ぐつぐつとひと煮立ちさせた鍋の火を止めて、彼は台ふきんを片手にテーブルを拭く。小さい頃から使っているテーブルは年季が入っていて、そろそろ買い替え時かと考えながら応星は流しへと立った。蛇口を捻り、勢いよく出てきた水でふきんを洗ってから、水気を絞り、専用のハンガーに干す。あとは味が染みこむのを待つだけだと呟いて、満足げに腰に手を当てた。
適当に買った野菜やら何やらの中にカレイが二匹、ぽつんと存在を放っていた。買った記憶もないほど、無造作に手を取ったのかと疑いたくもなるそれに、唸ってから煮付けにしようと心を決める。家に居座っているのは自分の他に、同じような体型の弟である刃が一人。これでは物足りないだろうと思い、豚肉と野菜の炒め物でも添えてやろうと彼は頷く。
夕飯を全て作るにはあまりにも早い時間に、応星は炊飯器の蓋を開けた。少しも残らない白米の様子に彼は満足しながら、今日の分の米を炊く。いくらでも食べられるように二合ではなく、三合入れてやって。再び蛇口を捻り米を洗う。夏よりもいくらか落ち着いてきた気候には冷水は少しだけ冷たくて。冷えた指先を応星は見つめてから「秋めいてきたな」と呟く。洗濯物を干すのに困らなかった日差しも、これからは空模様を窺わなければならない。そう思えば多少憂鬱に思えたが――、食べ物が美味しい季節だと思えば、楽しみが増えるもの。さらりと米を洗ってから釜の水気を拭き取り、炊飯器へと戻す。そのままスイッチを押して炊飯器の軽快な音を聞いてから、身支度をする。
刃は未だ帰ってきた様子はないが、時刻はとうに十七時を回っている。あと数十分もすれば彼は帰ってくるだろう。不思議なことに成人した今も刃は反抗期を迎えることはなく、夜遊びをすることもなく家に帰ってくるのだ。どれだけ夜遅くになろうとも、帰ってきては食事を済ませ、風呂を済ませて静かに眠る。そうして朝を迎えたあと、また時間通りに仕事をこなしに行き、いつものように帰ってくる。
何とも健気な弟だと思いながら応星は沸かした風呂に入ろうと、浴室の扉を開けた。
ぶわりと扉に押し込められていた湯気が一気に彼の顔に襲いかかる。湿気を含んだそれに多少の息苦しさを覚えつつ、長い髪を留めている髪留めを外す。手入れなどした覚えのない髪だが、痛んでいる様子はこれといってない。だが、女性たちのように手入れを行っているわけでもないそれは、ぱさりと小さな音を立てて応星の背に垂れる。何年もの間切ってもいない白髪は、今では腰の辺りにまで伸びていた。一度でも切ろうかと悩んだこともあるが、何故だか妙な抵抗感を覚えてしまって、今の今までだらだらと伸ばし続けている。
男のくせに何て女々しい、と何度匠に言われたことか。その度に応星はハッと鼻で笑い、「そんなに言うんなら、俺より好かれる作品を仕上げてみたらどうだ」と、何度刃向かったことだろうか。今では誰もが応星の髪を気にすることはなくなり、寧ろ手入れをしているのかと訊かれるほどだ。
女でもないのだから手入れなど必要ないだろう。
そう彼は思いながら服を脱ぎ、ドラム式の洗濯機に押し込みそのまま浴室へと足を踏み入れる。たまには入浴剤の類いを使ってみようかと思うものの、結局は何がいいのかも分からず、ただ透明なままのお湯が張っているだけだった。それを横目に彼は蛇口を捻る。頭から降り注ぐそれが、初めは水になっていることから思わず肩を震わせ、うわ、と声を上げるものの、数十秒もすればすっかり人肌程度の温度へと変わり、みるみるうちに温かくなった。
「……はあ」
