小さな温もり

 講義も終わり、周りが一斉に席を立つ光景は何度見ても息が揃っていると実感する。
 手近に買ったノートに板書を終えた丹楓は、ペンを置いてノートを閉じる。パタンと小さな音を立てたそれは、周りの音に掻き消されてしまったが問題はない。今日も有意義な時間を過ごせたと一息吐いて、丹楓は席を立ちながら隣にいる応星へと目を向ける。彼は机に突っ伏したまま寝息を立てていて、目を覚ましそうになかった。
 講義が始まってものの数分で応星は机に落ちていった。彼の美術センスは多くの職人の目を惹きつけ、若いうちからその腕を磨くようになった。高校卒業と同時にこういうことをする、と聞いていた丹楓は、卒業でこの繋がりが消えるものだと思っていた。だが、いざ蓋を開けてみれば応星はあっけらかんとした顔で「進学するけど」と言うのだ。
 どうやらある程度の知識は身に付けておきたいらしい。――――というよりは、彼の両親はどちらかというと勉強に励んでほしいようで、応星自身は頭を悩ませているのだ。どうせなら作品に打ち込んでいたい。けれど、恩があるから期待には応えたい。そう言って進学先を考えていると、彼は丹楓に「進学だろ?」と訊く。丹楓ほど優秀な奴はもっと勉学に励んだ方が得をするぞ、と言って丹楓の進路を訊いた。

 ――――言葉に一度だけ詰まる。なるべく難しくないところ。なるべく自分の融通が利くように、苦労をしないところ。そういった理由から、丹楓はいくらかレベルを落とした大学へと進学した。何故だか応星までも揃って受験して、揃って受かるという特典付きだ。
 丹楓自身、一人でいるよりも気が知れた友人がいる方が気が楽でいい。後を追うようについてきてくれた応星に感謝をしながら彼の肩を叩き、軽く揺さぶってやる。受ける講義は午前までのもの。隣で突っ伏している応星を起こしてやるのは殆ど日課だ。

「応星」
「んあ……うわ…………」

 肩を揺すって声をかけると、それまで眠っていた応星はパッと顔を上げて、眼前の光景に頭を抱える。また寝てたか、と寝ぼけ眼を擦りながらぽろぽろと呟く言葉に、丹楓は「寝ていたな」と返事をした。

「応星、余は其方の暮らしに口出しするつもりはないが、少しは自分の体を大切にしたらどうだ?」

 そのままでは早死にするかもしれないぞ。――――冗談のつもりもなく言い放つと、応星は丹楓に視線を流したあとにフッと微笑む。

「俺のことが心配だからちゃんと寝てくれって?」
「……そのようなことは言っていないが?」
「そんなに心配しなくても俺はしぶとく生きるぞ」
「心配していないが?」

 カタン、と応星も席を立ち、道具が入っているかも分からないリュックを携える。寝過ぎて跡がついた額を軽く手でほぐしながら足を踏み出した。
 窓際の席を選んでいた丹楓は、彼が動かない限りは席から離れられない。漸く動いてくれた応星の背を追うように歩くと、応星が丹楓の到着を待っていた。隣に並ぶタイミングで応星が再び足を踏み出す。背筋を伸ばし、気持ちよさそうに伸びている応星を横目に、玄関へと辿り着いた。
 空は青く、雲は白く。初夏の空気が肌を撫でる。少しばかり日差しが熱い。丹恒には日焼け止めを塗らなければならないな、と思いながら、人知れず腕を摩る。寒いような、寒くないような。風邪でも引いているのかと思ったが、症状は少しも見られなかった。
 暮らしは相変わらず。つい先日も彼女が家にいて、丹楓は丹恒の邪魔をさせないようにと身を挺して庇う日々。これこそが丹楓の生きている理由であり、他の誰にも被害を及ばせないようにと努めている。最初から何かを思うことはなかったが、月日を重ねるにつれて痛みすらもろくに感じなくなった。体中を殴り蹴られ、アザが浮かんでいるはずではあるが、試しに脇腹を押したところで何も思えない。
 彼女に対する怒りも、憎しみも、湧いたことすらなかった。

「丹楓、すまん……ノート見せてくれるか?」

 ――――物思いに耽る丹楓に、応星は前に躍り出るや否や、両手を顔の前で合わせて頭を下げる。パンッ、と心地の好い音が鳴ってから、手の向こうからちらりとこちらを窺う応星の表情は子犬を彷彿とさせてくる。元より応星にノートを見せるつもりで全く起こさなかった丹楓は、わざとらしく視線を逸らして腕を組んで見せた。「まさか、タダでと言うのか?」と何気なく口を洩らすと、「もちろん礼はするさ」と彼は言う。

