小さな温もり


 ――――初めて応星と出会ったのは高校の頃だ。春が過ぎて梅雨を見送り、初夏を迎えた頃。ガタン、と教室内が騒がしくなり、極力他人との関わりを避けて読書や勉学に励んでいた丹楓は、ぴくりと手指を動かした。こっそりと視線を投げかけてみれば、高校生だというのに本当に地毛かと疑いたくなるようなほどに真っ白な――よく見れば少しばかり灰がかっている――青年が、何人かの同級生と対峙している。その足下には、割れてすっかり形を失った何かが転がっていた。
 彼らはニヤニヤと口角を上げていて、「謝罪のひとつもできないのか?」と白髪の彼が言うが、一言だって口を利かなかった。諦めて溜め息を吐き、足下に落ちているそれを拾い上げるため、彼は屈む。爪が綺麗に整えられた手がそっとその破片に近づいたとき、同級生の一人がわざとらしく「おっと」と口を開いた。

「――――っ!」
「きゃあっ!」

 女や男の騒ぎ立てる声が酷く耳障りで、丹楓は自分が勉学に没頭できないと判断し、ゆっくりと教科書を閉じる。ぱたんと閉じてからもう一度彼らに視線を向けると、破片に手を伸ばしていた彼は自分の手を胸元に寄せているのが見えた。懸命に押さえつけているように見えるその手からは鮮血が滴り落ちている。どうやら踏まれた拍子に手のひらに破片が食い込んでしまったようだ。

「ごめんねえ応星くん、足下に虫がいると思ってな」

 始末しようと思ったらお前の手だったんだなあ。
 ――――なんて言ってから大きな口を開けてケラケラと笑う彼らを止める者は誰一人としていなかった。それどころか顔を逸らし、そろそろとその場を離れようとする始末だ。
 ――――その理由も明白だった。彼らに口出しをして次の標的にされたら元も子もないからだ。
 この状況が良くないことだと分かっていても、彼らは結局見て見ぬフリをするのだ。
 だから少し、気分が悪くなってしまった。元よりこの日はやたらと虫の居所が悪かった丹楓は、携えていた教科書を持つ手を軽く振り上げる。応星、と呼ばれた彼のことを詳しく知っているわけではないが、その存在を丹楓は知っていた。
 
 成績は上々、通知表をいくら見ても欠点ひとつも見当たらない完璧な丹楓でも、唯一美術だけはどうしても良い成績を取れなかった。順位というものがあるわけではないが、どうにも一歩が及ばないような気がして。自身の人生にそう影響がないことは明白だけれど、一度くらいは全て同じ評価を揃えてみたいと思った。
 放課後にすぐ帰宅する予定をずらし、夕暮れに沈む廊下を歩いて美術室へと向かう。そこには壁に作品が展示されていたり、棚には焼き物を置いていたりもする。今時の美術専攻ではこんなこともするのか、と丹楓は感心していた記憶があった。
 その作品たちをもう一度じっくりと観察するために美術室へと赴けば、――――先客がいたようで。カタンと物音が鳴ったのを、戸を開けようとした丹楓は聞き入れた。そうしてピタリと手を止めて、小さな窓からそうっと覗き込めば、応星と呼ばれた彼がたった一人で黙々と作品と向き合っていたのだ。
 窓の外から赤い夕日に照らされる彼の顔は、この上なく楽しそうに見えた。口角が上がり、子供のように爛々と目を輝かせている。白いシャツが汚れてしまうことは一切考えず、キャンバスと向き合っている彼は純粋な子供に見えてしまった。
 別日には物を作り、機嫌が良さそうに形を整えている姿を見た。彼は美術というよりも、何かを作り出すことに何らかの喜びを覚えているようで、見ているだけの丹楓も心地が好く思えていた。このように何かを楽しめる人生であれば、彼のように輝けただろうか。――――そう、思わざるを得なかった。
 観察する日々は飽きもしなかった。自分とは違う人生を歩む人間の、生き生きとした姿を見ると心が躍る気さえした。認識されたいわけではない。ただ、彼の生き様を自分の人生に焼き付けていたかったのだ。
 彼はきっと、何らかの形で後世に名を残すことになるだろう。今日も今日とて作品を生み出していく手を遠巻きから見つめて、丹楓は人知れず微笑んだ。

