その日は天気もよく、街中のスーパーではいくらかのセールが行われていた。景気がいいのか、それとも行事ごとが重なっているのか。衣類はおろか、食材まですっかり値引きされていて、これ幸いにと沢山の人集りができていたのだ。老若男女――というよりは、二十代から五十代女性を中心とした沢山の主婦たちがこぞっていて。流石の彼、応星もその人集りにがたいのいい体を割り込ませるのには骨が折れた。
昼下がりから始まって、普段通りの買い物に来た彼はここぞとばかりにそれに目を付けたが、血気盛ん、或いは殺気立っている主婦たちに勝てる気はしなかった。何とか人集りを縫って、適度に使えそうな食材やら何やらをカゴに突っ込み、そそくさとその場を後にする。それを繰り返すこと数回――、用を済ませた応星の体はすっかり草臥れてしまって、肩に提げたエコバッグは持ち手がずり落ちる。昼間という時間も相まってなのか、普段よりも多い人集りに彼は大きく溜め息を吐き、店から出てすぐの垣根に沿えているベンチに座り、人一倍長い足を伸ばす。お洒落に気を遣ったことなど一度もありはしないが、レジに並ぶとどうにも視線の針が痛かった。
――とはいえ、主婦たちの戦争に比べれば何てことないものだと知ったのは、つい先程。それも数秒前の出来事である。
どうやら周りよりも顔立ちがいいらしいと自覚し始めたのは、応星という人格が確定した思春期を超えた頃。声変わりも挟み、人付き合いも程々にこなしていると、次第に女から声をかけられるようになった。校舎裏への呼び出しや、下駄箱に入っているラブレターを揶揄われたことだけは、少々しつこいと思っていたことが懐かしい。それは三十路になった今でも変わらずに、そこそこの視線を集めるものだから尚更だ。
気分が悪い、なんてことはない。同性であれ、異性であれ、人から好かれることは嬉しいことだった。幼い頃は今とは違って酷くおどおどしていて、すぐに恥ずかしがる性格をしていたものだから、周りに「女かよ」と揶揄われたこともある。――そう思うと、優越感にも似た感情が湧くのだ。
――お前たちが女かと揶揄していた応星は、結構モテるぞ、と。
――だが、どうしてか彼は女との付き合いは長続きしなかった。それは勤勉に励む学生の頃からずっとだ。応星も男である。数回は確かに女と付き合い、それなりの経験を積み重ねてきた。彼女が好みそうなプレゼントも選び、デートだって重ねた。いい雰囲気になった頃には流れに身を任せるよう、双方合意の身体関係も築いた。修学旅行やら何やらで友人に立派だと言われるそれを、入らないと拒まれたことには多少なりとも傷付きはしたが、別れるほど傷心はしていなかった。
けれど、どうしても。どうしても長続きしないのだ。
最初は三ヶ月、その次は二ヶ月。次第に短くなる期間の最後には、決まってこう言われる。
『応星くんは私のこと、好きだと思ってないよね』
――と。
実際彼はそのような失礼な態度を取った試しはない。確かに何度か付き合いを重ねているが、決して目の前にいる彼女以外を想起するほど、落ちぶれたことはなかった。相手のことを考え、相手のためになることをしているはずで、彼にとってそれが最善だと結論づけたことを行っているだけなのだ。
しかし、彼女たちからすれば、応星は自分以外の誰かを想っている態度を見せているというのだ。
その正体が一体どこの誰であるのか、応星は突き止めることもできないまま成人してしまった。その頃にはもう男女の付き合いなど長続きしないことを理解していて、たとえ好かれようともこちらから受け入れることはなくなった。
――何よりそういった余裕が生まれなくなったのだ。
学校を卒業間近、進路をどうしようかと悩んでいた最終学期末。冬の最中、枯れ枝にほんのり雪が積もる曇天の日。ぼんやりと家の中で暖房器具に囲われ、暖を取っていた応星は、年が離れている自分の弟、刃に三時のおやつを分け与えながら呆然と窓から空を眺めていた。雪が降るほど寒く、冷えた空気が肌を刺すように痛い。家の中でこれなのだから、外は相当寒いのだろう。急遽呼び出しを食らい、仕事へ出向いた両親を労うために、熱々の風呂を沸かしておいてやろうと思っていた矢先だった。
――両親が不慮の事故に巻き込まれたと、一報が入ったのは。
