その日の丹楓は結局応星の服を借りて、応星は丹楓の服を洗ってから返すという約束を取り付けた。体の事情を知った応星がタンスの奥から引っ張り出した薄手の長袖の服は、丹楓のサイズのものより少しだけ大きい。何だか新鮮な気持ちになりながら近所のスーパーに赴き、食材を買ってから帰路に就いた。夕食の支度をしながら風呂の用意もして、上機嫌で家事をこなしていると時間の流れが速く感じられる。「ただいま」と言って帰ってきた丹恒に「おかえり」と出迎えてやると、彼は驚いたかのように目を丸くしていた。
夕飯の支度は俺がすると言っただろう、と丹恒は苦言を呈する。そして、兄の服が今朝のものと異なっているのを見かねて、応星と同じように血相を変える。彼の場合は体の事情が気付かれたことによって、生きにくくなってしまうだろうという心配から来るものが多かった。そんな丹恒を丹楓は宥めてやると、ふと丹恒の表情がふて腐れたようなものに変わる。「いい加減子供扱いはしなくて平気だ」と手を退かそうとするが、すかさず丹楓は「余がしたくてしていることだ」と言えばそれ以上は抵抗しなかった。
「だが、夕飯の支度は俺がする。丹楓は風呂にでも入っていてくれ」
上がる頃には全部終わっているから、と言って踵を返し、丹恒はキッチンへと向かっていった。着替えるよりも先に家事をこなそうとする姿勢を褒めてやりたいが、そうすればまた子供扱いするなと言われてしまう。構い過ぎて嫌われるのも嫌だなと思い、丹楓は「分かった」と言ってその場を丹恒に任せて自室へと赴いた。
丹恒の部屋の向かい側にある扉を開けて見える己の部屋は、必要最低限の物しか置かれていない。机も、本棚も、丹恒にあげて、丹楓に残されたのはベッドと、タンスくらいのものだ。けれど、丹楓自身はそれに満足しているし、丹恒に不便な思いだけはさせたくないと思っている。
タンスから必要なものを取り出して、浴室へと向かう。洗面台に備え付けられている鏡を横目に見ながらぐっと服を捲り上げると、応星が丁寧に手当てを施してくれた胴体が顔を覗かせた。湿布に、ガーゼに、大きな真四角の絆創膏に。いやに手慣れた作業に「随分と慣れているな」と言えば、彼は「弟が小さい頃からよく傷をこさえてきてたからな」とだけ言っていた。ここまでのものは滅多になかったが、とも言っていた。それでも応星はそれ以上の話をすることもなく、真剣な眼差しで手当てを施してくれた。何かあったら俺に言えよ、これくらいならできるから、と言っていたその表情は、やはり少しだけ怒りが隠れている気がしていた。
丁寧に施してくれた手当ての痕跡を外すのは忍びないな、などと思いながら丹楓は湿布やら何やらを外していく。本来ならば、外していく拍子に皮膚が引っ張られていくらか痛みが伴うはずなのに、丹楓の体はその痛みを少しも感じることはなかった。感覚がいくらか壊れてしまったのかと首を傾げるものの、胸の奥に出た痛みは感じられたしな、と頭を悩ませる。これは本格的な病気かどうかを考えて、何気なく手元にある応星の服を見て、これは丁寧に洗って返さねばと意識を逸らした。
風呂に入って、丹恒が用意してくれた――殆どは丹楓が手がけた――夕食を二人で突いて、丹恒の友人の話を聞く。弟の友人の中にはゴミ箱を漁る癖のある、随分とクセの強い顔触れがいるようで、話を聞く度に環境が気になって仕方がなかった。――――しかし、それでも丹恒は少しだけ面白そうに話すものだから、丹楓はいつまでも不問としているのだ。
丹恒が少しでもおかしな影響を受けようものならば、交友関係を改めさせることも視野に入れていたが、真面目な彼はその影響をこれっぽっちも受けていないようだ。丹楓はうんうんと頷きながら食事を進めていて、無言でする食事よりはいくらか心が軽かった。