 ――――だから、酷く不愉快でしかなかったのだ。

 振り上げていた手を下ろしきる前に、片手に納めていた教科書を軽く投げつける。ブン、と風を切る音のあとに、バサバサと紙が崩れる音を聞いた。教科書を投げつけられた本人は当たり所が悪かったのか、頭部めがけて投げられたそれに対して「うわっ!」と声を上げる。そうして痛がるように頭を押さえ始めるのだから、滑稽だと丹楓は心中で毒づいた。
 薄く上がっていた笑いは丹楓の行動により静まり返り、丹楓が黙って席を立つ音だけが響く。朝礼前の、朝の時間とは思えないほどの静寂だ。誰も彼もが丹楓を見つめ、彼が歩くための道すら開いてくれる。丹楓はそれを、悠然と歩くだけで彼らの元へと辿り着けた。

「いってぇ……何すんだよ!」

 コツ、革靴でもないのに床を踏み締める音が鳴り響く。呻き声を上げながら丹楓を見やった名前も知らない同級生は、キッと丹楓を睨んだ。凄んでいるつもりかは定かではないが、睨まれているはずの丹楓は、それを意に介することもなく自分が投げつけた教科書を拾い上げる。ポンポンと埃を払い、小さく溜め息を吐いた。
 品行方正だと言われている自分がこんなことをしたのがバレたら何かを言われるだろうか。――なんて思いながら丹楓は軽く視線を向ける。じっと、睨まれていることに対して視線を返していれば――――不思議なことに彼らは少しずつ言葉を失い、顔色を変え始める。

「…………?」

 理由も分からず軽く眉を寄せれば、彼らは小さく肩を震わせ、サッと視線を逸らし始めてしまった。そうしてそのまま丹楓が訝しげに首を傾げてみれば、彼らが息を飲む。ごくり、と喉を鳴らしたような音が聞こえた気がした。

「どうした? 威勢がなくなったようだが」

 耐えかねて丹楓が唇を開けば、彼らは肩を跳ねさせ、咄嗟に後退りをするのが視界に入る。「先程までの威勢はどこへ行ったのだ」と丹楓がゆっくりと手を伸ばすと、彼らが目を丸くするのが見て取れた。
 丹楓はただ、「そのように下らないことをするくらいなら、少しでも勉学に励むことだ」と言って肩を軽く叩こうとしただけだった。けれど、普段から無表情で顔を飾っている丹楓は、前に躍り出たそのときでさえも無表情で。加えて多少なりとも抱えていた不機嫌さが微かに顔に出てしまっていたのだろう。周りから見た丹楓は、今にも彼らを威圧感で押し潰してしまいそうだった。伸ばした手で頬を鷲掴みして、ただ黙って冷ややかな視線を投げてしまうのかと。
 ――――そう錯覚した人間の一人である彼が、咄嗟に手を伸ばして肩を掴まなければ、彼らは尻尾を巻いて逃げていただろう。

「待った……!」
「……」

 手を伸ばしていると、突然肩をぐっと後方へ引かれる感覚が丹楓を襲う。驚いて――とはいえ少しも表情に出ていない――肩に置かれる手の向こうを見れば、応星と呼ばれていた彼が丹楓の動きを止めている。かろうじて傷を負うことはなかった片手で丹楓の肩を掴んで、冷や汗が滲む顔でまっすぐに丹楓を見つめる。藤紫色の瞳がこれでもかと言うほど、丹楓の顔をしっかりと捉えていた。
 それにいくらか不思議な感覚を体に抱えながらも、丹楓は自分よりいくらか高い背丈を見上げ、「何だ」と言う。学生だと言うのに真っ白な毛髪に微かに目を細めていると、応星は「あまり気にしなくていい」と丹楓に告げた。

