小さな温もり

 そうして昼食を済ませて、皿を応星が片付けている間に丹楓は書き留めていたノートをバッグの中から出す。部屋に戻ってきた応星は寝足りないと言わんばかりに書き写している途中で欠伸を溢し、こくりこくりと船を漕ぎ始める。その度に丹楓は脇腹を突いてやって、応星が肩を震わせて飛び起きるのを何度も見た。そうなるくらいなら睡眠くらいはまともに取ればいいものを、などと思ったが、彼にとって物作りとは他のものとは比べものにならないほど大切なものなのだろう。
 たとえ丹恒に体を張るのはやめてくれ、と言われてもやめない丹楓と同じように。

 ――――そう思えば不思議と納得がいって、仕方がないと思う自分がいた。

 その攻防戦を繰り返すこと数回。丹楓は暇を持て余し、応星に許可を得て本棚を物色する。手当たり次第に手に取ってはパラパラと捲り、本棚に戻す、を繰り返していると、応星がぽつりと呟いた。

「お前のノートは読みやすいな」

 まるで独り言のように放たれたそれに返事をするべきか悩んだものの、応星自身が催促するように言葉を続けるわけでもなかった。応星が見ると思っているから読みやすくしているんだ、と言えば彼は少しでも驚きを露わにするだろうか。――――なんて考えて、くだらないと首を横に振る。ただの丹楓の自己満足に応星を突き合わせるつもりはなく、丹楓は応星の呟きに終ぞ返事をすることはなかった。対する応星も、特別丹楓の返事を期待しているようではなかった。
 そうして丹楓が物色に飽きて再び腰を下ろした頃、応星は背筋を伸ばして首を軽く動かし始める。作業が一段落したのかと何気なく覗き込めば、丹楓のノートを写している途中で何やら絵が描かれていて、丹楓は思わずじっと応星を横目で見た。それが一体何の絵なのかは丹楓には分からないが、丹楓が見ていると気が付いた応星は咄嗟にノートを覆い隠してしまう。少しだけ気恥ずかしそうにしているが、丹楓にその理由は分からなかった。
 隠すくらいならとっとと写せ、と言えば、彼は「はいはい」と言って再び筆を執る。しかし、彼のノートに描かれた絵は消されることはなかった。
 それをきっかけに、あるいは眠気覚ましとして、応星はぽつりぽつりと丹楓に話しかける。初めはまともな昼食を用意してやれなくてすまん、という出だしだった。彼は丹楓に少しでもまともな料理を振る舞うつもりだったのだろう。ちらりと応星の横顔を眺めて見れば、心なしか落ち込んでいるようにさえも見える。

「気にしていない。美味かった」
「そうか」

 嘘偽りもなく本心を告げると、応星は照れ臭そうに笑っていた。実年齢よりいくらか幼く見えるそれが、いやに愛らしい。
 そうして次に明かされたのは、丹楓が応星を美術室で眺めていたときと同じように、応星も丹楓を遠巻きに見つめていたことがあるということ。クラスが一緒だったということもあるが、テスト勉強に集中するために入った図書室で丹楓を見かけたのが始まりだったのだという。黒髪の、白い肌が目について。けれどそれを鼻にかけるわけでもなく、黙々と勉強に打ち込むものだから、真面目な人間だと思っていたようだ。
 ――――実際は息抜きの仕方も知らない箱入り息子だったわけだがな。そう言ってくっくっと笑う応星を軽く睨んで、仕方がないだろうと丹楓は言う。
 息抜きの仕方を知らなかったのだ。自分にできることの全てを詰め込んで、一刻も早く自立できればと思っているのだから。
 そんな丹楓に、肩の力を抜くことを教えたのは、他でもない応星だった。

「今じゃ多少なりとも生きやすそうに見えて、俺は安心してるんだぜ」
「余は初めから生きにくいとは思っていない」
「ははっ、そうやって反論してくるところ、あいつらは知らないだろうよ」