雨別に報告することが増えたと思う。手紙に何を書こうか、じっくりと考えていた。丹恒が率先して家事を手伝ってくれること、彼の身の回りはとても明るくていい友人に恵まれていること。自分のことは自分で何とかすると言わんばかりに、バイトも始めていて軌道に乗っているらしいこと。丹楓自身のバイトも両立はできていて、それなりに充実していること。気付かれている可能性はあるけれど、念のため自分の体の事情は伏せておく――――と考えて、話題の中心が丹恒であることに不思議と頬が緩んだ。
すると、不意に丹恒が「そう言えば」と思い出したかのように言う。
「進路の話が出てな。こういうのは早い段階から決めた方がいいと担任が言っていたから決めたんだが」
「進学するのか? 其方は小さい頃から歴史のものに触れるのを好いていただろう。そういったものが捗る場所くらいなら目星はついているが」
どうして俺よりも先に進学先を調べているんだ、という言葉を聞き流し、丹楓は彼の言葉の続きを待っていた。丹恒がどのような選択をするかなど丹楓が決められたことではないが、進学さえしてくれればそれでいいというのが丹楓の、兄としての願いだった。何せ、好きなものや興味のあるものに触れているときの丹恒は、それはそれは年相応の少年に見えて嬉しいからだ。薄灰色味のある翡翠の瞳を輝かせて、じっと本に向かい合っているときの表情を、丹楓は知っている。
そのときの丹恒は、まだ丹楓の膝に収まって爛々とした瞳を瞬かせながら、これはこうだと逐一丹楓に教えてきた幼少期とそっくりだった。願わくばその輝かしい表情をこれからも見せてもらいたくて、丹楓は丹恒の言葉を待った。
丹恒は兄が真っ先に進学先の候補を見つけていたことに対して、多少の驚きを覚えたものの、すぐに表情を取り繕って一点の曇りもない綺麗な無表情へと変えてしまう。それは、奇しくも丹楓とよく似ていて、やはり兄弟であるという確信を抱かせた。
――――だから、少しだけ怖くなった。丹恒までも手をあげられてしまいそうで。
そんな丹楓の不安も露知らず。丹恒は唇を開くと、「進学は考えていた」と言う。
「だが、やっぱりやめた。高校を卒業したら就職するつもりだ。そうしたら丹楓の負担もいくらか減らせるだろう?」
丹楓のように進学していくのも悪くないと思っていたが、もう見ていられないから。
そう言って丹恒はじっと丹楓を見つめていて、ぽつりぽつりと自分の考えを語っていく。
二人で働いて、貯金を貯めて、この家を出ようと。できるだけ遠く、親族の手の届かない場所に身を隠して、けれど友人たちには会える距離が望ましいと。そうしたらきっと、丹楓はもう痛い目に遭わずに済むだろうから。心から安心して生活を送れるだろうから。
そういう未来を少しでも歩んでいきたい。――――丹恒はそこまで言い切って、じっと丹楓の様子を窺っていた。丹楓が少しも返事をしないことに違和感があるのか、「どうだろうか」と返事を促して兄の反応を待つ。
丹楓は弟の考えを聞いて、もっともだと頭では納得していた。丹恒の考えは至極まともだ。このような家庭環境に身を置いていたら、いつしか破綻してしまう。命が尽きてしまえば未来などなく、安心感よりも不安を残してしまうだろう。
彼は優しい。優しいからこそ自分の希望を追いやって、どうすれば丹楓が解放されるかを考えたに違いない。彼なりの考え方で、彼なりの方法で、現状を鑑みてから、決めたのだ。
――――それを一振りで振り払うよう、丹楓は小さく呟いてみせた。
「余は、丹恒には進学してほしい」
好きなものに触れて好奇心を奮い立たせている其方を眺めていたい。