「こいつらのやってることはいつもと変わらないから、そこまでする必要は」

 ――――そこまで応星が紡いだのを聞いて、丹楓は眉を顰める。

「いつもと変わらないだと……? 其方の手はこのように粗末な目に遭ってもいいと言うのか?」
「え……、ちょ、うわっ」

 む、と丹楓は唇をへの字に曲げて、肩を掴んでいた手を取る。そのまま教科書を適当な机に置き去りにして彼の手を引き、教室内を歩く。何故だか威勢をなくした彼らを一瞥してから扉を開くと、担任が教室に入ろうとしているところだった。
 突然丹楓が応星の手を引いて教室から出ようとしていることに驚いたのか、担任は目を白黒させている。その横を通り過ぎてから「この者が傷を負ったので保健室に行く」と言えば、担任は咄嗟に「分かった」と言った。
 キーンコーンカーンコーン、と聞き慣れた予鈴が鳴る。その音が鳴る中、廊下を歩くのは新鮮で、何だか少し心が弾んだような気がした。
 階段を下りてまた廊下を歩いて。歩いた先にある保健室に手をかけてみれば、不用心にも扉が開いてしまう。ガラリと音を立てて開いた先にある光景に、担当は蛻の殻。時間が時間だ。もしかして職員室の方にいるのかと考えたが、こうしている間にも彼の手のひらには破片が鎮座している。それに多少腹が立って、失礼する、と独り言を呟きながら丹楓は保健室へと踏み入った。
 ここまで一言も発さない応星を近くにある椅子に座らせて、棚に置かれている救急箱を手に取る。蓋を開いてピンセットとガーゼ、消毒液を手に取って彼の対面に座った。
 対面に座って、パッと顔を上げれば応星の藤紫色の瞳と視線が交わる。それに彼は何故か驚いたように肩を震わせて、ふい、と顔を逸らしてしまう。一体何だろうかと思いながら彼の手を取ると、ほんの少しだけその手が強張った気がした。

「…………その、すまん……勉強の邪魔をしたろ……」

 静寂に耐えかねたように唇を開いたのは応星の方だった。
 丹楓は彼の言葉を聞きながら「大した支障はない」と返す。そのまま手のひらに食い込んでいる破片を丁寧に取り除いていけば、破片によって堰き止められていた鮮血が、膨らむように溢れてきた。痛々しいその状況に、丹楓は知らず知らずの間に歯を食い縛る。
 滲んだ血を綿で拭って、消毒をして、ガーゼを押し当てて、救急箱に入っている包帯を取り出す。そこまでしなくても、と応星が口を挟むが丹楓はそれを視線で黙らせる。キッと向けられた丹楓の視線に応星はぐっと言葉を詰まらせ、そのまま自身の手元を見やった。手際よく巻かれていく包帯を見て、どうしてそんなに怒ってるんだ、と応星が不意に丹楓へと問いかけた。

「怒る……余が……?」

 ぴくり、応星の言葉に丹楓の指が止まった。そろそろと視線を応星の手から顔へと移せば、応星は丹楓の言動を不思議に思っているようで、小さく首を傾げている。「怒ってるだろ?」と再度応星は丹楓に告げると、丹楓は目を丸くしながら「余は、」と言う。

「其方の、手が傷付けられたのが不快だっただけで……」
「それを怒ってるって言うんじゃないのか?」

 ぽつりぽつりと丹楓が自らの胸の内をさらけ出していくと、それを応星がはっきりとした言葉に変えてくれる。
 いくら自分が理不尽な目に遭おうが何だろうが、何も思わなかった自分が、感情を抱いていることが不思議で。丹楓は「怒ってる……」と応星の言葉を繰り返す。気が付けば遠くで本鈴の音が鳴り響いていた。内申点に響くだとか、授業に置いていかれるだとか、そういった思考を置き去りにして丹楓は小さく唇を開いた。

「……其方は……放課後には、美術室にいるだろう……」

 何の脈絡もなくぽろ、と溢された言葉に、様子を窺っていた彼が藤紫色の瞳を丸くする。「な、何で知ってるんだ」と少しだけ緊張が混じるような声音で丹楓に問いかけた。
 彼の慌てた様子が少しだけ愛らしく思いながら、丹楓は相変わらず無表情のまま「見ていた、ずっと」と赤裸々に告げる。