 ムッと唇をへの字に曲げて、丹楓は足を伸ばす。そのままあぐらをかいている応星の膝を蹴り、無駄口を叩くなと指摘してやる。いて、と応星は言ったが、それでも雑談は止まらなかった。

「そういや丹恒くんは元気か? 高校生になっただろ、友達はいるのか?」

 興味本位というように丹楓に顔を向けてきた応星に、丹楓は頷きで返す。
 
 応星が丹楓の弟である丹恒の存在を知ったのは、彼らが高校生の頃で、丹恒がまだギリギリ小学生だった頃だ。折角だからと兄弟二人で夕飯の買い物に出て、帰路に就いたとき、偶然にもばったりと道端で応星と出会ってしまったのだ。その頃はまだ親友と呼べる間柄でもない丹楓は、咄嗟に丹恒を庇う素振りを見せてしまった。相手は親族でも何でもない、ただの同級生だというのに。
 その本能的な行動を応星は驚きの目で見つめ、庇われた丹恒は「丹楓」と腕を掴む。いつの頃からか、楓兄と呼ばなくなった彼に視線を送れば、大丈夫だと気丈に言われた。
 大丈夫だから、この人は丹楓の知っている人なんだろう。そう言って語りかけられ、丹楓はハッとする。――――そうだ、彼はあれ以来丹楓と友好的な関係を築こうとしてくれている。友人のいない丹楓にとって彼の存在は、驚きと新鮮さを教えてくれる唯一の人間だ。そんな彼に丹楓は敵意を剥き出しにしてしまっていて。
 ――――何故だかゾッと、背筋が凍るような錯覚を覚えた。
 堪らず左腕を摩り、ゆるゆると彼に視線を向ける。彼は怒っているだろうか、それとも失望してしまっているだろうか。――――そんな不安がよぎるものの、丹楓の考えとは裏腹に応星はぐっと距離を縮めて「弟さんか?」と丹楓に訊く。

「兄弟揃って別嬪さんだな……初めまして、俺は応星。お兄さんと仲良くさせてもらってるんだ」

 そう言って軽く膝を曲げて丹恒の目線になり、応星は人当たりの好い微笑みを浮かべる。夕暮れ時の時間帯と相まって人通りは疎らで、けれど親子連れが何組かいて。その中に自分たちも混ざっているかのような錯覚を覚える。このときばかりは一般的な家庭と全く同じだという感覚を得ながら、ちらと丹恒の方へと視線を向ける。彼は少しばかり緊張の面持ちで――けれど、丹楓ほどではない――「はじめまして」と言う。

「俺は丹恒、丹ふ……兄と仲良くしてくれてありがとうございます」

 丁寧に頭を下げて挨拶をする丹恒に、応星はカラカラと笑いながら「もっと気さくでいいぞ」と言った。流石に兄の友人で、初対面の人にそれは、と丹恒は抵抗の意思を示しているが、応星も一歩も引くつもりはないようだ。「せめて敬語は外しても」と応星が言うと、丹恒がすかさず「そういうわけには」と否定し始める。一般的な礼儀を兼ね備えている弟は、応星ほどではないが頑固な一面があった。
 これは長いやりとりになると、先に折れたのは応星の方で。彼は苦笑したのち、足を伸ばして立ち上がる。

「礼儀正しいいい子だな。俺にも弟がいるが、ここまでいい子じゃない」
「……応星にも弟がいるのか」
「まあな。それなりに似てると思うぞ」

 性格自体は真逆なんだけどな。
 そう言って雑談を繰り返すうちにふと、丹楓は自分の緊張感が薄れているのに気が付いた。無意識のうちに握り締めていたらしい手を開くと、滑稽なほど手のひらに爪が食い込んでいた跡が残っている。一体何を気にすることがあるのかと自問自答していると、応星が「もう帰るだろ?」と丹楓に問いかける。