頭から浴びるシャワーがあまりにも心地よく、無意識に出た溜め息に応星は自分で「おっさんみたいだ」と自虐する。心持ちは未だ若い気持ちでいるが、体はそうでもなさそうだ。肩の荷を下ろすよう、一度だけ肩を竦ませゆっくりと下ろした。妙な疲労感を覚えているが、その理由がスーパーに行った際の戦争――もとい、安売り目当ての人集りに突っ込んだからだと言えば、友人である景元は笑うだろうか。
随分年寄りのようなことを言うね、――なんて言う様を思い浮かべ、応星はシャワーから顔を逸らした。そうして視界に入る備え付けの鏡に自身の体が映るのを見て、藤紫色の瞳を一度、瞬かせる。
二十歳の頃に比べたら多少は体付きが良くないだとか、たまには鍛えようかだとかを考える頭の片隅で、今に始まったことではない疑問がふつふつと湧いた。
体の上半身までが映る湿気った鏡に映るのは一人の男の姿。がたいがよく、胸板は厚く。女からすれば誰もが放ってはおかないであろう応星の胸元には、ひとつ異様に存在を放つ変色があった。あまり大きくなければ、小さくもない――直径三センチから五センチはありそうなそれは、痣のようにしつこくこびり付いている。物心ついた頃から刻まれていた痣は、成長するにつれて薄くなることはなかった。
その痣が気になって一度だけ調べたことがある。現代にはスマートフォンやらパソコンやらが普及しているので、学生だった応星も簡単に情報を探ることができた。生まれつき体にある痣は前世に受けた傷――バースマークと呼ばれていたり、ツインレイという運命のパートナーとの出会いに関係があるという。
実際応星は身近に同じような痣を持つ人間を知りもしないし、同じように胸元に痣を持つ刃ですら浮いた話はひとつもない。それは成長した今でも変わらず、応星も刃も女の影すらなかった。
――特別この痣で困ったことなど彼は一度もない。気になりはしたが、信憑性のない記事を目にして「そんなものか」と思った程度であり、それ以降調べることもなくなった。
しかし。――しかし、だ。
風呂の度、服を脱ぐ度、嫌でも視界に入り込むそれを見ると、胸の奥がざわつくような感覚を得る。息が詰まり、蟠りが胸に残るような残留感を覚えて思考を掻き乱されるのだ。
理由など知りはしない。知っていれば恐らく応星は対処法を考えていたことだろう。痛みがあるような害はないが、それでも気味の悪さを払拭するためには努力を怠らなかったはずだ。
そんな彼が選んだ方法は、極力視界に留めないことだった。風呂に入るとき、着替えるとき。誰の目にも入らないよう手早く着替えを行って、応星自身も視界に入れないようにしてきた。いつしかその行動は癖となり、今では何の意識もせずとも視界に入らないようになっていたのだが、――今日ばかりは妙にそれが気になってしまった。
どうやら背中にまであるらしい円形の痣。青紫色に染まっているわけではなく、火傷痕のようにこびりつき、焦げたような痕跡。それがじくじく、じわじわと熱を帯びているような気がして、応星は自分の手を徐にその痣に触れる。さあさあとシャワーが流れ続ける音が遠く聞こえているように気がしてしまって――、視界の裏にちかちかと何かがよぎる錯覚を覚えた。
まるで、――そう、まるで、何かを思い出そうとしているような――。
――バタン
遠く遠く、小さく聞こえてきた物音が、扉の開閉音だと気が付くと応星はハッと肩を震わせた。知らず知らずの間に息を止めていたようで、気が付けば肩で浅い呼吸を繰り返している。つい先程、自分が何かを思い出すような気がしていたが、意識が戻った今、生まれつきの茶色い痣を見ても何も思えなかった。
刃が仕事を終えて帰ってきたのだろう。
そのことに応星は今日も安心感を胸に、風呂を堪能するのだった。