「大した理由ではないが……少し用があった。そこに、其方がいたのだ」

 何を手がけているかも分からない。ただ白く長い髪を束ね、服が汚れるのも気にすることもなく、一心不乱に作品と向き合っている。その表情は夏に咲く向日葵のように眩しくて、キラキラと輝いていた。彼に何が見えているのか丹楓には分からないが、応星にはその作品の完成が見えていたのだろう。――――もしくは、過程を楽しんでいるのか。見当もつかないけれど、丹楓は応星の表情から、手元から、目が離せなかった。
 釘付けになる、という感覚は恐らくこのようなことをいうのだろう。丹楓がハッと意識を取り戻したときには、応星は満足げに頷いてから後片付けをし始めていた。夕日が傾いて、水平線の向こうに消えようとしているのを、丹楓は背中で受けていたのだ。

「――――それほどまでに、惹かれていた……余は……其方の、作品に対する熱量が、表情が、作品を生み出す手が、好ましく思う……」

 だからきっと、傷付けられて不愉快だったのだ。

 ――――そこまで言い切って、ほう、と一息吐く。殆ど会話もしたことのない他人ではあるが、身勝手ながらも一方的な感情を抱いてしまっていることを、言葉にしたところで丹楓は漸く自覚した。全く関わりを持たない他人から感情を向けられるのはやはり好ましくないものだろうか。
 話している最中、伏せてしまった目を先程から一言も発さなくなった応星に向け直す。彼は一体どのような表情をしているだろうか。好奇心と、得も知れぬ恐怖心を胸に抱きながら彼の顔色を窺うと同時、丹楓の手元で未だ握っている応星の手がぴくりと小さく動いた。ほんの少しだけ、自分の指先を握られたような気がして一瞬だけ丹楓の意識が手元に移りかける。温かい――――と思った矢先、丹楓の視界に移るのは、頬を赤く染め始めた応星だった。

「――――………………ッ……」

 何かを言いたそうで、言いたくなさそうに傷のない片手が口元を隠している。眉間にシワが寄せられているが、不快感とはまた違った雰囲気を彼はまとっていた。急激に体温が上昇しているらしい――彼の額にはじわりと汗が滲んでいて、視線は落ち着きなく動いている。
 気分でも悪いのだろうか。丹楓は手当を終えた応星の手をするりと離し、そっと腰を浮かせる。流れるように自分の手を差し出して、その手のひらで応星の頬に触れた。

「気分でも悪くなったか? 顔が赤い」

 それとも自分が何かをしてしまったか、と丹楓は問いかける。思えば自分の弟である丹恒以外を心配することなど、初めてのことだなと思いながら応星の様子を窺えば、彼はハッと肩を震わせた。

「いや、ちが……はは、まあ、なんだ……見られてた恥ずかしさとか、そういうやつだ……気にしなくていい……」

 気分は悪くない、寧ろ良いくらいだ。
 応星はそう言って笑った。人当たりの好い、清々しいほどの綺麗な笑みだ。丹楓は人知れずその表情を気に入ってしまって、食い入るようにぼうっと見つめてしまう。見つめていると、何だか冷えていた心が溶かされていくような気がして、心地が好かった。

 ――――しかし、そうしている間にも時間は刻一刻と流れている。ぱちりと丹楓は気持ちを切り替えるように瞬きをひとつ。そしてふと室内にある壁掛け時計を見上げて、時刻を確認する。時計は思ったよりも早く時を刻んでいて、本鈴が鳴ってから既に十五分以上も針を進めていた。
 一限目は何だったか。今から戻ってどの程度の差が埋められるだろうか。――そう悶々としていると、ふと、応星がわざと丹楓の視界に映り込む。時計を見上げていた丹楓の顔を覗き込む形でこちらを見下ろしている、藤紫の瞳。興味深そうにじっと丹楓の顔を見つめて、「なあ、」と丹楓に話しかける。

「折角だから一限目、サボっちまうか」
「…………サボる……?」

 思いもよらない応星の発言に、丹楓は思わず首を傾げる。すると、応星はニッと笑い「ああ!」と言ってから呆然としている丹楓の手を取った。その瞬間に、冷えている自分の手が応星から熱を奪っていると錯覚するほど、温かくなるのを丹楓は感じる。

