気軽に上がってきてくれ、と言われて招かれた家は、ごく普通の一般家庭だった。工房を構えている、と応星から報告を受けていた丹楓は、てっきり大きな家を構えている者だと思っていた。しかし、よくよく話を聞いてみれば、工房は離れにあるんだと彼は言う。こんな町中で騒音も立てられないしな、と笑った応星はそれこそ屈託のない笑みを浮かべていた。本当に物作りが好きなのだと、気が付かされる微笑みだ。
彼の自宅は大学からそう遠くないが、決して近いとも言えない適度な距離にあった。歩いて数十分の所にある彼の家は、数分歩けばコンビニがあり、また更に歩けばスーパーもある、どちらかと言えば主婦に優しいであろう一軒家だ。二階建てであり、一階にはリビングや浴室などの機能的なスペースがあり、二階は個人の部屋がある普通の家。
それに丹楓は目を奪われて玄関口でぼうっと呆けていた。
白っぽいタイルが敷き詰められた玄関には、応星が言っていた通り彼の靴以外は見当たらない。近くにある傷ひとつない扉付きのシューズボックスの上には芳香剤と、小さな観葉植物が置かれている。身嗜みを確認できるようにと等身大の鏡が近くに備え付けられており、見れば見るほど良い暮らしであることを突きつけられる。
これならば確かに応星は人当たりのいい人間になれるであろう。――――多少傲慢なところはあるけれど。
「丹楓? どうした?」
招かれてからというものの、指ひとつ動かさない丹楓に疑問を覚えた応星は、丹楓に呼びかける。ハッとして顔を上げれば、応星がリビングと思しき場所から顔を出していて、少しだけ不安そうな顔を浮かべている。もしかして汚いか、と言いたげな視線に彼は咄嗟に「何でもない」と呟き、そっと靴を脱ぐ。
振り返って靴を揃えていると、背後から応星が「先に二階に行っててくれるか」と丹楓に告げた。
「適当に飯作ってそっちに持って行くからさ。階段上がって右の扉が俺の部屋だから」
反対側は弟の部屋だから間違えるなよ。そう言って奥へと引っ込んでいったのか、応星の声はそれ以上聞こえなかった。代わりにフライパンやら冷蔵庫の扉を開ける音やらが聞こえてくる。耳を澄ませば微かな鼻歌が混じっているのが聞こえて、随分上機嫌だな、と思いながら丹楓は階段を上った。
埃ひとつない階段を上り、言われた通りに右手側にある扉を開く。邪魔をする、と小さく呟いて中を覗き見れば、ベッドや勉強机などの一般的な個人部屋があった。思春期の同性は本で読んだ限りではもっと個性を溢れさせているはずでは、と疑問に思いつつ、丹楓は部屋の中へと入る。持っていたショルダーバッグを肩から下ろしながら、そっとベッドの近くへと座った。
勉強机の上にある電子時計がかろうじて見える。その数字は十二時半と示していて、丹楓は何気なく自分の腹部に手を添えた。空腹を覚えているとは思うが、腹の虫が鳴ることはない。体が未だに昼を自覚していないのだろう。昼食を用意してくれている応星がくれたものを食べきれなかったらどうしよう、という不安が胸を掠めた。
――――と同時に、ふと思い出してバッグの中を漁る。ノートと筆記具、貴重品を詰めただけの場所からスマートフォンを取り出して、すいすいと人差し指で画面を撫でた。メッセージアプリを開いてトントンと文字を入力する。宛先はもちろん、他でもない丹恒だ。
『応星の家に上がらせてもらっている。夕飯の頃には家にいるつもりだが、念のため連絡しておく』
そう簡潔に文字を並べて送信すれば、一分も経たずに既読がつく。
流石に高校生にもなれば携帯がなければ不便だろうということで、丹楓は丹恒にスマホを買い与えた。彼の誕生日――と言っても両者お互いの誕生日を知らないので、丹恒は丹楓と会った日を便宜上誕生日としている――にプレゼントとして丹楓が贈ったものだ。スペックもサイズも、年頃の男ならこれくらいは必要だろうとこっそりと調べ上げ、自分の為に使うわけでもないバイト代で買ったのだ。
当の本人は驚いて「本当に良いのか」と何度も丹楓に確認しては、表情に出にくいが確かに嬉しそうにありがとうと言って受け取っていた。結局丹恒は大してゲームをする性格でもないため、スペックはオーバーしているのだが――――丹楓自身は負担だと少しも思っていないので、現状に満足している。
丹楓にとって彼の嬉しそうな表情は、どんな苦痛をも忘れさせてくれる特効薬のようなものだ。
その丹恒が、既読をつけてから数分後に『分かった』と返事をした。
『応星さんなら安心できる。それと、夕飯は俺が作る。今日はバイトはないから』
そのメッセージを目にした直後、コンコンと扉をノックする音が鳴った。応星曰く両親は仕事で出かけていて、弟は学校にいるとのことだ。扉を叩くのは応星以外有り得ないのだが、一体どうして、と丹楓は視線を投げる。すると、扉の向こうから情けない彼の声が聞こえた。