「そうだな……実は今日、親がいないんだ。丹楓……お前さえ良ければうちに来ないか?」

 今日は午前で講義が終わりだったろ? 昼飯でも作ってやるよ。
 これでどうだと言わんばかりに応星は丹楓に笑いかけ、丹楓の反応を窺う。提示された内容に不満はなく、丹楓はそれを良しとするしか他はない。彼女も数日前に帰ってきては足早に家を離れ、今ではまた兄弟二人暮らしを堪能しているところだ。加えて丹恒は高校生という身。夏休みに入るにはまだ早く、今から家に帰ったところで丹楓ができるのは家の片付けと、夕飯の支度程度だ。
 これなら特別断る理由などないのだが――――、丹楓は言葉に詰まり、ぐっと息を呑んでしまう。
 理由は簡単だ。――――初めてなのだ、誰かの家に招かれるのは。
 生まれてこの方、丹楓は丹恒の為に生き、丹恒の為に身を粉にしてきた。学生となったとしてもその暮らしは変わらず、できることが増えたということで自分の活動を増やすほど。極力他人との関わりをなくして生きてきた丹楓に、丹恒以外の親しい人間などいなかった。
 要約すると、友人と呼べるものが今の今までいなかったのだ。
 その丹楓が今、高校からの付き合いである応星に家に招かれている。その事実は嬉しくもあり、思わず背中に回して隠している左手をきゅっと握り締める。ドッと胸の奥で跳ねるような高鳴りを緊張から来るものだと自覚していて、どうしたって返事をすることができなかった。
 応星のことは嫌いではない。寧ろ、好いていると言っても過言ではないだろう。丹楓自身は恋愛感情というものを理解していないが、彼のことを人間として嫌ってはいないことは明白だ。ただ、こういうときにふたつ返事で即答しても良いものなのか、彼には分からない。
 そんなことで悩んでいると、――――ふと高校生の頃の出来事を思い出した。
 
 それは、応星と親しくなってくるようになったある日のこと。
 何故かよく放課後に下校を共にするようになってから、応星を待っていた日。教室にあるゴミ箱からゴミが溢れていることに気が付いた丹楓は、応星が教室に戻ってくるのを待つ間にゴミを片付けようと袋を持ち上げた。ツン、と鼻を突くのは甘い香りやら酸味やらが感じられるもので、家庭のそれと大差がないなと思いながら袋の口を縛る。家事で染みついた手際の良さを知るものは誰も居らず、夕暮れに沈む教室の中で袋を替えて、鞄を机の上に置き去りにしたまま教室を出る。
 鞄さえ置いておけば万が一応星と擦れ違っても、帰っていないことを彼に伝えることはできるだろう。
 廊下を歩き、校舎の裏手側にあるゴミ置き場へと目指す。以前応星に教えてもらった裏庭の、真逆の位置にあるそれは、やはり人通りが少ない。皆ゴミの臭いを避けていきたがるのだ。
 そのゴミ置き場に到着して、いくつかあるうちの青いゴミ箱の蓋を開けようと手を伸ばしたとき――、不意に女生徒の声が聞こえてきた。
 「好きです」と震えるようなか細い声色だったが、ゴミ置き場の敷地は狭い。丹楓は人生初めての告白現場に遭遇してしまって、極力音を立てないようにそっと手を下ろす。ゴミ箱の蓋を開けるのは構わないが、袋はどうしたって音が立ってしまうのだ。彼らの雰囲気を邪魔するつもりなどない丹楓は、袋を抱えたままゆっくりと一歩ずつ後退を始める。
 一世一代の告白を邪魔するわけにはいかない。――そう立ち去ろうとしたとき、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「あー……すまん、俺、好きな奴がいるんだ」

 脳裏に浮かぶのは彼の困ったような苦笑い。きっと頭を掻きながら傷付けないように言葉を選んでいるに違いない。――――そんな光景が容易に想像できるほど、丹楓の耳に届いたのは他でもない応星の声だった。
 放課後になるや否や、応星は丹楓に「先に帰っていいぞ」と告げてどこかへと消えてしまった。一体何があったのかと、話を聞くために待っていたが、こんなことになっているとは思わなかった。
 ドキドキとやたらと胸の奥が騒ぎ立て始める。緊張、それに加えて理由も分からない不安。何故だか足がズンと重くなったような錯覚に陥って、一歩も下がれなくなってしまったが、幸いにもその後の言葉は何ひとつ耳に入ってこなかった。
 好きな奴がいるんだ、と応星が先程口にした言葉が丹楓の中で反芻する。好きな人、ということは応星も恋をしているということだろうか。その素振りを見せたことはなかったはずだが、丹楓という友人がいることで我慢せざるを得ないのだろうか。応星は丹楓に関わってくれているけれど、その理由として単純に丹楓に応星以外の友人がいないから、放っておけないからだろうか――――。
 ――――寒い。さむい。どうしようもなく、体の芯から、震えるような。
 そう、悶々としていて、泣きじゃくりながら駆けていく女生徒を、丹楓は視界に入れることはなかった。
 しかし、その後に続く形でこちらに近づいてくる足音は、不思議と耳に届いてくる。ザクザクと草を踏み締め、土を蹴る音。人によって異なる足音だが、それが応星のものであると聞き慣れている丹楓は、堪らずまた一歩後ろへと足を引いた。