誰かが何かをしたというわけではない。枯れ枝に雪が積もるほど、悪天候だっただけ。急遽仕事へ出向いてしまった両親は、家に残されている応星と刃にそれぞれ詫びの品を買うために、二人そろって買い物に出たらしい。その帰宅道中、タイヤがスリップした車に轢かれ、そのまま亡くなったそうだ。
悲しみに暮れる暇などなく。応星は就職を余儀なくされ、人付き合いも程々になった。親戚たちは弟である刃がいやに寡黙で、酷く大人びていることと、緋色の瞳を嫌い、引き取るなら応星一人がいいと言い放っていた。当の本人である刃も拒むことはなかったが、それを良しとしなかったのは、他でもない応星だ。
彼にとって刃は、血の繋がりがあるたった一人の身内になってしまった。その関係を切り離すよう、別れを切り出されるのは、応星にとって嫌であることこの上ない。血の繋がりが絶たれること――それは、後頭部から金槌で殴られたかのように衝撃的で、やけに恐ろしかったのだ。
幸い両親が遺してくれた遺産もあったため、彼らは――もとい、応星は刃と共に暮らすことを選んだ。その道を、感情が希薄な刃も選ぶと思っていなかったのか、静かな目を丸くして驚いていたのだ。もう二度と失いたくないと思っている所為か、彼を止める者は誰も居らず、応星と刃はそのまま二人、肩を寄せ合って生きることを選んだ。
初めこそは手間取り、できることとできないことの区別もつかなかった。全てを両親が担っていたのかと思えば、今更ながら申し訳なさすら抱くもの。不思議なことに、刃は弟であるというのに、応星の数倍は手慣れた様子で家事をこなしていたように思う。
――今思えばおかしなことだとは思うが、当時は周りの忙しさに漬け込んで、その異常性を一切疑わなかった。寧ろ、「俺の弟は随分と才に溢れているんだな」などと呑気に思ったものだ。その上、その賢さに嫉妬の情すらも抱いたことはない。受験だの進路だのといった忙しなさに目を回していたところ、すぐ近くで常に助け船を出していたのは他でもない刃だ。会話こそ少なかったが、それとなく労るように夜食なんて者を用意してくれていたこともある。
もちろん彼だけではなく、ごく身近な友人――特に景元なんかは馴れ馴れしくとも、変に揶揄うことは少なかった。両親を失ったと知ったときには酷く落ち着いた顔のまま、「何か力になれることがあるなら、喜んで力になるよ」と柔和に言った。
流石、家が富豪の奴は言うことが違うな、などと揶揄ったが、景元はただ微笑んだまま頷くばかり。それに気圧され、応星はその手を取ったのだ。
――結論から言えば、特にそれといった助けを応星は求めなかった。
自力でこなせるものがあるのなら、自力でこなす。時間を要するものがあるのなら、それに匹敵する努力を身につける。――ただそれだけのことをしていただけで、目の前が暗くなるほどの衝撃を、彼は受けたことがない。
ただ、不定期に顔を合わせることは数回あった。
成人して、就職の道を選んだ応星は、その手の器用さから物作りの道へと進んだ。小物から始まり、装飾品を作り、遂には陶芸に手を出して数々の良作を生んだ。初めの頃は若造が何だと、長年技術を身につけてきた匠に言われ、ろくに指導も受けさせてもらえなかった。そのことに腹を立てながら物作りに没頭すれば、焼き上がった作品たちは見る者の目を惹きつけた。
「老い先短い匠たちよりも遥かに早く、応星の名を浸透させれば、この技術は受け継がれ続けるんじゃないのか?」
――なんて匠を挑発する言動を取ること数回。今ではすっかり打ち解けてきたと言っても過言ではない人間関係を築けたと思う。そのお陰か、何度も「結婚はしないのか」や「彼女の一人くらい連れてこい」などと言われることが増えたのだが。
その予定があれば応星も、苦労はしていないのだ。
「…………はあ」
しかし、世の中の主婦は大変だな、と応星はちらりとスーパーを見やる。彼が休憩を挟んでから凡そ数十分。溢れかえっている出入り口の波は未だに収まることも知らず。値引き商品を手に入れる為なら、どれほど苦痛であろうとも厭わないのだ。――そう思う度に、応星は拘ることを捨てるべきかと考える。幸いなことに、彼はもう周りから立派な陶芸家として認識されているのだ。