「たぁんふう~……すまん、開けてくれないか」
両手が塞がってんだ、となよなよとした声を聞き入れて、丹楓はそっと立ち上がった。応星は昼食を用意してくれると言っていたのだ。それなのに引き戸でもない扉を開くのは、片手が自由でない限り困難なことだろう。
気が回らなかったと内心で反省をしながら扉を開ければ、困ったように笑いながら「ありがとな」と言った応星と目が合った。
「馬鹿だな、自分の部屋の扉がどんなもんだったかなんて思い出せば昼飯くらいリビングで済ませたのに」
つい浮かれていて忘れてた。――――そう言いながら応星は勉強机に料理が載った皿をふたつ置いて、クローゼットの扉を開く。その中に押し込んだであろう両手を広げた広さの角テーブルを出して、部屋の中心に置いた。ゴトン、と重そうな音が鳴って、手伝うべきかと悩んだが、応星がすかさず「座っててくれ」と言い放つ。
「流石に客人に何かをさせるほど俺は落ちぶれてないからな」
なんて笑って、机に置いていた料理をテーブルへと置いた。
言われるがままに丹楓は先程まで座っていた場所に腰を下ろし、目の前に出されたものをじっと見つめる。ほうほうと湯気が沸き立つそれは、出来たての――――。
「…………悪い、丹楓。その……思った以上に何もなくてな。景気づけに買ったパンケーキしか作れなかった……」
――――出来たてのパンケーキを見下ろして、そうか、と丹楓は口を洩らす。元より飲食に対して執着のない彼は、目の前に出されたパンケーキを物珍しそうに眺めることしかできずにいた。そうして、持ち運んだはずなのに丁寧に皿に載せられたままの銀のフォークとナイフを手に取って、バターが蕩け始めるパンケーキを軽く突く。
全面綺麗にきつね色に焼かれた二段のそれに、バターを塗り込むように軽く回してから、たっぷりとかけられたメープルシロップとバターを軽く馴染ませる。そのまま静かにナイフで切り込みを入れて、一口サイズに切り分けたパンケーキをフォークに刺し、口へと運ぶ。
普段は必要なとき以外は閉じられている口が開き、パンケーキを迎え入れた。口の中に入れた瞬間に、鼻腔を掠める香ばしさと甘い香りはとても新鮮で。出来たて特有の優しい温かさに丹楓は微かに目を見開く。ふわふわと甘い食感が何とも言えないほど優しくて、美味しくて、小さく独り言のように「美味い」と呟きを洩らした。
それは、いつの日か丹恒に食事を作ってもらったときの美味しさによく似ていて、丹楓の心配は杞憂に終わるほどスルスルと手が進む。再び一口サイズに切り分けて口へと運ぼうとした矢先、不意に丹楓は自分に向けられる視線に気が付いた。
先程からこの家にいるのは応星と丹楓だけだ。視線の針がチクチクと頬を刺激するのは、他でもない応星がこちらを見ているからだろう。そう思って丹楓はちら、と彼へと視線を投げかければ、ばちりとそれが交わる。
「………………ッ、と……飲み物いるよな……」
びくりと肩を震わせたのは、応星自身で。彼は丹楓と視線を交わらせるや否や、ハッとして顔を離し、踵を返してそそくさと部屋から出て行ってしまう。視線を投げかけたときに見えた、応星の真剣な眼差しは、作品と向き合っているときのものによく似ている気がした。隅から隅までじっくりと眺めて、観察して、自分が満足できる何かを探している目に似ていた。
粗相をしてしまったのかと丹楓は食事の手を止めて、小さく俯く。すると、遠くから階段を駆け上がる音が聞こえて、直後に応星が廊下から顔を出して部屋に入る。片手には円上のトレーが載せられていて、その上にガラス製のコップが置かれている。その中にはジュースが注がれているのが見えた。片手で扉を閉めた応星は「これで全部か」と言って、丹楓の向かい側へと腰を下ろす。
「…………余は何かをしてしまったか」
――――先程の態度がやけに気になって、そっと呟くように応星へと訊ねれば、彼は気まずそうに頬を軽く掻く。何を言おうか悩んでいるような素振りを見せたあと、応星は「何もしてないだろ」と言ってから飲み物を目の前に置いた。コトン、と小さく硬い音が鳴る。
「ただ、綺麗だと思っただけだ。ひとつひとつの所作が」
特に音も立てていなかったろ。そう言って何故だか応星が照れ臭そうに視線を逸らすものだから、丹楓は「そうか」と呟きを洩らす。唯一高校からの友人の前で粗相をしていないという安心感が、不安に塗れていた胸を満たしていった。
そう褒めてくれるのは応星が初めてだ。丹恒は丹楓を見て所作を学んでいるようで、彼も物音を立てることは極力ない。これは家に帰ったら褒めてやろう、と丹楓は心に決める。応星に褒められてこんなにも嬉しくて仕方がないのだ。きっと、丹恒も少しは喜んでくれるだろう。