「引き留めて悪かったな。また明日」

 そう言って応星は軽く手を振って惜しげもなく丹楓の隣を通り過ぎていく。その表情は普段と何ら変わりのない、人当たりの好いものだ。丹楓がいくら無表情でいようとも、決して差別などしない雰囲気をまとっている。
 それを丹恒も感じ取っていたのか、応星の背を見送る丹楓に「いい人だな」とだけ呟いたのだ。

 ――――以来応星は定期的に丹恒のことを気にかけてくるようになった。勉強とかで躓いていないかと訊かれた際に、丹楓は揶揄う口振りで「応星よりは頭がいいからな」と返したことがある。多少、怒られるのを覚悟した上での発言ではあったが、応星はきょとんと目を丸くしたあと「お前の弟なら当然か」と納得したように言った。
「気の許せる友人が何人かできたようだ。時々、会話の端に出てくることがある」
 話題が出るときは大抵疲れ切ったような顔をするのだがな。――――そう告げてやると、応星はそうかと笑っていた。丹楓は未だに会ったことはないが、応星の弟はそれはそれは仏頂面で、愛想も悪く、興味がないことにはとことん興味がない。そのくせ、友人と呼べる人間かいるかどうかも分からず、行く先が不安だと応星は愚痴のように言っていた。そのことを考えると、自ずと丹恒のことも気になるのだろう。
 明るい兄にして、愛想の悪い弟。応星曰くそれなりに似ているらしい容姿なのだから、少しでも人間関係を明るくしてみれば彼も安心するのだろうか。
 ――――全く関係のない他人の家庭を気にしつつ、丹楓は応星の動きを眺める。もう何時間もこうして応星の様子を見守ってきていたが、飽きが来ない辺り、自分が思うよりも遥かに人間観察に熱中しているらしい。丹楓がぼんやりと見つめているのを気にしてか、「そんなに見て何か面白いか?」と呟く応星に、丹楓は「面白い」と答えた。
 ペン先がノートを引っ掻く音。応星の動きによって微かに揺れる白い髪。横から見てもコロコロと変わる応星の表情――――どれを眺めていても全く飽きが来ないのだ。こんなにも眺めていても退屈しないのは相手が応星だからだろうか。そう考えていると、応星が再び気を紛らせるように唇を開いた。

 大学に上がって増えた共通の友人が、相変わらず賑やかで面白いのだと彼は言う。丹楓は家庭の事情があると言って滅多に顔を合わせられないのだが、応星から訊く限りでは全員息災のようだ。見た目とは裏腹に酒に強い白珠と腕っ節が強い鏡流は近々旅行に行く計画を立てていて、妙に小動物に好かれやすい景元は家業を継ぐための準備に日々勤しんでいるとのこと。
 このままでは顔を合わせないまま離ればなれになりそうだと言った白珠が、丹楓も交えた五人で飲みに行ったり出かけたりしたい、と言っていたと、応星が呟く。ふと、視線をこちらに寄越して、頬杖を突きながら「どうだ?」と丹楓の反応を窺った。
 大学に上がり、丹楓も既に成人を過ぎているとされている身。生まれてこの方、誕生日を祝ってもらった記憶のない丹楓は、正確な年齢こそは分からないが、恐らく彼らと殆ど同じである。そのことを考えるのならば、飲酒をしても何も問題はないはずだ。
 しかし、丹楓には弟がいるのだ。成人もしていなければ、家に誰かがいるわけでもない。掃除だの家事だのは一通りできるにしても、万が一のことを考えてしまうと不安で飲みに気持ちが入らないのだ。
 ――――けれど折角誘われている身として、何の考えもなしに断るわけにもいかなかった。丹楓は応星に「考えておく」と呟く。きっと、その機会が訪れることは滅多にないことを彼も知りながら、「分かった」と返事をするのだった。