これは紛れもない丹楓の本心で、強く願っていることのひとつだ。丹恒は丹楓とは違い、様々なものに触れて何が好きなのか、何が嫌いなのかを明確にしてきた。丹楓が持ち合わせていない感情の数々を、丹恒が持っていると思えば心が震えるほど嬉しいとさえ思える。まるで自分の半身が自分の代わりに生を謳歌しているのを見ると、自分がどれだけ不遇な扱いをされていようが何だろうが、どれもがどうでも良くなるほど嬉しかった。
丹恒は丹楓の背を見て学び、追いかけてきていた。だからこそバイトもしようと思い立ち、家事をこなそうと決意した。その考えが丹恒の無意識で行われているとはいえ、やはり悪い気はしない。悪い気はしないが、自分の考えを捨てることだけはしてほしくなかった。
「何故だ、やはり迷惑だっただろうか……」
丹楓は丹恒の考えを尊重することが多い。今回も丹恒の考えには賛同してくれるだろうと思っていた彼は、兄の言葉に傷付いた表情を隠しきれなかった。眉尻は下がり、動揺からか視線が丹楓の顔からどこかへと逸らされてしまう。食事をしていた手は止まり、わけもなく指先が箸を微かに揺らしている。語尾が多少小さくなったことに気が付いて、自信をなくしてしまったらしい丹恒に、丹楓は首を横に振った。
「迷惑などではない。其方の気持ちは何よりも嬉しいと思う。――――だが、余は丹恒には丹恒の好きなことをしてほしいのだ」
「進学を少しでも考えていたのだろう」そう訊けば丹恒は微かに、けれど確かに頷いてみせた。
「けれど、金銭面を考えて、環境を考えて断念しようと思ったのだろう」そう再び問いかければ、丹恒はもう一度首を縦に振った。
「だったら何も気にしなくてもいい」
「だが! それでは丹楓が」
「だからだ、丹恒。其方の人生は余が中心ではないだろう。妥協で進学を諦めてしまったのなら、きっと後悔することになる。そんな丹恒を、余は見たくはない」
分かってくれるか、丹楓は意地を張る丹恒に優しく語りかけ、返事を待った。彼は酷く不服そうで少しも納得がいかないような表情をしているが、あくまで丹楓が丹恒の喜んでいる姿を見ていたいと言うと、否定する気持ちも起こらなくなってくるようだ。
渋々――――本当に嫌々頷いて、「分かった……」という丹恒に、丹楓はそれでいいと言った。
そして手を伸ばし、自分とは違った短髪を軽く撫でてやる。子供扱いするなと一蹴されるかと思っていたが、丹楓の考えとは裏腹に丹恒は甘んじてそれを受け入れていた。ふわふわと飛び跳ねている短髪を軽く撫で、「そんな顔をするな」と丹楓は言う。そんな顔をされたら余は悲しい、と言ってやると、丹恒は「どの口が言うんだ」と言い張った。
もちろん丹恒が不機嫌になったのは丹楓が原因だ。彼は兄として弟の考えに賛同してやるべきだったのだと思う。賛同して、高校を卒業して、稼いでこの家を出て行く。――――それに一体どれほどの時間がかかるのかと考えれば考えるほど、やはり丹楓は反対して正解だったと思う。疲労で草臥れた丹恒の姿など一度だって見たくはないものだから。
だから多少嫌われたとしても、彼の体のことを考えればこれが正解だったのだ。
「……冷めるぞ。早く食べよう」
もういい加減にしてくれと言わんばかりに丹恒は丹楓の手を退けて、箸を握り直した。
素っ気ない態度が少しだけ胸に刺さる。――――しかし、丹楓はそれを表情に出さないまま「ああ」と言って、同じように食事を再開する。口数は減ってしまったが、彼は丹楓がしっかりと食事をしていることに、何故だか安堵の息を吐いていた。
――――大丈夫、問題はない。丹恒に手出しはさせてやらない。
――――丹楓が決意を固めるのを、丹恒は知るよしもないのだ。