「…………丹楓!?」

 けれど、丹楓の行動はあまりにも鈍く、逃げようとした直後に応星に見つかってしまう。多少乱れた白髪が視界に入って、本当に頭を掻いていたのだと気付くや否や、応星は丹楓が抱えるそれを見かねて、「お前当番だったか?」と普段通りに声を掛ける。動くのに戸惑っていた丹楓の手からゴミ袋を奪い去り、青いゴミ箱の蓋を開けながら、「もしかして聞いてたか?」と軽口で訊いた。
 沈黙は肯定。丹楓がそれに返事をしても良いのかと迷っていると、聞いていたのだと判断した応星は、笑って「そんな気にするような顔をするなよ」と丹楓に告げる。

「別に俺は聞かれても構わんぞ。お前も知ってる通り、俺はこの髪色で度々絡まれてきていてな。誰一人として口を挟んでくる奴はいなかった。もちろん、女も例外じゃないからな」

 お前以外は誰も助けてくれなかったからな、応えるつもりなんてないぞ。
 そう赤裸々に告白をしながら蓋を閉じた応星は、丹楓に振り返って顔を覗き込む。興味深そうにじっと見つめてくる藤紫色の瞳を直視したのは、保健室の一件以来で。何かと思った丹楓は小首を傾げてみると、彼がそっと丹楓の頬に手を添える。

「顔色が悪いが、どうした? 気分が悪いか?」

 頬と、額と。確かめるように触れてきた応星に丹楓はハッとして、「大丈夫だ」と告げる。実際に特別気分が悪くなければ、風邪を引いたわけでもない。ただ、先程の一連に思考回路が追いつかなくなって、思わず立ち止まっていただけ。――――そう呟けば、応星は安心したようにほうっと息を吐き、「そうか」と言った。それは良かったと言って、丹楓に教室に戻ろうと声を掛ける。
 もちろん丹楓もそのつもりで踵を返し、先に歩く応星の数歩後ろを歩いていた。不思議と触れられた箇所が温かくて、心地よくて、浸っていると彼が「先に帰って良かったのに」と話し始める。

「お前は本当に可愛い奴だな」

 ――――なんて笑って言うものだから、丹楓は「置いて帰っても良かったんだぞ」と言って、その広い背中を手のひらでバンッ、と叩いてやった。

 ――――応星には好いている人間がいる。プライベートな問題に足を踏み入れるつもりもない丹楓は、その事実を知ってから今まで一度もその手の話を聞いたことはないが、恐らくそれは今も変わらないだろう。
 そんな彼の誘いを、了承して受け入れても良いのだろうか。彼の、恋路の邪魔にならないだろうか。相手が誰であるかは分からないけれど、応星が想い人との時間を作りたいというのなら、断るという選択肢があるのだが。

「…………もしかして、嫌か……?」

 考え込み、返答に困っている丹楓を見て、彼は嫌がっていると思ったのだろう。輝かせていた瞳は少しばかり光を失い、気持ち小さく俯いているように見える。誘ったのが応星自身であることと、丹楓と付き合いが長いことから断られるという考えはなかったのだろう。あざとく眉尻を下げて八の字にするその表情は、見た目背丈とは裏腹に愛らしく見えた。

「……嫌とは言っていないが」

 堪らず応星の言葉を否定して、立ち止まっていた足を踏み出す。数歩先に歩いていた応星の隣へと並んで、丹楓は視線を向ける。本当か、と彼は再三顔を上げてパッと表情を明るくさせた。――――やはり応星は笑った顔がよく似合うと思う。

「本当だ。……だが良いのか? 其方、工房が恋人ではないのか?」
「ああ、もちろ――――おい、何だ工房が恋人って。そんなわけないだろ」

 想い人がいるのではないのか、という言葉を呑み込んで工房の話を切り出してみれば、応星は流されつつも否定をした。流石にまだ人間関係を大事にするべきだからな、と言う応星に視線で道案内をするように促せば、彼は理解したように半歩、前へと出る。彼の動きに倣うように舞う白髪が、太陽に照らされて眩しかった。
 構内は広く、所々に木が植えられ、周辺にはベンチが備え付けられている。近くには大学生専用の販売店があり、昼時ということで昼食を求める学生がこぞっていた。中には弁当を持ち寄り、ベンチに座って友人と共に昼食を済ませる者もいれば、そのまま自分のやりたいことを優先させる学生もいる。特に作品展があるという美術専攻は、汚れたエプロンを着けて駆け回っていた。
 その中を、悠々と歩く応星と丹楓は、昼に何が食べたいのかを話し合う。買い物を済ませてからだな、と笑う応星に、丹楓は小さくフッと微笑んだ。