いて反省する様はいくら見ても飽きが来なかった。
 普段は強気で傲慢で、どこか負けず嫌いの似たような気がある男がこうも反省する様は可愛らしいものかと、無表情ながらも考えてしまう。
 そうしていると、応星は唸りながら知らず知らずの間に丹楓の両手を握り締めた。まるで「帰らないでくれ」と言いたげな仕草に、堪らず愛しさが込み上げてきたところで丹楓は小さく息を吐く。「許す」とたった一言呟けば、応星はパッと表情を明るめてありがとうと言った。
 どこまでも甘いと思う。
 丹楓は握られていた手を離すように言って、自由を得た。そのまま腕を組み、人知れず高鳴る鼓動に気が付かれないようにすれば、「金は俺が出す」と応星は言う。にこにことしたまま平然と言うものだから、祭りが何かをよく理解していない丹楓は首を傾げながら、そうかと言った。一瞬だけ罪悪感が顔を覗かせたような気がしたが、そもそも誘ったくせに遅刻してきた応星が悪い、と強気の自分が囁きこくりと頷く。
 そうして丹楓が待ちくたびれたから、と言わんばかりに「早く行くぞ」と言えば――――応星は「ちょっと待ってくれ」と丹楓の手を取った。

「……どうした?」

 振り返って、引き留めてきた応星の顔を見やる。すると、彼は視線を泳がせながら「あー」だとか「うー」だとか口を洩らして、何やら言うのに戸惑っているような素振りを見せた。今世では長く、長く応星を待ちわびていた丹楓には、彼がその続きを口にするまで待つというのは簡単で。じっと青い瞳で応星を見つめていれば、応星は意を決したように丹楓と視線を交わらせる。
 そして、懐からそっとそれを取り出したのだ。