ひとつ作品を並べれば、我先にと目を付けていた客が買い求める。それが繰り返されれば嫌でも懐が暖まり、今ではそこそこ暮らしに余裕が生まれている。値引きや何だと拘ることをやめて、普段のように何気なしに生活を送っていても、許されるだろう。
「……いや、妥協はするが、あわよくば……」
惰性での生活を頭から振り払い、応星は腕を組んで頭を悩ませる。いくら生活に余裕があるといっても、金に溺れるなど言語道断。手塩に育ててくれた両親が天国で涙を流すと思うと、惰性で生きるのは得策ではないのだ。
とはいえ、この戦場――もとい、集いを目の前にすると気が引けてしまうのもまだ事実。やはり、メリハリをつけるのは大事だと一人で頷いて、応星は荷物を持ち立ち上がる。
成人した刃は就職の道を選んだが、応星は彼が何の職種に就いているのか、少しも知りはしない。これといって知りたいとも思ってもいない。ただ、何故か臨時のバイトだと言って喫茶店で働いているという話を一度だけ聞いたことがある。今日はそのバイトがある日で、終わり時刻は大体夕方の五時――つまり十七時だ。それに合わせて夕飯の支度も風呂の用意もしておかねばならない。いくら成人していても、長年染みついた癖は取れることはないのだ。
「そうと決まれば帰るか……肉が案外安かったからな、たまには贅沢するのも悪くないだろ」
そう独りごちて、応星はぐっと背筋を伸ばす。生まれてからずっと地毛である白髪に幼い頃は好奇な目を向けられることが多かったが、今では周りもすっかり慣れてしまって。さわさわと風が吹く度に揺れるそれに、ほんの少しの眩しさを感じてしまう。黒髪であれば眩しくなかったな、何て思いながら顔にかかるそれを払い、応星は足を踏み出した。
忘れ物はないことを確認して、夕飯の支度の手順を頭の中で整理する。初めは手こずっていたそれも、今では味付けに拘るほどすっかりハマってしまって。両親に食べてほしかったかもしれないな、と小さな笑いを溢すのだ。
――だからこそ目の前に現れた人の影に気が付かず、ハッとしたときには全てが遅かった。
「うっ」
ドン、と体に走る鈍い感覚に、よそ見をしながら考え事をしていた応星の頭が冴え渡る。がたいのいい、成人をとうの昔に迎え終えた応星の体はよろけることもしなかったが、ぶつかってしまった相手の方は違ったようだ。「今、誰かとぶつかった」――そう気が付く頃には、相手はよろめいてから足を踏ん張っていた。幸いにも尻もちをつくことはなかったが、ぶつかった拍子にバサバサと音を立てて何かが落ちてしまったようだ。
「――っと、悪い! よそ見をしてた!」
現状を認識するや否や、応星は咄嗟に膝を折り、落ちてしまっているノートや本の類いを拾い始める。買いたての新品のノートにはビニールが施されていて、汚れなどの心配はなかった。しかし、読み進めていたであろう本はそうもいかなかった。落ちた拍子に山なりになってしまったそれを急いで拾い上げ、パパッと砂埃を払う。それでも折れ目のついたページの存在は酷く目立ち、応星は体の芯から凍えるような寒さを覚えてしまう。
「……すまん、折れ目がついてしまった……」
「ああ……いえ、もう読み終わっているので」
応星の気弱な謝罪によろけた彼は淡々とした声色で返事をした。本当に申し訳ない、と口を突いて出た謝罪の言葉を再度洩らし、応星は手に持った本を差し出す。文学を嗜んでいるのか、ただの好みか。それは何の変哲もないミステリー小説で、一度は目にしたことのある有名なものだった。
その表紙を見て、たまには本を読むのもいいかもしれないと頭の片隅で考えながら、彼の反応を窺う。彼は一度躊躇うように手を宙に躍らせたあと、「ありがとうございます」と呟いた。そうして差し出した本を手に取った拍子に、応星は彼の顔をまじまじと見つめてしまう。
黒く短く、僅かに癖の目立つ髪。男にしては睫毛が長く、少しだけ幼さの残る顔立ちは、成人もすればすっかり端正な顔立ちになるだろう。翡翠よりも僅かに影の残る灰青色にも似たその瞳には、芯が宿っていて彼らしさを物語る。その片目だけにあしらわれた紅の化粧は、彼によく似合っていた。
さらり、柔らかな風が彼の短い髪を撫でる。その光景をどこかで見たような気がして、応星は息を止めた。