 ――――そうして応星が再びノートに向き合い、ペンを握る。丹楓はそれを眺めながらぼんやりとガラスコップを手に取り、唇へと寄せる。応星の横顔は見ていて飽きない。それはどれだけ時間を重ねても変わらなかった。
 ――――そうして不意に、いつかの校舎裏で出会ってしまった告白がふと、脳裏をよぎる。彼は相変わらず丹楓の傍にいて、応星に関する色恋沙汰の話は一切耳に入ってこなかった。人気が落ちたわけではないようだが、どういうわけか応星の方がそれに応えようとはしないのだ。
 やはり彼には彼の恋物語が存在するのだろう。好いている人がいると言っていた手前、呼び出しを食らおうが何だろうが、彼は変わらずに丹楓の元に残り続けた。それが、友人のいない丹楓に対する同情から来るもののような気がしていて、堪らず申し訳なさが胸に募る。自分の所為で応星の青春を台無しにしてしまっているような気がしていた。
 ――――同時に、彼の優しさに漬け込んで甘えてしまっている自分がいることも自覚している。応星は優しい。時折傲慢な態度を見せるところがいやに愛しい。何故だか丹楓にはいくらか甘い気がして、家庭では決して与えられないそれに、丹楓は無意識のうちに身を委ねてしまっているようだ。
 このままではいけない。将来的に、丹楓は応星の傍を離れるべきだ。彼はまだ未来がある。彼には夢がある。精進すればきっと一人前の職人になるだろう。そこに、丹楓の存在はないのだ――――。

「っし、終わった」
「――――っ!」

 ――――不意に応星が背を伸ばし、両腕を上げ始める。静寂を切り裂いて起こった突然の行動に、物思いに耽っていた丹楓はびくりと肩を震わせた拍子に手の力を抜いてしまった。丹楓の手からするりと滑ってしまったコップは、丹楓の腹部にトンと落ちてしまう。未だに飲み切れていないジュースが彼のシャツに大きなシミを作り上げた。「あ」と思わず丹楓が呟きを洩らすと、背筋を伸ばしていた応星が「え」と言う。
 じわりと大きく色を変えた長袖のシャツに、一番に驚いたのは応星だった。
 突然勢いよく立ち上がったと思えば、「何か拭くものを持ってくる!」と声を張り上げ、そのままの勢いで部屋を飛び出す。廊下を走り、階段を上り下りする音が部屋にまで聞こえていた。あまりの勢いに丹楓は為す術なく呆然としていると、また応星が勢いよく部屋に戻ってくる。その手にはタオルが握られていて、丹楓の元に駆け寄るや否やそのタオルを塗れた場所に押し当てる。

「うわああすまん丹楓!」
「いや、其方が謝ることでは……」
「何でよりによってオレンジジュースなんだこれ」

 ぽんぽんぽんと応星は何度もタオルを服に叩きつけていて、懸命にシミにならないようにと奮闘している。その足下には未だに丹楓が落としたコップが転がっているというのに、彼はそれに目もくれず、一心不乱に丹楓の服に尽力していた。このままでは応星の部屋のカーペットがシミになってしまう、と咄嗟に彼に「床が、」と口を挟む。しかし、応星は「そんなもんはどうでもいい」と言い放った。

「このままじゃシミになるか……? 悪い、丹楓。服脱げるか? これ洗って返すから、今日のところは俺の服でも代用で着てくれ」

 服はそこのタンスに入ってるから。そう言って応星は不安そうな顔でじっと丹楓を見た。丹楓は応星がはっきりと言い放った言葉に拍子抜けしていて、応星が何を言っていたのか理解が追いつかなかった。何を言っていたのかと懸命に思い返していると、痺れを切らせたらしい応星が、丹楓の服の裾を掴みかかる。