「学生なんだからちょっとくらい許されるだろうよ! それに、お前はもう少し息抜きした方がいい」

 応星の熱を窺ったあと、下ろしていた腰を上げさせるよう、ぐい、と手を引かれる。その勢いのまま覚束ない足取りで立ち上がれば、応星は丹楓の返事を待たずして手を引いたまま保健室の扉へと向かう。そのままガラリと引き戸を開けて、廊下に誰もいないことを確認してから、廊下へと足を踏み出した。
 丹楓は応星に手を引かれるがままに歩く。途中後方を確認しては誰もいないことを見て、再び応星の背中に視線を戻す。「戻らねば」と丹楓の理性が口を突いて出てくるが、応星はそれを良しとはしなかった。丹楓への返事の代わりに握る手に力を込めて反論を制してくる。痛みはない――――が、どうにも握られている手が熱い。

「ここだけの話、お前が俺を見ていたように、俺もお前を見ていてな」

 丹楓の言葉への返答に呟かれたのは、応星が丹楓を同じように視界に入れていたという事実だった。
 静まり返った廊下を二人が歩く音が響く。幸運にも教師にはすれ違わず、応星は「まあ、お前は俺以外にも注目されているんだがな」と付け足した。身に覚えのない注目であることを告げると、彼はくつくつと笑い、「そりゃそうだ」と言う。

「お前は成績優秀で、見た目も良い。それに加えて寡黙ときたもんだ。優等生に皆注目するもんだぜ」

 話の途中で玄関口で靴を履き替え、丹楓は再び応星に手を掴まれる。案内をされていると言うよりは、逃がさないように捕まえられていると言った方が正しいであろう現状に、丹楓は人知れず胸の高鳴りを覚える。
 彼が言うように丹楓は優等生として生きてきた。これといって違反するようなこともなければ、わざと親族に迷惑をかけるようなこともしていない。勉学は将来生きていくのに役立つと思っているし、何より弟である丹恒に勉強を教えられることができる。文字を目で追うのも嫌いではないし、知識を頭の中に入れるのも嫌いではない。だからこそ彼は模範解答のような優秀な生徒として生きていた。
 その反動だろうか。応星に連れられて一限目を無駄にしているというのに、丹楓の胸は飛び跳ねるようにドキドキと音を立てている。草木を掻き分けて足を踏み入れた場所は、校舎の裏庭。ベンチがひとつだけぽつんと置かれた場所だった。

「けどなあ。俺は時々お前が酷くつまらなさそうに、窮屈そうに見えて仕方がなかったんだ」

 するりと手を離され、木陰の下に置かれたベンチに応星は座る。近くにある花壇に咲いている花が、木の葉が風に吹かれてゆらゆらと揺れた。頬を撫でるそれが、生きてきた中でやけに心地よく思えてくる。今更戻ったところで遅れは遅れだ。戻る意思をなくした丹楓は、倣うように応星の隣に腰掛けると、彼が意外そうに「おっ」と言った。

「いつか連れ出してやろうと思っててな……さて、これでお前も共犯だ」

 もう立派な優等生じゃなくなっちまったな。
 そう言って応星は無遠慮に丹楓の肩に手を置いて、保健室で見たときと同じようにニッと笑う。喜怒哀楽がはっきりとしていてコロコロと変わる表情は見ていて飽きず、無遠慮な近さが何やら心地が好い。一体何故だろうかと考え込んでいると、すぐにでも答えは出てきた。

「折角の縁だ、仲良くしてくれよ。――――改めて俺は応星、よろしくな?」
「…………ふん、こんなところまで連れ出しておいて放置でもされたら、どうしてやろうかと思っていたぞ」

 丹楓だ。そう告げて丹楓は肩を組まれたまま腕を組む。隣では応星が興味深そうに「お前ってそんなキャラなのか」と面白そうに言った。下手に人間離れしてなくていいもんだなと言って、指先で丹楓の頬を突き始める。

「この仏頂面もどうにかなればもっといいな」

 あまりの無遠慮さに口は挟んでやろうかと考えたものの、諦めて丹楓は身を任せ、そっと目を閉じる。どう足掻いたところでこの心地よさは掻き消えないのだ。丹楓には友人と呼べるものがいなければ、話し相手もいなかったから。
 初めてできた話し相手に体を任せ、一限丸々ゆったりとした時間を過ごしたのだった。