彼とはどこかで会ったことがあるだろうか。そんな疑問がふと、応星の脳裏をよぎる。ただでさえ分け隔てなく、広い人脈を築き上げてきた応星のことだ。どこかで顔を合わせているという錯覚を得ることは、一度や二度、経験している。そういうときは当然相手の方が記憶力がよく、その流れに身を任せることがもっともだが――今回ばかりはそうともいかないようだ。
彼とはたった出会ったばかりだ。それはぶつかった応星も、彼も面識がないからこそ言い張れる事実。一度でも顔を合わせようものなら、どちらかは――特に応星は、この顔立ちのいい青年を忘れることはないだろう。
――しかし、応星はその顔に見覚えはない。将来有望だと揶揄われていても過言ではないほど、綺麗な見た目をしている青年を、応星は一度だって見たことがない。それは、彼も同じだ。見た目とは裏腹に白く染め上げた長髪を持つ応星を、彼は一度でも目にすれば嫌でも記憶に残るだろう。見た目からして真面目で、記憶力の良さそうな彼であれば、忘れることなど滅多にないはずだ。
それでも両者共に、お互いに面識はないのだ。そういった言動を、お互いが取っているのだ。
なのに。どうして。
一度でも見たことがあるような既視感を覚えてしまっているのだろうか――。
「…………あの」
「あ、ああ……悪い、ぼーっとしてた」
彼に返そうと差し出していた本を、応星は無意識のうちに力強く握っていたようだ。彼がそれを手に取り、ぐっと引き寄せようとも一向に離されず、怪訝な顔をしているところを応星は気まずそうに見た。そうしておずおずと手を離し、頭を掻く。どうしても既視感は拭えず、頭の向こうに靄がかかったかのような不快感だけが残る。
一体どうしたものかと応星は溜め息を吐くと、青年が何かを探すような仕草を取った。きょろきょろと辺りを見渡し、「あ」と声を上げて捜し物を見つけた視線を辿れば、そこには地面に転がった赤い果実が落ちている。
赤く熟れた丸い姿のりんご。それが――落ちた衝撃で欠けてしまっていた。
ゾッと背筋に冷たいものが走る。
「あれは買ったものか?」
そう、当たり前のことを訊けば、彼はりんごに手を伸ばしながら「はい」と告げた。
「兄が珍しく甘いものを欲しがっていたものですから、適当に目に入ったものを買ったんですけど」
彼はりんごについているであろう土埃を払うが、傷付き欠けた部分を目にして言葉を切る。これはもうだめですね、と続いたであろう言葉を呑み込み、半ば諦めるようにほう、と吐息を溢した。
その様子がまた記憶を揺さぶったような気がしたが、それよりも早く応星の手がエコバッグへと伸びる。ふと、視界に入ったそれを応星も買っていたのだ。アップルパイにするもよし、齧り付くのもよし。そういった感覚で買ったものがこんなところで役に立つと思わなかった。――そう言わんばかりに、応星は彼の手からそれを取り上げる。
「偶然にも同じものを買っているんだ。詫びと言ってはなんだか、受け取ってくれ」
「けれど」
「俺も何となく買っただけなんだ」
だから受け取ってくれると助かる。
そう言って半ば押しつける形でりんごを交換すれば、彼は漸く諦めたかのようにそれを受け取る。傷ひとつもなく、綺麗な形をしたそれをじっと見つめたあと、「ありがとうございます」と二度目の礼を溢した。
そうしてじっと、先程の応星のように黙って顔を見つめてくるのだ。
陰りのある瞳は、まるで応星を見透かしているようにも見えて、思わず息を呑む。ごくりと生唾を呑み込む音がいやに響いた気がして、応星は逃げるように「もしも」と言う。
「詫びにもならなければ、後日改めて、でもいいんだが……」
レジで味わったあの視線の針とは異なったそれにたじろいで、思わず紡いだ言葉は突拍子もないものではあった。実際こんなことを言われれば、応星が相手の立場であったとしても迷惑だと言って断りを入れるだろう。当然、目の前の彼も首を左右に振ってから「いいえ」と言うものだから、じとりと嫌な汗をかく。
どうにも先程から自分らしくはないと、心中で涙を流しながら応星は「そうか」と言った。「俺もぶつかってすみませんでした」
彼は淡々とした様子で頭を下げたあと、踵を返して街の中を歩く。
その背を見送ってから一息吐いて、見境もなく買った食材を肩にかけながら、何を作ろうかと独り言を洩らすのだった。