「なっ」
「おい何抵抗するんだ、シミになったら困るのはお前だぞ」

 掴まれた勢いのまま上げられそうになった服を咄嗟に押さえつけた丹楓に、応星は負けじと力を込める。ギリギリと接戦を繰り広げながら「気にしなくてもいい……!」と苦し紛れに言葉を絞り出した丹楓に、応星はそういうわけにもいかんだろ、と言った。
 彼の言い分はもっともだ。拙いながらも家事を務める丹楓も服にシミが残ることの不快感はもちろん兼ね備えている。いくら洗っても頑なに落ちない汚れと格闘することの疲労感は、言葉に表すのも嫌になるほどだ。
 加えて今、部屋どころか服から甘い香りがするとなると、気が散ってしまう原因にも成り得る。そのことを踏まえて正論を言っているのは応星であることは明白だが――――、事情が事情だ。丹楓は決して肌を晒さないよう、必死の抵抗を試みた。
 力量で言えば丹楓よりも応星の方が上だ。抵抗はしているが、少しずつ服が捲らされているのが分かる。普段使わない筋肉が悲鳴を上げていて、もう抵抗も限界だと腕が震えているような気さえした。――――けれど、丹楓にも見られたくないもののひとつやふたつが存在している。つい先日の痕跡が、今までの傷跡が応星に見られるのが嫌で、力の限り抵抗を続けていた。
 隠してきたのだ、今の今まで。高校で応星と知り合い、水泳では適当な理由をつけて肌を晒すことを避け、夏場だとしても断固として半袖を許さない。どれだけ汗をかこうがシャツの下に服を仕込んで、涼しい顔で耐えていた。そのどれもが応星に見つかって同情と嫌悪を向けられないようにするためだった。あまり日光に肌を晒せないと嘯いて納得させた理由が、こんな状況でバレてしまうなど避けたかった。
 彼の温かさに甘えていたから。できる限りそれに浸っていたくて――――。

「――……すまん!」
「え、」

 突然声を張り上げたと思った矢先、応星は丹楓の肩に手を置く。傷跡がひとつもない作品を生み出す大きな手が丹楓の肩を掴んだと思えば、ぐらりと世界が傾いて上半身に小さな衝撃が走る。ベッドを背もたれにしていた丹楓の肩を掴んだ応星は、彼を押し倒した。その衝撃で、抵抗していた丹楓の手からは力が抜けてしまって。ハッとしたときには全てが遅かった。
 服の下にひた隠しにしていた腹部が空気に晒される感覚が走る。ほんのり涼しいような、やはり寒いような。その中でひとつ、ゆっくりと肌を滑る温かな指先の感覚があって、丹楓は唇を開き――――何も言えずに閉ざす。穏やかな顔が。応星の穏やかな顔付きがみるみるうちに血相を変えていた。眉間にシワを寄せて、彼も何も言えなくなっているのを見ると、言葉も出なかった。
 見られた。

 ――――たったそれだけの言葉が脳裏をよぎって、消えた。

「何だよ、これ……なあ、丹楓……」

 そう応星が信じられないものを見たような口調で、丹楓に言葉を投げかけた。対する丹楓は全てを諦めたようにぼんやりと見慣れない天井を眺め、自分の体の状態を思い出す。
 
 先日の彼女は例に漏れずヒステリックに喚いていた。家に来たときよりも年老いた顔をしていながら、化粧で全てを偽る技術の腕は落ちていない。その彼女は、丹楓の顔を見るや否や全身を震わせて、丹楓が咄嗟に丹恒を部屋に押し込むと同時に勢いのいい平手打ちをかましてきた。パンッ! と容赦のないそれに堪らず体勢を崩し、くらくらと視界が点滅するような錯覚を覚える。切るのも面倒に思っていた髪を掴まれ、顔を上げさせられた先で見た彼女の顔は、それこそ鬼のようで。親の仇でも見るような目付きは相変わらずだ。
 ――――彼女は丹楓の顔が嫌いなのだ。男だというのに女のように整い、綺麗でシミひとつない彼の顔が、とても嫌いだ。その顔立ちは彼女の恨み言を聞く限り、雨別によく似ているらしい。彼と大差のない目付きも、輪郭も、何もかもが彼女の神経を逆なでするようだ。
 加えて彼女は一度、男に「君の家にいる子の顔が好きだ」と言われているようで。それも相まって一層丹楓に対する怒りが収まらないようだった。この調子であればきっと、丹楓に何かあったときに目をつけられるのは丹恒だ。彼も綺麗な顔立ちをしていて、髪でも伸ばせば丹楓によく似た見た目になる。言動こそは多少の違いがあるものの、顔で全てを判断している彼女からすれば、丹恒も怒りと憎しみの対象になるだろう。
 それだけは避けなければ、と丹楓は覚悟を決めた。抵抗をすればまた長引くだけだから、彼女の気が済むまで殴られるのが一番の選択だ。顔をどうにかして傷付けてやりたいが、世間の目もある以上、彼女が狙うのは胴体だけだ。そこを狙われ続ける覚悟を決めて――――ただ、時間が過ぎるのを待った。
 彼女は家に居座らない。ありったけの言葉と力を振るってから、乱した髪を手櫛で軽く直して、スマホを見てからまた家を出る。今回は数十分ほど殴られていたようだ。廊下に倒れていた丹楓は、体を起こそうと床に手を突く――――が、妙に力が入らない。腕が震えて、何とか上半身がギリギリ起こせるものの、腹部に力が入らず、下半身までに踏ん張りが利かないのだ。
 一体何かと疑問に思っていると、扉の隙間から見ていたらしい丹恒が咄嗟に駆け寄ってきて、勢いよく服を捲る。バッと捲り上げられた先、弟が血相を変えたのを見て、丹楓も自分の体に目を向けた。見れば脇腹が鬱血していてすっかり赤紫色へと変色している。その大きな箇所を除くと、胴体の殆どを痣が覆っていて、彼女の今日の機嫌が悪かったことを思い知らされた。
 丹恒の制止の声を振り切って何とか体を廊下の壁に寄りかからせ、カタカタと小さく震える弟を抱き締めてやって、背中をポンポンと叩く。傷を負ったのは自分だが、それ以上に痛みに苛まれているように見える弟を慰め、夕食の支度をしてほしいと頼んだのは記憶に新しかった。

 脇腹だ。驚愕するほどのものを見たということは、応星は脇腹を見て言ったに違いない。丹楓はこれにどのような言い訳をしてやろうか考えた。階段で転んだにしては外傷が足にはない。車に撥ねられたが奇跡的に命に別状はなかった、と言おうにも近くには基本的に丹恒か、応星がいるときたものだ。丹楓の、弟に対する態度を考えれば事故に遭う、というのもあまり選択肢にはないだろう。
 結局いい案が思い浮かばなくて、丹楓は諦めたかのように溜め息を吐き、たった一言「何でもない」と応星に告げる。素っ気なくしすぎたような気がしたが、応星はそれを気にすることもなく――――というよりは気にする余裕もなく、「何でもないわけがないだろ!?」と言う。

「誰にやられた? よく見るとこれ以外にも色んな傷跡があるが、日常的なものか?」
「………………」
「親か? お前から丹恒くん以外の兄弟関係の話は聞いたことないし、丹恒くんがそんなことをするようにも見えない……そうだろ」

 丹楓は応星の疑問に一度も答えるつもりはなかった。ただぼうっと、天井から応星の顔へと視線を移し、じっと見つめる。丹恒と全く同じように何故か応星が傷を背負ったような表情をしていて、見ていていたたまれない気持ちに苛まれた。――――それと同時に少し、怒りが滲んでいるような気さえする。藤紫色の瞳が、ほんの僅かに赤みがかって見えるのは錯覚だろうか。

「病院、いや、警察に――――」

 沈黙を肯定と見なしたのか、応星はギリリと歯を食い縛ったあと、意を決したようにぽつりと呟く。病院も、警察も、どちらも面倒事を引き立たせるきっかけにしかならなくて、丹楓はそっと応星の首に手を回した。

「よしよし」

 そう言って背中を軽く叩いてやって宥めると、応星は驚いたように「は……?」と口を溢す。丹楓が応星を抱き寄せた拍子に体勢を崩した彼は床に手を突いていて、腹部には触れていなかった。

「そう傷付いた顔をするな。痛みはない。面倒事も起こしたくはない。何もしないでいい」

 背中を叩いて、頭を撫でてやって。応星が堪えきれず「それはおかしいだろ、」と言うものの、丹楓は肯定も否定もしなかった。ただ、腕の中にいる応星がいつものように笑ってくれることを願い、宥め続ける。彼がどのような感情を持ち、どのような表情をしているのかは一切分からなかった。
 そうして応星を宥め続けること数分。背中の方から小さく溜め息を吐く音が聞こえたかと思えば、応星がもうやめろ、と呟く。「もう大丈夫だから」「お前の言うことをきちんと守ってやるから」――――そう言って丹楓に制止を促した。それに応えるように丹楓は腕を放すが、落ち着いたと言い張る応星の表情は未だに暗いままだった。

「…………無理矢理暴いて悪かった」

 ぽそ、と彼から呟かれたのは謝罪の言葉で。すっかり気落ちしたような態度の応星は、子犬が悪さをしたときのそれに近い。耳や尻尾がついていたら垂れていたであろうその様子に、再び丹楓は頭を撫でると、「やめろって」と応星は言う。

 ――――言うが、満更でもなさそうな表情は隠し切れていなかった。

「気にすることじゃない。……それより、もうそれなりに時間が経ってしまった。もうシミになってしまうだろうな……」

 髪をくしゃくしゃと掻き上げるように撫でていると、遂に応星の手が丹楓の手を取る。鬱陶しいだとか嫌だとかを言ってきているわけではなく、ただ少しばかりの羞恥心が見え隠れしている。彼は丹楓と同じ長男の立場だ。その上、丹楓よりも幾ばくか身長が高いことを踏まえて考えると、応星は撫でられることに慣れていないのだろう。
 かわいいかわいい。口に出してやらないけれど、応星は見た目によらずかわいい姿を見せてくれる。彼に見初められる女は毎日こうして愛でていられるのだと思うと、少しだけ寂しい気さえした。
 そうして内緒で愛でていると、ふと応星が丹楓の目を見て、何やら不機嫌そうに目を細めた。「随分と楽しそうな顔をしてるな」そう言って小さく溜め息を吐いて、丹楓から覆い被さるのをやめる。体勢を立て直して、そのまま丹楓の手を取って彼の体も起き上がらせる。少しだけ乱暴になってしまったことに対する謝罪を溢してくるものだから、気にしていないともう一度言えば、応星は苦笑を洩らした。
 今にも泣き出しそうな表情、というものはこういう表情のことを言うのだろう。笑っているのに傷付いた顔ばかりしているものだから、丹楓は胸の奥がチクリと痛んだような気がした。

「…………?」

 わけも分からず丹楓は自分の胸元に手を置いてみる。しかし、丹楓の体には目立った外傷はあるものの、胸の奥が痛むような傷はどこにもない。病気かと思いもしたが、それらしい症状は出たことがなかった。

「…………なあ」

 丹楓が一人で思い悩んでいると、ふと応星が彼に声をかける。体を起こすときに握られたままの手には力を込めて、丹楓を離さないようにしているようだった。それに応えてやるべく「どうした」と言えば、応星は苦しそうに「何も言わないからさ」と言った。

「手当て、くらいはさせてくれないか」

 このまま眺めているだけじゃ嫌だ。
 彼はそう言って懇願してくるものだから、丹楓は少しだけ考え込んだあと頷いて、それを了承した。